木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
伊良部秀輝さんは、1987年度のドラフト会議で、ロッテ・オリオンズから1位指名され、契約金5,000万円、年俸500万円(金額は推定)で契約、入団しました。
初年度となる1988年より1軍のマウンドを経験し、2年目には球速・156km/hを記録するなど速球派でしたが、コントロールが悪く、入団後数年は試練の時が続いていました。
1990年は8勝を挙げたものの、1991年は3勝にとどまりました。1992年もリリーフ中心の起用で、勝ち星を挙げることができませんでした。
1993年には、球速158km/hを記録し、シーズン後半から投球のコツを掴み7連勝を記録し、ローテーション投手として固定されるようになりました。
1994年は初めて、ファン投票でオールスターゲームに出場し、第1戦で球速159km/hを記録し、オールスターゲームを大いに盛り上げました。また、最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得しました。
1995年には、初の開幕投手を努め、最優秀防御率と2年連続の最多奪三振のタイトルを獲得します。
1996年は、2年連続で最優秀防御率のタイトルを獲得しました。
1996年にオフに「メジャーに挑戦したい」と表明し、中学時代からの夢だったというニューヨーク・ヤンキース入団を実現するために、メジャーリーグ挑戦を決意します。
しかし、伊良部秀輝さんにはFA権がなく、ロッテ球団が持つ保有権が障害となっていました。ロッテ球団はサンディエゴ・パドレスと交渉し、シェーン・デニス投手、ジェイソン・トンプソン外野手の両選手と伊良部秀輝さんの交換トレードを成立させます。
しかし、伊良部秀輝さんはあくまでもニューヨーク・ヤンキースとの契約を熱望し、代理人を通してパドレスへの入団を拒否し、日米球界を巻き込む騒動となりました。
パドレスは、2選手プラス300万ドルの金銭を交換条件に伊良部秀輝さんの保有権をヤンキースにトレードすることに合意し、伊良部秀輝さんは三角トレードという形で念願のヤンキースに入団することとなりました。
日本人で初めてのニューヨークヤンキース契約選手となりました。
ニューヨークヤンキースで、3シーズンプレーした後、1999年12月に、モントリオール・エクスポズに移籍し、在籍した2シーズンは、怪我のため、まともに登板することが出来ませんでした。
さらに、怪我のリハビリ期間中に、遠征先でチームメイトと食事をした際に酒を飲みすぎ、意識不明となって病院に搬送されたことが原因で7日間の謹慎処分を受け、その後、解雇されてしまいます。
2001年12月にはテキサス・レンジャーズとマイナー契約を結び、2002年のシーズンはリリーフとして開幕メジャー入りし、クローザーとして活躍します。しかし、7月に肺血栓が見つかり、シーズンが終了しました。
2002年12月に阪神に移籍することが発表され、MPBに約6年ぶりに復帰しました。
2003年のシーズンは、13勝をあげるなど、阪神のリーグ優勝に大きく貢献しました。しかし、2004年のシーズン前のキャンプで暴行事件を起こし、シーズン中は、登板数3試合、防御率は13.11という不調で、オフに解雇されました。
そして、2005年の開幕直前に、最初の引退宣言を行いました。
阪神タイガースを解雇となり、引退宣言を行った後には渡米し、永住権を取得し、うどんのフランチャイズチェーン店「SUPER UDON」を開業して実業家をしていました。
2009年4月には北米独立リーグでプレーし、8月には独立リーグに加盟する高知ファイティングドッグスに入団しましたが、怪我のため契約解除となり、2010年1月にブログで2度目の引退表明をしました。
続いては、伊良部秀輝さんの死因について詳しく見ていこうと思います。
伊良部秀輝さんは、今から11年前の2011年7月27日に死去しているのが自宅で発見されました。当時、42歳でした。
伊良部秀輝さんは、自宅で、首を吊って亡くなっているところを発見されています。連絡が取れなくなったことを心配した知人が警察に連絡したのだそうです。
自殺であることが、28日に遺体を安置していたカリフォルニア州ロサンゼルス郡保安官事務所から公表されました。
司法解剖の結果、伊良部秀輝さんの体内から大量のアルコールが検出され、酔った状態で自殺したと考えられています。
