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フライデー襲撃事件とは?原因は彼女?参加メンバーや女性のその後は?

ビートたけしが39歳だった頃に、フライデー襲撃事件を起こしています。30年以上前の出来事であり、どういった事件だったのか分からないという方もいるかもしれません。そこで今回は、フライデー襲撃事件の概要は動機、参加メンバーなどについて迫ってみたいと思います。

フライデー襲撃事件はどんな概要?

ビートたけしやたけし軍団のメンバーが起こした”フライデー襲撃事件”を覚えているでしょうか。事件が起きてから時間も経っていますので、ここで事件の概要について再度確認してみましょう。

1986年12月9日に発生

フライデー襲撃事件は、今から36年ほど前の1986年12月9日の午前3時過ぎに発生しました。夜中の出来事だったのです。当時39歳だったビートたけしが、自身が率いるたけし軍団のメンバー11名と共に、写真週刊誌『フライデー』の編集部を襲撃しました。

手を出すなと言っていた?

長野県知事も務めた田中康夫は、ビートたけしの裁判を傍聴した模様です。その田中康夫によると、ビートたけしはたけし軍団のメンバーたちに「(相手に)手を出すな」と言っていたといいます。当初は、話し合いをするために編集部を訪れた模様です。

しかし、編集部側が挑発的な言動をしたために暴行事件となってしまった可能性があるでしょう。

肋骨骨折などの怪我を負わせる

たけし軍団メンバーたちは、フライデーの編集長や編集部員に対して、雨傘や拳によって殴打したり蹴るなどしました。それにより、編集長や編集部員たちは肋骨骨折など1か月から1週間という怪我を負うことになったのです。

フライデー襲撃事件の原因は彼女だった?

フライデー襲撃事件は、ビートたけしの”彼女”が原因だという話があります。さて、それは一体どういったことなのでしょうか。続いては、フライデー襲撃事件の原因について迫ってみたいと思います。この事件は、どうして起こってしまったのでしょうか。

愛人女性に暴行されていた

フライデー襲撃事件は、ビートたけしの当時の愛人が原因となりました。1986年12月8日に、東京都渋谷区の路上で女性が『フライデー』の契約記者に怪我を負わされました。その怪我をした女性が、ビートたけしの専門学校生の愛人だったのです。

 

フライデーの記者が、愛人女性に対してビートたけしの話を聞こうとした際に起きた出来事でした。この出来事に、ビートたけしが激昂したとされています。

フリーライターと偽っていた!

愛人女性に怪我をさせたフライデーの記者は、実はフリーライターだと偽ってビートたけしに接触をしてきたといいます。その記者は、スパイをしていたのです。以前は他の編集部に所属しており、ビートたけしについての取材もしていました。その手腕を買われたことで、彼はフライデーと契約をしていました。

しかしフライデーの記者をしているとはビートたけしに言わなかったうえに、フライデー側も契約社員だと認めなかったとされています。このことも、ビートたけしの怒りが余計に増した理由でしょう。さらに、この記者は愛人女性に怪我をさせたとして、10万円の罰金を受けました。

控訴をしたといいますが、この控訴は棄却されています。

家族への執拗な取材も発端

フライデー編集部にまで乗り込んだ理由は、他にもあった模様です。愛人女性が暴行を受けたことだけが理由ではなかったのです。ビートたけしの家族に対する執拗な取材も理由の1つだったとされています。彼の子供のお受験の様子が週刊誌に掲載されたことで、受験した学校への入学を拒否されてしまいました。

このことも、大きかったでしょう。ビートたけしは家族を守りたいと考えており、家族にまで影響が出てしまうことが許せなかったのかもしれません。

フライデー襲撃事件の参加メンバーは誰?

ビートたけしと共に、フライデー襲撃事件に加わったのは、たけし軍団のメンバー全員ではありませんでした。一部参加しなかったメンバーもいたのです。では、どういったメンバーがフライデー襲撃事件に参加したのでしょうか。

ビートたけしとたけし軍団7名ら

フライデー襲撃事件には、ビートたけしに加えて7名のたけし軍団メンバーが参加しています。参加したメンバーは、ガダルカナル・タカやそのまんま東(現・東国原英夫)、グレート義太夫らがいます。また、ふんころがし(現・ダンカン)や大森うたえもん、柳ユーレイ(現・柳憂怜)、松尾伴内も参加しています。

