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2023/11/27
r.y6
加藤登紀子さんの家は、ロシアレストランを経営しており、レストランでは越路吹雪さんの歌やアズナブールやアダモのシャンソンのヒット曲がよくかかっており、シャンソンは身近な存在でした。
フランスのシャンソン歌手エディット・ピアフを好んで聞いていた、当時、東大在学中だった加藤登紀子さんは父親から、シャンソンコンクールに出ることを勧められます。
1964年第1回日本アマチュアシャンソンコンクールに出場し、自信満々で歌った加藤登紀子さんでしたが、結果は4位でした。
しかし、翌年もう一度出場し、1965年第2回日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝しました。
そして、翌1966年に『誰も誰も知らない』で、現役東大生でレコードデビューしました。続いて発表した、セカンドシングル「赤い風船」で、「第8回日本レコード大賞新人賞」を受賞しています。
1978年に中島みゆきさんから提供された『この空を飛べたら』がロングヒットとなりました。フジテレビ系で放送された全5回の連続ドラマ『球形の荒野』の主題歌となっていました。
中島みゆきさんから、加藤登紀子さんに楽曲が提供されたきっかけは、「世界歌謡祭」で『時代』を歌う中島みゆきさんに加藤登紀子さんが衝撃を受け、連絡を取ったことからでした。
中島みゆきさんの才能に惹かれ、楽曲作成を依頼したのだそうです。
加藤登紀子さんは、1995年6月21日に発生した『全日空857便ハイジャック事件』で、実母やバックバンドのメンバーと該当機に搭乗していました。
このハイジャック事件は、東京国際空港(羽田空港)発函館空港行きの当該機が、山形県上空で1人のオウム真理教(現・Aleph)の信者を名乗る中年の男にハイジャックされた事件です。
犯人は365人を人質に取って機内に立てこもり、サリンを所持しているとして客室乗務員を脅していました。その後、予定通り函館空港に着陸し、犯人は、麻原彰晃の釈放と、燃料を補給して羽田空港に引き返すよう要求していました。
乗客が犯人の目を盗んで犯人の服装や状況を連絡してきたこともあり、捜査当局は強行突入し、犯人の身柄を確保しました。
犯人は精神疾患で休職中の東洋信託銀行行員(当時53歳)で、オウム真理教とは無関係でした。また、所持していると主張したプラスチック爆弾は粘土で作った偽物で、サリンと思われていたビニール袋の中身もただの水でした。
人質となっていた人たちは、16時間あまりを緊張して過ごし、ようやく解放されたのでした。
加藤登紀子さんは、函館でのライブは中止にしましたが、翌日の苫小牧でのライブは開催しました。
2009年9月29日に、第2回トキ放鳥を記念し佐渡トキ環境親善大使に任命されました。
任命理由は、環境保全に熱心であること、名前に「とき」を含み、国産最後の「キン」を観るため、以前佐渡を訪れるなど、トキとの縁も深かったことから、加藤登紀子さんに声がかかったそうです。
加藤登紀子さんと言えば、獄中結婚をした人物として思い浮かべる人も多いかもしれません。続いては、加藤登紀子さんと旦那の藤本敏夫さんの馴れ初めなどを見ていこうと思います。
後述する加藤登紀子さんがTシャツとジーパンで東大の卒業式をボイコットした様子を見た、友人に「相談がある」と言われ行ってみると、同志社大学の学生であり学生運動を率いていた藤本敏夫さんがいたのだそうです。
学生の集まりで歌って欲しいと依頼されますが、加藤登紀子さんは歌と政治を絡めたくない、そんなことで利用しないでと断わりました。
その場は、朝まで飲み明かし解散したのだそうですが、その後、頻繁に会うようになり、交際に発展したそうです。
藤本敏夫さんは、1968年10月21日に、 国際反戦デー防衛庁抗議行動に参加したとして、11月7日に逮捕され、1969年6月まで勾留されていました。同年、内ゲバ激化に反論し、学生運動から離脱しています。