伊良部秀輝さんが自殺した当初は、自殺の原因としては経営していたうどん店『SUPER UDON』の失敗や、妻や子供との別居があると報道されていました。
伊良部秀輝さんは、アメリカに住んでいましたが、日本が好きで日本に帰りたいと周囲に話していたそうです。
本当は日本で野球に関わりたい気持ちがあったそうですが、過去の暴行事件や飲酒運転での逮捕など、日本球団からは距離を置かれていた伊良部秀輝さんには、コーチなどの声もかからず夢が途絶えていました。
その事を悲観していたとも言われています。また、精神科に通っていたという噂もあったようです。
死後に、友人や関係者が伊良部秀輝さんの自宅前に献花台を設置し、早すぎる死を悼みました。
阪神タイガース有志一同からも献花がありましたが、伊良部秀輝さんの妻は早々に献花台を撤去してしまい、話題となりました。
続いては、伊良部秀輝さんの生い立ちについて見ていこうと思います。
伊良部秀輝さんは、1969年5月5日に沖縄県で生まれています。その後、引っ越しを市、育ちは、兵庫県尼崎市です。
父親はスティーブ・トンプソンといいアメリカのシカゴ出身です。野球選手を目指していたこともありましたが怪我のため諦め、18歳でアメリカ空軍に入隊しています。
父親が沖縄に赴任時に、コザ市のレストランで働いていた、伊良部秀輝さんの母・和江さんと知り合ったそうです。そして和江さんは伊良部秀輝さんを出産しました。
伊良部秀輝さんが生まれた年に、父親はアメリカに戻ることになり、「すぐに沖縄に戻ってくる」と言い残して帰国しましたが、その約束は果たされることはありませんでした。
その後、母親は、伊良部秀輝を連れて尼崎に引っ越したようです。
若草中時代にボーイズリーグの兵庫尼崎でプレーし、4番のエースとして活躍し、香川県の強豪である尽誠学園に誘われ進学、甲子園出場を果たしています。
伊良部秀輝さんは、メジャーデビュー後に名乗り出てきた父親スティーブ・トンプソンと対面しています。
生き別れた父親を探すためにメジャー入りを希望したとも言われましたが、伊良部秀輝さん自身は「父親がアメリカ人とは知らなかった」と否定しています。
父親が名乗り出てきて初めて母親に確認したところ、そうだと言われて知ったのだそうです。
死因は自殺とされている伊良部秀輝さんですが、遺書はあったのでしょうか。
当初、遺書は見付かっていないと報道されていましたが、その後に遺言状が見付かっていることが判明しました。
遺言書には、ロサンゼルスのリトルトーキョーにある、東本願寺別院に納骨して欲しいなどが綴られていたそうです。
続いては、伊良部秀輝さんの結婚していた相手について見ていこうと思います。
伊良部秀輝さんは、1997年に28歳で、知人の紹介で知り合った京淑(きょんす)という韓国人女性と結婚しました。
妻の旧姓は金光といい、実家はパチンコ店の経営をしていたとされています。
伊良部秀輝さんと嫁は、上手くいっていなかったそうで、伊良部秀輝さんが自殺した際は、別居中だったともすでに離婚していたとも言われています。
そんな中で、伊良部秀輝さんは自殺しました。
伊良部秀輝さんの姉によると、葬儀から1か月もしない頃に妻が実家にやってきて、「ここ(寺の名前)に(お骨を)入れました」と突然明かしたそうです。
伊良部秀輝さんの妻は、四十九日を待たずに、千葉市内のお寺で無縁仏にされていたそうです。
続いては、伊良部秀輝さんの子供さんについて見ていこうと思います。
妻・京淑さんとの間には娘が2人いることが分かっています。
娘のうちのどちらかの名前が、”夏輝”だということが分かっていますが、年齢や何をしているかなどは一切情報として出回っていませんでした。
甲子園で注目され、ドラフト1位でプロ野球界入りし、日本で活躍したのち、メジャーリーグでも活躍された伊良部秀輝さんについてご紹介してきました。
プロ野球選手として活躍されましたが、お酒での失敗が多く、日本球界での仕事をすることがかなわず、悲観していたといいます。自殺した際も大量のアルコールを接種していたようです。
プロ野球選手として輝かしい成績を残した伊良部秀輝さんの早すぎる死に、多くの人が驚き、死を悼みました。ご冥福をお祈りいたします。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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