2024/02/16
r.y6
中村玉緒は京都市出身であり、父親は歌舞伎役者の二代目 中村鴈治郎です。父親は大映映画の脇役として貴重な存在でもありました。兄は四代目 坂田藤十郎であり、義兄が若山富三郎、義姉は扇千景(四代目 坂田藤十郎の妻)という家系に育っています。
中村玉緒は2005年に声帯ポリープの除去手術を受けており、その後に全快しています。中村玉緒は1日にたばこを2箱吸うというヘビースモーカーでした。退院会見で彼女は、「結婚の条件でやばこを止めろと言われたが35年やめられずバチがあたった」と語っています。
手術後には禁酒や禁煙を行ったものの、再びたばこを吸うようになっています。
中村玉緒は、パチンコやパチスロ好きとして知られています。テレビ番組にも、パチンコやパチスロの関係で出演することがあるほどです。現在でもほぼ毎日のように通っているといい、店舗での目撃情報がインターネットで流れることもあるという話があります。
また、中村玉緒のキャラクターがCR機にも起用されています。例えば、『CR玉緒でドッカン!!Z』が2002年に導入されました。
最近ではテレビで見る機会も減ってきた印象のある中村玉緒ですが、現在はどうしているのでしょうか。続いては、中村玉緒の現在について迫ってみたいと思います。
中村玉緒は死去したわけではありません。現在も生きており、健在です。2010年頃に、インターネットで中村玉緒が病気で亡くなったという説が流れましたが、それはデマです。噂が流れたのは、中村玉緒がその頃からあまりテレビに露出しなくなったことも一因として考えられます。
中村玉緒は1939年7月12日生まれであり、2022年6月現在は82歳となっています。2022年7月12日で83歳を迎えます。
以前の中村玉緒は60キロ近くの体重がありましたが、75歳の頃に9キロ減量して48キロになりました。ダイエットに挑戦したきっかけは、2014年に大相撲の観戦に訪れた際に、その模様がテレビに映ったのを見て「太ったな」と感じたことだったといいます。
大相撲は、プチシルマ(付型一般医療機器)で有名な株式会社レダの加畑雅之会長が招待したものであり、ダイエットも加畑雅之会長が勧めたのでした。中村玉緒は、2014年に株式会社レダのイメージキャラクターに起用されており、その契約直前に大相撲に招待されたのです。
ダイエットの方法としては、2年近くを費やして運動(ウォーキング等)や食事制限などをしました。かなり痩せた病気ではないかと心配の声もありましたが、病気で痩せたわけではありません。
2020年11月に、中村玉緒は個人事務所の代表取締役に就任しました。この個人事務所は、元は中村玉緒の娘が取締役を務めていたといいます。しかし、娘は病気により歩行困難となり、社長を退任したとの報道がありました。
車いす生活になったとも報じられましたが、中村玉緒の所属する長良プロダクションは娘が車いす生活になったことを否定しています。ただ、中村玉緒が個人事務所の代表取締役になったことは、中村玉緒のWikipediaにも記載されています。
2021年1月にインスタグラムのアカウントを取得し、投稿をしています。また2021年3月には、YouTubeチャンネル『中村玉緒の今日のことは今日で忘れる』を開始しました。
中村玉緒がこれまでどういった活躍をしてきたのか、気になる方もいるかもしれません。続いては、中村玉緒の経歴について迫ってみたいと思います。中村玉緒はどの様な経歴を持っているのでしょうか。
中村玉緒は、1953年に本名の林玉緒(旧姓)で松竹映画『景子と雪江』にて映画初出演しています。中村玉緒は、大野芳子役で出演しました。しかし、その後は呼ばれることはなかったといいます。
それでも中村玉緒は、どうしても女優になりたかったといいます。そこで彼女は、親戚でもあり大映の重役でもあった俳優・長谷川一夫に頼み込み、1954年に大映へと入社することになりました。中村玉緒の初年度の給料は、当時としては破格となる2万円でした。