しかし、1972年4月に学生運動関連で、公務執行妨害・凶器準備集合などの罪で、懲役3年8か月の実刑判決を受け、中野刑務所に収監されました。
そんな中、加藤登紀子さんは妊娠が判明しました。
1年間のうち10カ月くらいは拘置所に入っているような学生のリーダーである元全学連委員長だった藤本敏夫さんとの交際を悩み迷っていた加藤登紀子さん。
そんな加藤登紀子さんに、母親は、「別れちゃだめ」「女は、誰かを思うことによって心の平和が保たれている。もしそれを無理やり別れたりすると、あなたはすごい危険な女になってしまう」と背中を押してくれたのだそうです。
1972年に、加藤登紀子さんは藤本敏夫さんと獄中結婚しました。
藤本敏夫さんが刑務所に入ることになったとき、加藤登紀子さんから結婚しようとプロポーズしたそうです。しかし、藤本敏夫さんは「三年も不在にする男がとてもそんなことをお願い出来ない」といい、加藤登紀子さんのプロポーズを断ったそうです。
しかし、藤本敏夫さんが収監されてから、妊娠している事が判明します。加藤登紀子さんは、藤本敏夫さんにもう一度連絡し、「獄中結婚」することとなりました。
また、加藤登紀子さんの両親は大賛成だったんだそうです。
そして、同年、加藤登紀子さんは女の子を出産されます。藤本敏夫さんが出所してきたとき、長女は1歳半になっていました。
東京大学在学中に歌手デビューし、藤本敏夫さんと獄中結婚をし、子供を出産した加藤登紀子さんですが、現在は、どうされているのでしょうか。
加藤登紀子さんは1943年12月27日生まれのため、現在78歳となっています。
ちなみに、夫・藤本敏夫さんは2002年に肝臓がんにより58歳で死去しています。闘病生活を続けていた藤本敏夫さんでしたが、最期は、肺炎を併発して亡くなっています。
藤本敏夫さんは「もういいだろう」と言って、自ら酸素マスクを外し、息を引き取ったのっだそうです。
加藤登紀子さんは、藤本敏夫さんとの結婚生活を「好きなように生きたい者同士が一緒にいた。そうしたスタイルでもうまく結婚生活を続ける方法を探してきた。」と語っています。
加藤登紀子さんは、2020年6月28日に、新型コロナウイルスの感染拡大後初となるBunkamura オーチャードホールでの大規模コンサートを開催しました。
緊急事態宣言後初となるコンサートは、音楽業界からも注目されました。
この公演は、スタジオジブリの映画『紅の豚』のエンディングソング「時には昔の話を」をテーマとし、加藤登紀子さんはコロナ禍を生き抜く祈りと希望のメッセージを込めて歌唱しました。
日本訳詩家協会は、1963年に設立された、訳詩家の権利を確立し、創作活動を支援する団体です。
加藤登紀子さんは、2021年6月に、日本訳詩家協会の6代目会長に就任しました。
シャンソンをはじめいろんな国の歌を日本語に翻訳して歌ってきた加藤登紀子さんにとって、身近なものであり、翻訳は『異言語の文化を繋ぐ大切な仕事』『国境による言語の違いを憎しみや対立の原因にさせず、それを融和と尊敬に変えていく力』だと語っています。
藤本敏夫さんが設立した多目的農園「鴨川自然王国」は、米・大豆などの作物の有機無農薬栽培などの営農実践、および農業塾たる『里山帰農塾』を運営しています。
藤本敏夫さんが亡くなった後、加藤登紀子さんが現在も引き継ぎ、50種類もの有機野菜を栽培しています。
続いては、加藤登紀子さんのヒット曲について見ていこうと思います。
森繫久彌さんのカバー曲であるこの曲は、第13回日本レコード大賞で歌唱賞を受賞しています。
加藤登紀子さんが知床旅情を初めて聞いたのは、藤本敏夫さんとの初デートの時に、藤本敏夫さんが歌った事だったそうです。
そして、『日本哀歌集』というコンセプトアルバムを作る際に、この曲もリストに上がりました。
日本国有鉄道のキャンペーンソングとして採用されたこともあり、140万枚の売り上げを記録するミリオンセラーとなりました。
