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服部晴治は大竹しのぶの元夫!離婚歴も?経歴や馴れ初めは?子供は?

女優の大竹しのぶは明石家さんまとの結婚前にも、結婚歴がありました。その相手が17歳年上だった服部晴治です。そこで今回は、服部晴治の離婚歴や経歴、大竹しのぶとの馴れ初めについてお伝えします。また、2人の子供や服部晴治の死因についても見てみましょう。

服部晴治のプロフィールがある?

まずは、服部晴治がどういった男性なのかについてご紹介します。彼のプロフィールなどは分かっているのでしょうか。早速見てみましょう。

1940年生まれ

服部清治は、1940年生まれであることは分かっています。健在であれば、2022年で82歳となるでしょう。その他については、出身地などの詳細は分かっていません。

wikiはない

服部清治に関するWikipediaはありません。彼が芸能人というわけではなく、一般人ということもあるでしょう。

大竹しのぶのプロフィール

  • 本名(ふりがな/愛称):大竹しのぶ(おおたけしのぶ/)
  • 所属事務所:有限会社エスター
  • 生年月日:1957年7月17日
  • 現在年齢:64歳
  • 出身地:東京都江戸川区
  • 血液型:A型
  • 身長:158センチ
  • 体重:非公表
  • 活動内容:女優、タレント、歌手
  • 家族構成:息子、娘

『ボクは女学生』でデビュー

大竹しのぶは、1973年のドラマ『ボクは女学生』で女優デビューしました。同ドラマはフォーリーブスの北公次が主演と務めることになっており、その相手役が公募されたのです。それに大竹しのぶが応募し、合格したことでデビューが決まったのでした。

『かまっておんど』がヒット

大竹しのぶは歌手としての活動も行っています。1987年に、『ひらけ!ポンキッキ』の挿入歌となった『かまっておんど』を歌いました。これが主婦あるいはサラリーマン層にも評判となり、幼児向け歌ではあるもののヒットしています。

紫綬褒章を受章

大竹しのぶは、2011年秋の褒章において紫綬褒章を受章しています。紫綬褒章は、学術や芸術、技術開発面での功労者を対象としています。大竹しのぶは芸術面での活躍が評価されたのかもしれません。

第67回NHK紅白歌合戦に初出場

大竹しのぶはNHK紅白歌合戦にも出場経験があります。2016年11月24日に、彼女が第67回NHK紅白歌合戦に初出場することが発表されたのです。そして、2016年12月31日の本番では、『愛の賛歌』を朗々と歌い上げました。

服部晴治は離婚していた?

大竹しのぶの元夫である服部清治は、離婚歴があったといいます。さて、それは本当なのでしょうか。続いては、服部清治の離婚歴について迫ってみたいと思います。

2度の離婚歴があった!

服部清治には2度の離婚歴があり、彼は要するに“バツ2”でした。大竹しのぶは3人目の嫁ということになります。では、服部清治が離婚した嫁とはどういった女性たちだったのでしょうか。

元嫁はどんな人たち?

服部清治の1人目の嫁は、ミッションスクールの英語教師であったという話があります。そして2人目は、宝石デザイナーの女性だったとされています。それ以上の詳細は見当たらないでしょう。

服部晴治の学歴や経歴はどうなっている?

服部清治がどういった学歴や経歴なのか、知りたい方もいるかもしれません。ここで、服部清治の学歴と経歴について探ってみたいと思います。彼はどの学校を卒業しているのでしょうか。

服部清治は東大卒?

服部清治を検索すると、”東大”というワードも出てきます。これは、服部清治の息子が青山学院高等部や早稲田大学高等学院など難関校に合格していることも理由として考えられます。息子がレベルの高い高校に合格するくらいなのだから、父親である服部清治も高学歴なのではないかと思われた可能性があります。

 

そうしたことで、服部清治は“東京大学”を卒業したのかと思い検索した人がいたということでしょう。

大学名を明かしていない

東大卒なのかとの憶測もある服部清治ですが、自身の出身大学を明かしていません。そのため、彼が実際にどの大学を卒業したのかは不明となっています。一般人ということもあるのか、出身高校等についても分かっていないでしょう。

TBSのディレクター

服部清治は、TBSでディレクターを務めていました。テレビドラマ等が主な担当であったといいます。それ以前の職歴は情報がないため、社会人になった頃にTBSに入社した可能性があります。

大竹しのぶとの馴れ初めはどんなもの?

服部清治の3人目の嫁となった大竹しのぶ。2人の馴れ初めはどの様なものだったのでしょうか。次に、服部清治と大竹しのぶの馴れ初めについて迫ってみたいと思います。

ドラマ『恋人たち』がきっかけ

1980年に放送されたドラマ『恋人たち』に、大竹しのぶがヒロイン役で出演しました。このドラマの演出を服部清治が担当したことがきっかけで、2人は知り合ったのです。

撮影現場で寄り添っていた?

