2024/02/16
r.y6
加藤治子さんは、1964年にドラマ『七人の孫』で母親・北原里子を演じ、この母親役が当たり役となり人気を集める事となりました。
このドラマは、森繫久彌さんが演じる明治生まれの祖父を中心とした、大正生まれの父母、そして7人の孫(高橋幸治さん、松山英太郎さん、いしだあゆみさん、島かおりさん、勝呂誉さん、長谷川哲夫さん、田島和子さん)が織りなすホームドラマで、最高視聴率33.3%を記録した作品です。
その後、様々なドラマ、映画などに出演し、数々の昭和の母親役を演じました。
代表作は向田邦子さんのドラマ「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」、映画「花いちもんめ」「マルサの女」などがあげられます。
三船敏郎さん、丹波哲郎さん、三國連太郎さん、若山富三郎さん、藤岡琢也さんなどと夫婦役で多く共演しており、『七人の孫』出演以降は妻、母親役で活躍しました。
また、いしだあゆみや樹木希林さん、平田満さんとの共演も多く、新御三家(郷ひろみさん・西城秀樹さん・野口五郎さん)の母親役も演じました。
向田邦子さんとは公私ともに親しく、向田作品では常連出演者で、キーマン役を務めることも多かった女優です。
”昭和のお母さん”として活躍した加藤治子さんですが、女優になった経歴などはいったいどんなものなのでしょうか。詳しく見ていこうと思います。
加藤治子さんは、松竹歌劇団(しょうちくかげきだん)の劇団員養成機関である松竹少女歌劇学校を経て、1937年に御舟京子(みふねきょうこ)として松竹少女歌劇団に入団しました。
松竹歌劇団は、1928年から1996年まで活動していた、レビューおよびミュージカル劇団です。出演者が女性で占められる「少女歌劇」で、宝塚歌劇団と人気を競っていました。
松竹歌劇団で活動した後、1939年に東宝に迎えられて、高峰秀子、清水美佐子が主演をつとめた『花つみ日記』で映画デビューしました。
その後は、榎本健一などの相手役など、数本の映画に出演しています。
1941年には、慶応義塾大学の学生であった加藤道夫らにより結成された、新演劇研究会に入団しています。
新演劇研究会は戦後、“麦の会”として再出発しており、1949年に文学座に合流しています。文学座は1937年に設立された劇団で、現在は角野卓三さんが代表を務めています。
加藤治子さんは、文学座合流後は、主役級で活躍しました。
1963年には、高橋昌也さんら中堅・若手劇団員29名と共に文学座を脱退し、劇団雲の設立に参加しています。
当時、文学座は大女優の杉村春子さんの独裁体制に反感を抱いた人々が脱退し、分裂の危機を迎えていた頃でした。
加藤治子さんは、1975年に退団しています。
若い頃の画像は、ネット上でたくさん見ることが出来ます。
デビュー当時から綺麗であり、年齢を重ねていっても可愛らしさと美貌は変わらなかった女優です。
女優として活躍を続けていた加藤治子さんですが、結婚はしていたのでしょうか。詳しく見ていこうと思います。
1946年に、劇作家の加藤道夫さんと24歳で結婚しています。馴れ初めは、加藤道夫さんらが結成した新演劇研究会に加藤治子さんが入団したことであると考えられます。
加藤道夫さんは、慶應義塾大学英吉利文学科に入学し、在学中の1941年(昭和16年)、芥川比呂志、原田義人、鳴海弘(鳴海四郎)、鬼頭哲人らと研究劇団「新演劇研究会」を結成しています。
1944年には、陸軍省通訳官として南方へ出征、戦後、終戦事務・戦犯通訳の仕事に従事したのち帰国しています。
その頃、出征前に書き上げていた代表作でもある「なよたけ」は、雑誌『三田文学』に連載発表中でした。
東京女子経済専門学校で、勤めるなどしながら、戯曲・放送劇・エッセイ・評論を発表し、劇作家として活動していた人物です。
1953年に突然自室の書斎で、加藤道夫さんは首吊り自殺をしました。木棚の上段のパイプに寝巻の紐をくくりつけ、床から腰が少し浮いた状態を、帰宅した加藤治子さんが発見しました。
