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2023/12/28
大今里
山田花子といえば、吉本興業の「山田花子」を一番に思い出す人が多いですが、実は漫画家でも同姓同名の方がいます。その漫画家の山田花子さんは、24歳で自殺しました。
「いじめ問題」と向き合い世の中の不条理さをマンガにして吐き出していたことでも知られていて、現在もなお山田花子さんの人気は再評価され続けています。
どうして、漫画家の山田花子さんは死ぬことになったのか?全作品を通してわかった事実をご紹介いたします。
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いじめを受けて、自殺未遂までおこしていた山田花子さん。最終的には24歳という若さで亡くなられましたが、今もなお彼女に影響される漫画家は後を絶ちません。
山田花子さんが、どのように漫画家になったのか?そして、代表作はどの作品なのか?調べてみましたのでご紹介します。
自殺未遂のあと、山田花子さんは不登校・引きこもりとなります。このときにお母さんのススメで雑誌『なかよし』の漫画スクールに入門します。何か打ち込めるほうが張り合いがあるだろうという母心でした。
中学3年生の時には、なかよしギャグまんが大賞で『明るい仲間』という作品が佳作として入選します。ペンネームは山田花子ではなく、裏町かもめでした。これが漫画家デビューのきっかけになります。
15歳で漫画家デビューを果たした山田花子(裏町かもめ)さんは、1983年に立川女子高等学校へ進学しますが、またもや学校生活がうまくいかず不登校に。その頃には、なかよしデラックスにて「明るい仲間」と「大山家のお子様方」が掲載され、5月号には「人間シンボーだ」も連載を開始します。
まずは、山田花子(漫画家)さんについての簡単なプロフィールです。山田花子さんはどこの出身で、どういう風な活動をされていたのでしょうか?
また、漫画家としての活動や作品がどのように評価されていたのか?調べてみました。
生年月日:1967年6月10日(24歳没)
本名:タカイチユミ
出身地:東京都千代田区
身長:162cm
体重:45kg
職業:漫画家・歌手
好きな漫画家:ガロを書いている人たち
好きな音楽:あがた森魚・セックスピストルズ
好きな食べ物:ハンバーグ・カレー・スパゲッティー
嫌いな食べ物:人参・セロリ・ピーマン
活動期間:1982年~1992年
ジャンル:ガロ系
受賞:なかよしギャグまんが大賞佳作・ヤングマガジン月間新人漫画賞
漫画家の山田花子さんは、1980年代初めから1990年代初めまでマンガを描かれていましたが、生まれは昭和42年の東京都出身です。
中学2年生から、発病したといわれる「人間不信」が精神分裂病と診断され、その後1992年の5月に帰らぬ人となりました。
漫画家の山田花子さんは、1967年(昭和42年)東京都千代田区三楽病院で生まれました。共産主義革命理論とマルクス主義を主張するトロツキストだった高市俊皓さんの長女として生まれます。
3歳の時には多摩市に引っ越しをして、そこで21歳まで暮らすことになります。赤ん坊のころは大人しくたくさん眠る子だったというから山田花子さんも、この時期が一番幸せだったかもしれませんね。
小さいときは、友達と遊ぶのが苦手で外に出ることなく「絵を書いたり図鑑・絵本」を読んでいたそうです。特に、『やっぱりおおかみ』という絵本がお気に入りで、自分でも画用紙に子りすが主人公となった絵本を作っていたといいますから、すでに才能が見え隠れしていますね。
漫画家の山田花子さんは中学時代に精神を病んでしまったといいます。さぞや辛かったと思いますが、それがその後の彼女の漫画スタイルにも反映されていくのですね。
山田花子さんが、中高生時代に精神的に追い込まれた原因や、その時どうなったのか?をくわしく調べてみました。
漫画家の山田花子さんは、自閉症だったといいます。今でこそ引きこもりは当たり前のように社会から認知されていますが、1977年ごろは、自閉症は治療がわからない現代の難病として、18歳未満では1万人に2人とされてきました。
