2024/02/16
r.y6
樫山文枝さんの父親・樫山欽四郎さんが劇団民藝友の会の会員だったそうで、小さい頃から劇団民藝の芝居をよく見ていたそうです。そのせいか、樫山さんは女優に憧れを持つようになったようです。
東京文化高等学校2年生の時に俳優座養成所のオーディションを受けました。でも、「高校を卒業してから来なさい」と言われてしまい、創業後に再び受け直しました。
そして合格し、俳優座附属養成所12期生として入所しました。同期には、長山藍子さん、山本圭さん、加藤剛さんがいたそうです。
3年間の俳優座附属養成所や劇団民藝俳優教室を経て、樫山文枝さんは劇団民藝に所属しました。入団2年目の1964年に、『アンネの日記』の5代目アンネ・フランク役で舞台デビューしました。
樫山文枝さんは、1966年4月から約1年間放送されたNHK朝の連続テレビ小説『おはなはん』の主人公・浅尾はな役に抜擢され一躍有名になりました。共演は、高橋幸治さん、津川雅彦さん他。
当初、主人公のはな役は森光子さんに内定していましたが、撮影開始直前の1965年11月に急病(乳腺炎)を患い降板しました。それで、樫山さんに急遽白羽の矢が立ったらしいです。
『おはなはん』は、平均視聴率が45.8%、最高視聴率が56.4%と高視聴率をマークし、国民的ドラマとなりました。なんでも、放映時、その人気ゆえに放送時間になると主婦たちがドラマを見るせいで水道の使用量が激減する現象が全国で見られたそうです。
201年9月に朝日新聞で行われた『beランキング 心に残る朝ドラヒロイン』アンケートの結果では、『おはなはん』の主役を務めた樫山文枝さんが1位でした。
樫山文枝さんは、渥美清さん主演の『男はつらいよ』シリーズの第16作『男はつらいよ 葛飾立志篇』(1975年)で、寅さんが惚れるマドンナを演じました。役柄は、東京大学で考古学研究室助手を務める女性・筧礼子の役です。共演は、桜田淳子さん、小林桂樹さん他。
他に、樫山さんが出演した映画には『ふるさと』(1983年)『ダウンタウン・ヒーローズ』(1988年)などがあり、東映まんがまつり『アンデルセン童話 にんぎょ姫』で主人公マリーナの声を担当したこともあります。
樫山文枝さんは、2008年に原田康子さん原作の三代の血脈を描いた舞台『海霧』の演技で、第43回紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞しました。
樫山文枝さんは結婚していますが、旦那が誰でどんな人なのか?また旦那は今も健在なのかかどうかを調べてみました。
樫山文枝さんの夫は、俳優の綿引勝彦さんです。2人は1974年に結婚しました。挙式は、1974年12月29日に東京都杉並区の東京女子大付属礼拝堂で行われ、参列者は樫山さん&綿引さんの親族が約15~16人という静かな結婚式だったそうです。
●綿引勝彦プロフィール
綿引さんは、日本大学芸藝術学部を1965年に中退し、劇団民藝に入団しました。
出演映画に『八つ墓村』(1977年)『鬼龍院花子の生涯』(1982年)『敦煌』(1988年)『悲しきヒットマン』(1989年)『きんぴら』(1990年)などがあります。
テレビドラマ出演も多く、『鬼平犯科帳』(1989年~2001年・2005年~2016年/フジテレビ)、NHK大河ドラマ『徳川家康』(1983年)『毛利元就』(1997年)他に出演しました。
アニメ『WXIII 機動警察パトレイバー』(2001年)では、主人公・久住武史役で声の出演もしました。映画の吹き替えもしており、ブルース・ウィリスの声を担当したことがあります。
綿引勝彦さんは、劇団民藝の樫山文枝さんの2年後輩で、彼女より4歳年下でした。結婚当初は、樫山さんの方がすでに有名女優として名をはせていて、綿引さんとは収入格差がありました。
それで、綿引さんはギターの弾き語りのアルバイトをするなど経済的には苦しかったそうですが、いつか妻の樫山さんより稼げるようになろうと頑張っていたそうです。