1953年に静岡県の嵯峨沢温泉に加藤道夫さんは宿泊しながら、ミュッセの翻訳『マリアンヌの気紛れ』を仕上げています。その際、12月9日に加藤治子さん宛てに、体調は良い、16日の夜には帰るなどの内容の手紙を出しています。
そして、自宅に帰宅したのち、自室で自殺しました。
遺書も見付かっており、「僕は幼にして罪を犯され、その記憶が、いまに忌しく、地獄の苦しみ…」という内容が書かれてあり、幼いころに誰かから悪戯(わいせつ行為)をされた体験があったことがうかがわれました。
また、文学座あての遺書には「芸術上の行き詰り」とも書かれており、加藤道夫さんは自殺時、うつ状態だったのではないかとも言われています。
胸を患い度々療養しており、精神面も不安定だったようです。
加藤道夫さんの自死から5年後の1958年に、俳優であり演出家の高橋昌也さんと再婚しています。劇団四季出身で、バイプレーヤーとして活躍された俳優です。
加藤治子さんが36歳の時のことです。
1958年に、俳優であり演出家の高橋昌也さんと再婚した加藤治子さんですが、その後離婚したようです。
高橋昌也さんとは、再婚から15年後の1973年に離婚しています。加藤治子さんは51歳の時です。
離婚の原因は“多忙によるすれ違い”とされています。
このころ、加藤治子さんはテレビドラマを中心に多数の作品に出演しており、多忙だったことが想像できます。
生活時間が不規則になり、顔を合わせる機会が減ると、どうしてもすれ違ってしまうのでしょう。
高橋昌也さんは加藤治子さんと離婚した翌年に再婚、1999年に離婚、さらに同年、再々婚しています。
1993年、末期の食道癌と診断され食道を全摘出する手術を受けますが回復し、演出家、俳優として活躍していました。
2014年1月16日に83歳で呼吸不全により亡くなりました。
2度、結婚している加藤治子さんですが、子供はいたのでしょうか。
加藤道夫さんや高橋昌也さんとの結婚歴はありますが、仕事を優先されたから、理由は分かりませんが、加藤治子さんには子供がいません。
母親役を多く演じていたため、子供がいるイメージですが、加藤治子さんには子供がいません。
加藤道夫さんとの結婚生活では子供に恵まれなかったようです。また、高橋昌也さんと再婚した際は、36歳になっていました。
加藤道夫さんと結婚期間は、加藤道夫さんが病気がちだったようですし、高橋昌也さんとの結婚期間は仕事が多忙だったこともあり、子供を望まなかったのかもしれません。
高橋昌也さんと51歳の時に離婚してからは、ずっと独身を貫きました。
女優として、長きにわたり活躍してきた加藤治子さんですが、2015年に亡くなりました。最期について詳しく見ていこうと思います。
加藤治子さんは、2015年11月2日に、世田谷区内の自宅で亡くなりました。92歳でした。
加藤治子さんの死因は、心不全でした。
3年ほど前から体調を崩し、前年から自宅療養を続けていたそうですが、容体が悪化し、最期は眠るように息を引き取ったそうです。
加藤治子さんは、自宅での1人暮らしであったため、マネージャーあるいは知人女性が交代で面倒を見ていたようです。
また、家族のいなかった加藤治子さんの遺産は、加藤治子さんの個人事務所の代表取締役兼マネジャーなど、5人の友人に相続されたそうです。
そして、驚くべきことに、その中の一人がなんと、高橋昌也さんの再々婚相手でありながら友人だった女性でした。
87歳の時にがんが見付かっていて、余命5カ月と宣告されていました。
1964年のドラマ『七人の孫』で共演し、その後もドラマ『寺内貫太郎一家』や、『ピップエレキバン』のCMなどで共演して親交の深かった、全身がんと告白している樹木希林さんが医師を紹介したそうです。
鹿児島にある病院に、樹木希林さんは、普段は一人で通っていたそうですが、加藤治子さんが病院に行く際、一緒に訪れていたそうです。
そして、1か月の予定で、加藤治子さんの放射線治療が始まりました。二人は治療の合間には、食事に出かけたり買い物に出かけたりと旅行に来たように過ごしていたと言います。