2012年の文部科学省の調査では、小中学校で発達障害から自閉症になる児童は15人に1人といわれていますので、この差はなんでしょうね。もともと、社会がそういった精神が病んでいる子供たちをケアする体制が整っていなかったのでしょう。
漫画家の山田花子さんは、1979年に多摩市立和田中学校へ入学します。そして、中学2年生のときに激しいいじめにあい、リストカットを繰り返して最終的にはガス自殺も図ります。
救急車で運ばれて、なんとか一命はとりとめるのですが、このことが原因でその後の人生は人間不信におちいっていきます。今でこそ、自閉症スペクトラム障害(アスペルガー)は認知されていますが、この頃はかっこうのいじめの対象となったようですね。
小学校の時は成績がよく、観察面にすぐれていたため山田花子さんの自閉症という部分が中学校では見過ごされてしまったようです。
山田花子さんの小学校低学年の担任の先生からは、こちらから話しかけると話すが自分からはみんなに向かって話すことはない、聞いていないようで何でも理解している子と書かれていましたが、小学校高学年になると、集中力がかけ私語が多いが質問には正しく答えてくれると通知表で評価されていました。
中学高校といじめられて、学校へ行けなかった山田花子さん。漫画家としては中学3年生でデビューという輝かしいスタートを切りました。
その後の彼女の人生はどのように進んでいったのでしょう?調べてみました。
山田花子さんが漫画家デビューをして、立川女子高等学校へと進学していましたが、そこでもやはり学校生活がうまくいかずに「いじめ」にあってしまいます。このことで彼女はわずか1年で、女子高を中退し通信教育としてNHK学園を選択して編入します。
ちょうどこのころから青林堂が発刊していた個性派が集まっている漫画雑誌「ガロ」を読みふけます。特に根本敬は大ファンだったようですね。その後、山田花子さんは漫画家への道をいったん止め、デザインを勉強するために専門学校に入学します。
この時代の山田花子さんは、漫画よりも音楽に興味がでて特にインディーズ(自主製作)の筋肉少女帯や死ね死ね団のライブに通ったり、みずからバンドを結成したこともあるようです。
20代に入った山田花子さんは、再び漫画を描きはじめます。デザイン専門学校へ行きながら、個性派漫画雑誌「ガロ」に没頭していた彼女の漫画スタイルは、話のつじつまが合わないストーリーで一風変わったものへと変化していました。
1987年にヤングマガジンに投稿した「神の悪フザケ」がちばてつや賞の佳作にエントリーされて、その作品を書き続けていたのですが一般読者からは「意味が分からない、おもしろくない」と酷評を受けて、読者アンケートでもワースト1位(最下位)になってしまいます。
そのことで再び、担当編集者からはいじめにも似た辛辣な叱責がくりかえされて、それが怨念へと変わってしまいました。
担当編集者に怒られてからの漫画の内容は、そのまま雑誌担当者へのあてつけを描くなどギャグ漫画の域を越えて、恨み節がそのまま紙面に反映されるようになると連載は打ち切られ、山田花子はセクハラを受けたという根も葉もない噂や無言電話を雑誌社にかけることになります。
1991年ごろからは、過剰なダイエットや会話の途中で突然消え去ったり、妹を無視したりといった精神分裂病に見受けられる行動が顕著になっていきます。
1992年には仕事を求めて喫茶店でバイトをはじめますが、注文ミスの多発から解雇され精神錯乱状態となり緊急入院となりました。入院前日の3月3日から「魂のアソコ」を作成していましたが、一時退院のあと5月24日の夕方に山田花子さんは日野市の団地から飛び降りて亡くなったのです。
漫画家である山田花子さんの生涯は24歳と短すぎました。人を信用できずにもがき苦しんだ悲しすぎる人生です。
最後には、精神分裂病としてあの世へ行ってしまった山田花子さん。きっと天国では安らかに楽しく明るい世の中を漫画にしているに違いありません。
ご冥福をお祈りします...
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