その後、1990年代後半に出演した昼ドラマ『天までとどけ』(TBS)が大ヒットし、「ピカチュウげんきでちゅう」のCMに出演するなどして、樫山さんの収入を抜くことができたそうです。
2018年8月、綿引勝彦さんが膵臓内の嚢胞を取り除く手術を行った際、進行性のがん細胞が見つかりました。翌2019年12月には肺へがんが転移しました。2020年から本格的な化学療法がスタートしましたが、容態が急変し同年12月30日に膵臓がんで死去しました。75歳でした。
綿引さんは、周囲に心配されるのを嫌い、がんが見つかった後も病気を隠し続けて5本の映画(『ケアニン こころに咲く花』『時の行路』『種まく旅人 華蓮(ハス)のかがやき』他)に出演しました。
そして、亡くなる2週間前に自ら公証役場を訪れ遺言書を作成したそうです。それは妻である樫山さんへの配慮と責任感によるものでした。
綿引さんの最後の言葉は、将棋で降参を示す「投了すると伝えてくれ」だったそうです。
樫山文枝さんの父親は、哲学者としてとても有名な人のようです。そんな彼女の父親がどんな研究で知られているのかなどを調べてみました。
樫山文枝さんの父は、哲学研究者の樫山欽四郎さんです。1907年に長野県北佐久郡小諸町(現・小諸市)で生まれ、早稲田大学文学部哲学科を卒業しています。
『ドイツ精神の生成』『哲学叙説』『樫山欽四郎哲学論集 哲学の課題』などの著書があります。また、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテの『知識学新序説』やフォイエルバッハの『将来の哲学の原理』など、訳書も出しています。
樫山欽四郎さんは、早稲田大学文学部哲学科を卒業後、同大学の助教授となり、1949年に教授になりました。そして、早稲田大学高等学院長、第二文学部長、第一文学部長を経て、大学院文学研究委員長に就任しました。
また、1969年に早稲田大学野球部長し、東京六大学野球連盟理事、日本学生野球協会理事を務めました。
樫山欽四郎さんは、ドイツの哲学者ヘーゲルの研究で知られていて、1960年に「ヘーゲル精神現象学の研究」で文学博士となりました。樫山さんは、ヘーゲルの著書の翻訳も行っています。
樫山文枝さんが結婚した綿引勝彦とは、どこで出会い、いつ頃から交際が始まり、結婚に至ったのかを調べてみました。
樫山文枝さんは、1970年に自身が主役を務めた舞台『アンネの日記』で、綿引勝彦さんと知り合いました。と言っても舞台で共演したのではなく、綿引さんはまだ劇団民藝の研究生の1人だったので、裏方として参加したのです。
樫山文枝さんと知り合った綿引勝彦さんですが、すぐに交際が始まった訳ではありません。
2人の間には、キャリアの差がありました。綿引さんは、日本大学藝術学部を3年で中退し、3年のブランクの後、劇団民藝に入団したので、役者としてのキャリアには大きな開きがあったのです。
また、樫山さんは綿引さんより4歳年上でした。
だから綿引さんは、最初は樫山さんと芸歴が違い過ぎるし、身近には感じなかったそうで、「一般の人がスターを見るような目で見ていただけ」と後に回顧しています。
当時、樫山文枝さんの家が吉祥寺にあり、綿引勝彦さんの家が武蔵境と同じ中央線沿いにあったため、仲間同士で集まりわいわい騒いだ後は、綿引さんが樫山さんを送るのが決まりになっていました。
この頃から、樫山さんは綿引さんのことを意識し始めたそうです。そして、1973年頃から互いの気持ちが接近していき、距離感もなくなっていったらしいです。
樫山文枝さんと綿引勝彦さんは、互いに気が強いそうで、やがて距離感がなくなったぶん、熾烈な喧嘩もするようになっていったそうです。喧嘩が休戦に入った時、綿引さんが冗談ぽく「樫山さん、僕と結婚してくれるといいんですがね」と言ったそうです。
冗談めかしたプロポーズながら、綿引さんの気持ちが真剣であると感じた樫山さんは、綿引さんとの結婚を真面目に考えるようになっていったそうです。