加藤登紀子さんのヒット曲、そして代表曲ともいえるのが、1987年4月にリリースされ、2年後には100万枚を売り上げた「百万本のバラ」です。
ラトビアの歌謡曲『Dāvāja Māriņa』(ダーヴァーヤ・マーリニャ)を原曲とするロシア語の歌謡曲が原曲です。
1987年2月にリリースしたアルバム「MY STORY~時には昔の話を~」に収録されていた曲でしたが、問い合わせが殺到したため、急遽、シングル盤として発売されました。
元は、1987年2月にリリースしたアルバム「MY STORY~時には昔の話を~」に収録されていたオリジナル曲で、『百万本のバラ』が急遽シングル盤として発売される際、カップリング曲でとして収録されました。
1992年公開のスタジオジブリの映画『紅の豚』のエンディングテーマともなり、幅広く知られるようになった曲です。
続いては、スタジオジブリの映画「紅の豚」と加藤登紀子さんの関りについて見ていこうと思います。
1992年制作のジブリ映画『紅の豚』に、加藤登紀子さんは声優として、マダム・ジーナ役で出演しました。
ホテル・アドリアーノを経営する未亡人の女性実業家という役柄で、色っぽい大人の女性でした。
ジーナが「馬鹿っ!」と怒鳴るシーンで、36回もアフレコをやり直したと、加藤登紀子さんが語っています。
宮崎駿監督から「もっと、もっと怒って下さい」というダメ出しが続き、このシーンが一番、難しかったと話します。
このセリフは、ポルコ・ロッソの「飛ばねえ豚はただの豚だ」というこの映画の有名なセリフに続くものでした。
フランスのシャンソン曲「さくらんぼの実る頃」を歌い、主題歌に起用されました。また、加藤登紀子さん演じるジーナが、この曲をフランス語で歌唱するシーンもあります。
続いては、加藤登紀子さんの子供について見ていこうと思います。
1972年に獄中結婚した後、1972年12月7日に生まれたのが、長女の美亜子さんです。名前は『美しい亜細亜の子』という意味があり、藤本敏夫さんが名付けたそうです。
現在は、結婚され、畑中美亜子となり、千葉県で、米作りやカフェ「草so」を営んでいらっしゃいます。
1975年には次女のYaeさんが誕生しています。
彼女は1995年に音楽劇『コルチャック先生』で女優デビューし、1996年頃から歌手活動もしています。
2001年ポニーキャニオンからアルバムCD「new Aeon」でデビューし、NHKみんなのうたやウォルトディズニー生誕110周年記念作品ディズニー映画「くまのプーさん」の主題歌を歌唱するなどされています。
三女も誕生していますが、一般人であり、名前も公表されていません。
続いては、加藤登紀子さんの学生時代の様子を見ていこうと思います。
加藤登紀子さんが卒業するころは、1968年から1969年にかけて続いた東京大学における大学紛争(東大闘争)の真っただ中だった時期で、卒業式の前日になり、卒業式をボイコットする声明を学生側が出していました。
しかし、加藤登紀子さんにはボイコットするとの連絡は、入っておらず、加藤登紀子さんは悩んだと言います。
マスコミには振袖で卒業式に出席するように言われていたのだそうですが、加藤登紀子さんは、悩み抜きジーンズとTシャツでボイコットに参加しました。
この様子は、当時、大きく報道されました。
『百万本のバラ』などの曲で有名な歌手・加藤登紀子さんについてご紹介してきました。
彼女は、東京大学在学中に歌手デビューを果たし、旦那の藤本敏夫さんと、学生運動がきっかけで出会い、獄中結婚をし、3人の子供に恵まれました。
歌手としてもヒット曲を多く持ち、現在も精力的にライブ活動を行っています。今後も素敵な歌を披露し続けてくれることでしょうね。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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