優遇されており、撮影所まではハイヤーで送り迎えがあったとされています。
ちなみに、1954年当時の公務員のお給料は、大卒初任給で8.700円、高卒初任給で5.900円とされています。
1960年代半ばまでは、市川雷蔵や山本富士子などといった錚々たるスター達を支える脇役として活躍しました。当時の中村玉緒は、純情な娘役を演じることが多かったでしょう。なお若い頃の中村玉緒は、高めの可愛らしい声をしていたといいます。
1970年代に入ってからは、テレビドラマの脇役を担っています。”痛々しく健気な母親”の役が得意であり、評価されていました。
1994年に明石家さんまの番組に出演したことで、中村玉緒はブレイクしました。天然ボケのキャラクターが人気となったのです。以降は『さんまのSUPERからくりTV』など、明石家さんまの番組の常連となりました。
例えば、正月特番の『さんま・玉緒のお年玉!あんたの夢をかなえたろかスペシャル』にも出演しています。
中村玉緒は、2011年に京都名誉観光大使に就任しました。中村玉緒が京都出身ということもあるでしょう。なお京都名誉観光大使には、他に片岡仁左衛門が任命されています。過去には、故森光子や故ドナルド・キーンも就任していました。
中村玉緒の夫は、映画『座頭市』などで知られる俳優の勝新太郎です。ここで、中村玉緒と勝新太郎の馴れ初めについて迫ってみたいと思います。2人は、どの様にして結婚に至ったのでしょうか。
中村玉緒と勝新太郎は、1962年に結婚しました。中村玉緒が22歳の時でした。勝新太郎は中村玉緒の8歳年上であり、当時30歳です。なお、結婚にあたりプロポーズといったものはなかったといいます。
中村玉緒と勝新太郎は大映の同期でした。中村玉緒22歳だった1955年に、映画『かんかん虫は唄う』で勝新太郎(当時24歳)と初共演をしています。その頃には既に、中村玉緒は勝新太郎に惹かれていたのでした。しかしそれは、恋愛感情というよりも”ファン”のような感覚だった模様です。
1960年には、映画『不知火検校』で2人は再共演しました。この際には、勝新太郎の方が中村玉緒に魅了された模様です。勝新太郎が開いたパーティーに招待され、盛り上がる中で中村玉緒は勝新太郎のマネージャーに外へと連れ出されたといいます。
そして、そのマネージャーに「勝さんのこと好きですか」と聞かれ、中村玉緒は「好きか嫌いかでいうと、好きです」と答えたのでした。
勝新太郎のパーティーから1週間後に、彼からマネージャーを通して『結婚を前提にお付き合いをしたい』との申し込みがありました。後に中村玉緒は、『恋愛をしたことがなかったから、それがよかったのではないか』ということを語っています。
通常の恋愛であれば、ご飯を一緒に食べるなど段階を踏むものかもしれませんが、中村玉緒と勝新太郎の場合はそういったことがなかったのです。
交際中には、中村玉緒が撮影をしている最中に勝新太郎が迎えにくることがあったといいます。その際には、「勝さんが来ているから」と言って中村玉緒は撮影を早めに切り上げたこともありました。撮影の監督やスタッフも、勝新太郎が来ているとなれば彼女を引き留めるわけにはいかなかったのかもしれません。
中村玉緒に子供がいるのか、気になる方もいるでしょう。ここで、中村玉緒の子供について
探ってみたいと思います。中村玉緒には子供がいるのでしょうか。
1962年に、長女である奥村真粧美が誕生しました。娘は1980年に『警視-K』で女優デビューしています。しかしその後は、母親のマネージャーのような活動を行っています。2022年に60歳よなるでしょう。
1964年には、長男も誕生しています。長男は、俳優の鴈龍(がんりゅう・元の鴈 龍太郎)です。彼は、1989年に本名である奥村雄大(たけひろ)として俳優デビューしました。鴈龍の人生は、トラブルにも見舞われています。