治療により、腫瘍は随分小さくなっていたそうで、加藤治子さんは予定より早く帰京したのだそうです。
治療の効果があって腫瘍が随分小さくなっていた加藤治子さんですが、樹木希林さんにお説教していたそうです。
加藤治子さんは、電話で「あなたのおかげで長生きさせてもらっているけど、仕事なんかなんにも来ないし、つまらないの。」「あなたが長生きさせたから、生きててもつまんない」と樹木希林さんに愚痴っていたそうです。
そのたびに「すみません、私が悪かったです」と樹木希林さんは謝っていたそうです。
長年、親交を深めてきた2人は、とてもユーモアにあふれ、遠慮が不要で、仲の良い様子がうかがえるエピソードですね。
故人の遺志により、家族葬が営まれ、お別れの会は開かれませんでした。家族葬には樹木希林さん、山崎努さん、風吹ジュンさんなどが参列されたそうです。
樹木希林さんは、「本当に美しい身じまいで……。『上出来だったわよ』と拍手しました」と葬儀後、コメントを出しています。
加藤治子さんと親交の深かった俳優の風吹ジュンさんは、プライベートでも「お母さん」と呼ぶ間柄だったそうです。
風吹ジュンさんは、「とにかく美しくて、皆さんに見ていただきたいほど眠るように穏やかな顔でした。」とコメントを出しました。また、何時も電気をつけたまま眠っていた加藤治子さんですが、最後の言葉は『今日は眠るから電気を消して』だったという話も明かしています。
亡くなった事が報道された際、西城秀樹さんは「東京のお母さんのような方だった」、浅田美代子さんは「いつまでも凛とした美しさを持ち続けていた方だった」等、共演したことのある俳優が多数惜しむコメントを出しました。
加藤治子さんは、声優としてスタジオジブリ作品にも出演しています。
1989年公開の『魔女の宅急便』に出演しています。
田舎町に住む魔女の血を受け継ぐ13歳の女の子、キキが主人公のこの映画は、『魔女として生きることを決意した少女は13歳の満月の夜に旅立ち、よその街で1年間の修行をしなければならない』という古くからのしきたりに従い、黒猫のジジと共に修行の旅に出て、空飛ぶ魔法を活かした宅配業「魔女の宅急便」を開業し、様々な経験を通じて成長していく物語です。
加藤治子さんは、キキが“ニシンのカボチャパイ”の配達を依頼される老婦人役で出演しています。ニシンのカボチャパイで、孫の事を思う優しいおばあさん役と聞くと、ピンとくる方も多いのではないでしょうか。
2004年公開の『ハウルの動く城』では、サリマン校長役を演じました。
帽子屋の少女ソフィーは、兵隊にからまれていた所を魔法使いのハウルに助けられる。その夜、魔女の呪いで90歳の老婆に姿を変えられてしまったソフィーは、帽子屋にいられなくなり街を出て、ハウルの動く城に出会い、物語が動生きだします。
サリマン校長は、ハウルが悪魔と取引をする前に師匠だった人物です。
遺作は2011年のドラマ「魔術はささやく」、最後の映画出演は2010年公開の山田洋次監督の「おとうと」でした。
「おとうと」で、家庭内で疎外感に苛まれながら老いていく義母役を演じた加藤治子さんは、撮影時はすでに80代半ばで、足も弱っていたそうで、出演者やスタッフも気遣っていましたが、年寄り扱いしないでほしいと迷惑がっていたそうです。
「おとうと」での加藤治子さんの演技を称賛するレビューが多数見受けられます。
母親役などで親しまれた、“昭和のお母さん”こと女優の加藤治子さんについてご紹介してきました。
2度、結婚した加藤治子さんでしたが、子供はいませんでした。しかし、ドラマ、映画で共演した多くの俳優からお母さんと慕われていたようです。
たくさんの出演作品を残された加藤治子さんのご冥福をお祈りいたします。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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