樫山文枝さんは、約1年間ほど真剣に考えた末、綿引勝彦さんのプロポーズを受けることにしました。1974年の9月末から10月にかけての頃らしいです。
樫山文枝さんと綿引勝彦さんは、俳優で演出家や映画監督としても活躍した先輩の宇野重吉さん(寺尾聰さんの父親)に仲人をお願いすることにしました。
樫山さんが、舞台公演中の宇野さんの楽屋を訪れ、「結婚したい人がいる」と話して外に誘い出し、車で待っていた綿引さんに会わせたらしいです。宇野さんは「なんだ、お前か」とニヤリと笑い、「お前なら大丈夫だろう」と祝福してくれたそうです。
樫山文枝さんと綿引勝彦さんの間に子供はいたのでしょうか?いないと言われていますが、息子さんがいるという話しもあります。そんな子供についてしらべてみました。
樫山文枝さんと綿引勝彦さんは、おしどり夫婦として知られていましたが、2人の間に子供は誕生しなかったようです。
樫山文枝さんに息子が1人いるという情報がありますが確証はありません。一般人のため詳細は不明だそうで、甘やかされることなく育てられたという話のようです。
現在は高齢の樫山文枝さんですが、どんな活動をしているのか?また、亡くなった夫・綿引勝彦さんの葬儀のことなどを調べてみました。
樫山文枝さんは、1941年8月13日生まれですから、現在の年齢は80歳で、傘寿になります。2022年の8月には81歳になります。
綿引勝彦さんは、2021年12月30日に亡くなりましたが、メデァイで報じられたのは翌年2022年1月14日で、樫山文枝さんは夫・綿引は眠るように息を引き取ったと発表しました。
葬儀の喪主は樫山さんが務め、関係者だけで葬儀を執り行ったそうです。
樫山文枝さんは、2021年10月から放送された、人気ピアニストの苦悩を描いたNHKドラマ『群青領域』(主演:シム・ウンギョンさん)に、夫を亡くし1人で宿を続ける青木たえ役で出演しました。
樫山文枝さんは、2021年11月25日から12月5日までの劇団民藝の舞台『集金旅行』にも、妖しげな色気を持つコマツランコ役で出演しました。共演は、西川明さん、山本哲也さん他。
樫山文枝さんの父親は、哲学者として知られている樫山欽四郎さんですが、他にも有名な親族がいます。それが誰で何で有名なのかを調べてみました。
樫山文枝さんの伯父は、樫山純三さんです。彼女の父親・欽四郎さんの兄にあたり、父と違って実業家として広く有名です。
樫山純三さんは、「組曲」「自由区」「23区」などのブランドを手掛けるオンワード樫山(現・オンワードホールディング)の創業者です。
樫山純三さんは、1901年9月21日に長野県北佐久郡で生まれ、尋常小学校を卒業後、三越呉服店に丁稚として入り、商業に基礎を学びました。大阪貿易学校を卒業後、1927年に大阪でスポーツウエア販売の樫山商店を設立しました。
1947年に、樫山商店を株式会社化し、“オンワード樫山”の母体となる樫山株式会社を設立しました。
樫山純三さんは、競走馬の馬主としても知られていて、自らオンワード牧場を創設し、オーナーブリーダーとして数々の名馬を生み出しました。
樫山文枝さんがどこの学校に通ったのか、また大学に進学はしたのかなど、樫山さんの学歴について調べて見ました。
東京都武蔵野市で生まれた樫山文枝さんが通った小中学校は不明ですが、中学卒業後は女子校の東京文化高校に進学しています。高校在学中にどんなクラブに所属したかなどは不明です。
樫山文枝さんが通った東京文化高校は、現在は新渡戸文化学園という名称になっています。教育者&思想家の新渡戸稲造さん等によって設立された学校で、2017年から男女共学となりました。
樫山文枝さんは、高校卒業後に劇団俳優座に入ったので、大学へは進学していません。
ちなみに、樫山さんが女優になりたいと考えるようになったのは、中学3年生の時に学芸会で『夕鶴』の主人公「つう」を演じた時だそうです。
80歳になっている樫山文枝さんですが、今なお舞台やドラマで元気に女優活動を続けています。これからも現役女優として、活躍を続けていってほしいものですね。
この記事に関する記事
Copyright© 運営事務局