中村玉緒の娘と息子は、1982年に揃って大麻密売の容疑で逮捕されています。しかもそれだけではありません。息子の鴈龍は、2年後の1984年にも大麻取締法違反で再度逮捕されました。
鴈龍は、父親である勝新太郎が監督を務めた映画『座頭市』でデビューしています。この際には、五右衛門一家の親分役を演じました。しかし撮影をしていた1989年に、小道具の刀真剣にすり替わっていました。実際に切れてしまう刀だということです。それを知らずに、鴈龍はその真剣をリハーサルで使用しました。
その歳に、斬られ役を担っていた殺陣士が斬られ亡くなってしまったのです。真剣は、当時の助監督が鴈龍に持たせたといいます。そして、80人ほどが入り乱れる乱闘シーンで真剣が使われたのです。
真剣を持たせた理由について、助監督は『演技に迫真力を出すため』としていました。調べの中では、監督である勝新太郎が息子の演技を引き立たせるために真剣を持たせた、という見方も浮上しました。しかし真剣を持たせることを勝新太郎は支持しておらず、監督の責任も問われていません。
その後業務上過失致死と銃刀法違反により、鴈龍や助監督、小道具のスタッフが書類送検されました。鴈龍は初めは『真剣と知らなかった』と言っていましたが、後に『真剣としりつつ撮影に使っていた』と供述したのです。そして、業務上過失致死罪により罰金20万円の略式命令を受け、事件は収束しました。
映画『座頭市』も公開にこぎつけており、鴈龍は1年の謹慎後にVシネマや映画に出演しています。
実は、息子の鴈龍は既に亡くなっています。中村玉緒は、夫だけでなく息子にまで先立たれたのです。では、鴈龍の死因は一体何だったのでしょうか。最後に、鴈龍の死因について迫ってみたいと思います。
鴈龍は、2019年11月1日に55歳で死去しました。鴈龍として活動をしていたものの、亡くなる前には芸名を”鴈龍太郎”に戻していました。そして、2017年まで舞台で活躍していたといいます。
鴈龍の死因は、急性心不全でした。鴈龍は名古屋市で死去しています。連絡が取れないことを不審に思った知人が訪ねたところ、亡くなっていたのです。一人暮らしであり孤独死だったといい、発見されるまでに数日がかかったのでした。また彼は、生涯独身でもありました。
母親である中村玉緒は、鴈龍に対してずっと『きちんと仕事をしてほしい』と訴えていました。中村玉緒自身も80歳を迎えるという頃に、『私が面倒をみているかぎり、あの子が立ち直ることはない』と思い至ります。そして、長女と相談をして鴈龍と絶縁をしていました。
鴈龍への経済的な援助も打ち切っていたのです。心を鬼にして、息子を敢えて突き放したのでしょう。ただ鴈龍が本当に怠けていたのかというと、そういったことはないものと考えられます。思うように仕事ができないこともあった模様ですが、芝居の仕事は楽しんでやっていたでしょう。
鴈龍の葬儀は、2019年11月29日に執り行われました。仕事のスケジュール調整を行った中村玉緒も参列しています。葬儀は近親者のみで行われたといい、この時点で既に納骨も済ませていたといいます。中村玉緒は憔悴していたといい、長女が付き添っていたでしょう。
その後、鴈龍は父親の勝新太郎と同じ名古屋市のお墓で眠っています。
中村玉緒は、現在は82歳となり健在です。痩せたと話題になりましたが、それはダイエットをした効果でしょう。また中村玉緒は、インスタグラムやYouTubeにも取り組んでいます。夫である勝新太郎とは大映の同期であり、映画での共演もしています。
意外にも、勝新太郎は中村玉緒に対して慎重なアプローチをした模様です。それほどに中村玉緒に惚れ込んでいたのかもしれません。勝新太郎は1997年に65歳で亡くなっていますが、中村玉緒は『生まれ変わってもあの人と一緒になりたい』とも言っています。
長男も2019年に亡くしている中村玉緒ですが、これからも元気で長く活躍して欲しいものです。
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