たけし軍団セピアメンバー

また、たけし軍団セピアというたけし軍団の2軍的な存在のグループからも、1名を除き参加しています。たけし軍団セピアからは大阪百万円やキドカラー大道、サード長嶋、おぼっちゃま(現・水島新太郎)も参加しました。たけし軍団もたけし軍団セピアも皆、ほとんどが20代の若者ばかりでした。

なお”おぼっちゃま”に関しては当時まだ未成年であり、19歳の”少年A”として報道されています。

「枝豆だけは動かすな」と言っていた

ビートたけしは、襲撃のメンバーを揃える際に「枝豆だけは動かすな」と言っていました。つまみ枝豆は襲撃に呼ばれなかったのです。その理由は、彼が元右翼団体の構成員であり逮捕歴も既にあったためでした。一本気なところのあるつまみ枝豆を、ビートたけしは敢えて呼ばなかったということです。

つまみ枝豆はテレビで事件を見て、襲撃に参加できなかったことを恥じたといいます。そして、フライデー編集部のある講談社側の記者会見をテレビで見て、相手側のチェックをしました。それから、刃物を用意して記者会見会場に乗り込み襲おうとしたというのです。

その際に、ビートたけしが拘置所から電話をかけてきて「じっとしてろ」と言い、つまみ枝豆を思い止まらせたのでした。ビートたけしは、真っ先につまみ枝豆の顔が思い浮かび、頼み込んで電話をかけたとされています。

ラッシャー板前らも参加せず

フライデー襲撃事件には、つまみ枝豆の他にもラッシャー板前や井手らっきょも参加していません。当時ラッシャー板前は入院中であったため参加していないのです。また、井手らっきょは連絡が取れなかったことで不参加となりました。

女性はその後どうなったの?

フライデーの契約記者から怪我を負わされた女性。彼女はその後どうなったのでしょうか。続いては、フライデー襲撃事件の原因とされる女性のその後についてお伝えします。

1990年に女児を出産

ビートたけしの愛人だったという女性は、当時専門学校生でした。彼女は、1990年に女児(ビートたけしの子)を出産しています。娘は、2022年で32歳になると考えられます。

第三子であり次女

愛人女性との間に生まれた娘は、ビートたけしにとって第3子(娘としては2人目)となります。この娘のことは、ビートたけしは1991年に認知しているでしょう。そして、養育費も支払っているのです。また、長女である北野井子の異母妹にあたります。

女性や子供のその後は不明

愛人女性と娘が現在どうしているのかについては、不明となっています。何をしているのかは分かりませんが、どこかで穏やかに暮らしているのかもしれません。

ビートたけしに下った判決

フライデー襲撃事件を主導したビートたけし。彼にはどういった判決が言い渡されたのでしょうか。最後に、ビートたけしに下った判決について迫ってみたいと思います。

懲役6か月執行猶予2年

ビートたけしには、1987年6月10日に懲役6か月執行猶予2年の判決が言い渡されました。それ以外の参加メンバーについては、1987年3月2日に起訴猶予処分となっています。ビートたけしは執行猶予となり、メンバーたちは起訴されなかったということです。

テレビ復帰

事件後に、ビートたけしは謹慎をしていました。しかし、1987年7月18日放送の『FNSスーパースペシャル 一億人のテレビ夢列島』でテレビに復帰します。土曜深夜のトークコーナーに出演したのです。なおビートたけしの謹慎期間は半年以上に及びました。

そして、謹慎中は大物司会者・大橋巨泉の家や伊豆にいたという話があるでしょう。

草野球の交流試合で和解

神宮草野球場で1988年に、フライデー編集部とたけし軍団の草野球の交流試合が開催されました。この試合が、双方の和解の場とされています。これで、フライデー襲撃事件は落ち着いたということです。

フライデー襲撃事件は愛人への暴行がきっかけだった!

大物芸人の1人であるビートたけしは、若い頃に『フライデー襲撃事件』を起こしてしまいました。その原因となったのは、当時の愛人女性にフライデーの契約記者が執拗に取材をし、怪我を負わせたことでした。また、ビートたけしの家族に対しての度を超すような取材から守る意味もあった模様です。

ビートたけしは逮捕され謹慎をすることになりましたが、記者はそこまで彼を憤怒させたということでしょう。事件の発端となった女性は、その後にビートたけしの子供を産んでいます。事件を起こしたことはいけませんが、女性や家族に対する思いがあったからこそなのかもしれません。

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