撮影の際には、既に2人は良い雰囲気にあった模様です。撮影現場では、服部清治と大竹しのぶが寄り添っている姿が目撃されていたといいます。2人には17歳の年齢差がありましたが、大竹しのぶの方が服部清治に熱を上げている模様だったとの話もあるでしょう。

中村晃子との修羅場

服部清治と大竹しのぶが結婚する前には、障壁もありました。当時、服部清治には中村晃子という恋人がいたのです。服部清治は、中村晃子と同棲をしていて婚約までも交わしていました。中村晃子は、服部清治と大竹しのぶの仲を訝しみます。そして、服部清治の車を尾行しました。

すると、その車は大竹しのぶを乗せて走り出したといいます。その後に交差点で停車した車の中で、2人はキスをしていたのでした。この様子を、中村晃子に目撃されたのです。話し合いの場が持たれましたが、中村晃子は大竹しのぶを「この泥棒猫!」と罵ったとされています。

1982年に結婚

中村晃子との修羅場を乗り越えて、服部清治と大竹しのぶは1982年に結婚を発表しました。服部清治は大竹しのぶを大事にしていたといいます。彼女の演技を良く褒めていたのです。服部清治は女優としての大竹しのぶのことも、大いにリスペクトしていたのでしょう。

大竹しのぶとの間に子供はいる?

ここで、服部清治と大竹しのぶの子供について探ってみたいと思います。服部清治と大竹しのぶには子供がいるのでしょうか。

二千翔が生まれる

1985年に、服部清治と大竹しのぶの間に息子・二千翔(にちか)が誕生しました。特徴的な名前となっていますが、『21世紀に羽ばたいて欲しい』という願いが込められた名前となっています。現在息子は36歳となり、大竹二千翔として仕事をしています。

二千翔は芸能人ではない

息子の二千翔はテレビに出演したこともありますが、芸能界に入っているわけではありません。現在彼は、Web制作会社を経営しています。なお芸能界について、本人は「大変そう。気が休まる暇がないんだろうな」と言っていました。

親が芸能人ということもあり、その大変さをみてきているというのも理由かもしれません。

前妻との間にも子供がいた

服部清治に離婚歴があることはお伝えしましたが、彼には最初の嫁との間に2人の子供がいます。それだけでなく、2番目の嫁との間にも1人子供がいるといいます。そのため、服部清治の血を受け継いだ子供は全部で4人ということになるでしょう。

服部晴治の死因は何だった?

服部清治は既に故人となっていますが、死因は何だったのでしょうか。続いては、服部清治の死因について探ってみたいと思います。

がん性腹膜炎で1987年に死去

服部清治は、47歳だった1987年にがん性腹膜炎で死去しました。大竹しのぶとの結婚から5年後のことでした。がん性腹膜炎は、がんが腹腔内に転移して末期近くになり現れます。発症すると、食欲低下や嘔吐、体重減少といった症状が見られるようになるでしょう。

 

短時間で死に至る可能性が懸念される状態でもあります。

大竹しのぶは告知せず

服部清治が大竹しのぶと結婚してから1年過ぎた後に、服部清治に胃がんが見つかりました。病気が発覚した際には、既に手遅れ状態だったといいます。さらには、大竹しのぶが医師から”服部清治は余命1年”と宣告を受けたのです。しかし、大竹しのぶは服部清治には病状を伏せ告知しませんでした。

しかも当時、大竹しのぶは服部清治との子供を妊娠中でした。そして彼女は、夫が余命1年であることを知りながら、息子を出産したとされています。大竹しのぶの意志の強さがうかがえるでしょう。

緑山スタジオで葬儀

服部清治の葬儀は、1987年7月25日に彼の勤務地だったTBSの緑山スタジオで営まれました。30歳にして喪主を務めた大竹しのぶは、気丈に「10年分も20年分も、もっともっと愛されていました」と語っています。

最後のプレゼントが用意されていた

2017年に大竹しのぶが、レギュラー出演する『中居正広の金曜日のスマイルたちへ』に出演しました。その際に彼女は、服部清治との最後の思い出を語りました。服部清治が亡くなる1週間前に、大竹しのぶは彼の病室を訪れます。すると、酸素マスクを装着した服部清治が「引き出しを開けて」と言ったのです。

病室に備わっていた引き出しを大竹しのぶが開けると、そこには小さな箱が入っていました。箱の中を開けてみると、中にはペンダントが入っていたといいます。実はその日は大竹しのぶの30歳の誕生日でした。服部清治がサプライズを仕掛けたのです。

大竹しのぶが30歳を迎えた1週間後に、服部清治は天国へと旅立ちました。

服部晴治と明石家さんまは繋がりがある?

服部清治が亡くなった後に大竹しのぶが結婚したのが、明石家さんまでした。一見すると服部清治と明石家さんまにはさほど接点はないようにも思えますが、関係はあったのでしょうか。続いては、服部清治と明石家さんまの関係について見てみたいと思います。

明石家さんまと親交がある

服部清治が亡くなった後に、大竹しのぶは明石家さんまと再婚します。服部清治と明石家さんまは、元々親交があったといいます。2人は一緒にテニスをすることもあったのです。遊び仲間であり、大竹しのぶも含め家族ぐるみの付き合いをしていたでしょう。

大竹しのぶを託していた

服部清治は自身の余命が長くないことを悟ってから、明石家さんまに対して『大竹しのぶさんのことを頼みます』という内容の手紙を託されていました。大竹しのぶは、明石家さんまと結婚していた間もこの手紙の存在を知らなかったといいます。

そしてその後、明石家さんまと離婚後に手紙の存在を知ることになりますが、それを読んではいません。

服部清治と明石家さんまの違いは?

大竹しのぶは、服部清治と明石家さんまの違いについて考察していた模様です。彼女によると、服部清治は洗い物をしようとすると「手が荒れるから、しなくていいよ!」と言うタイプだといいます。そして明石家さんまの場合は、『自身のためや子供のために荒れた(妻の)手を愛おしく思うタイプ』だとしています。

それぞれに違うということでしょう。

明石家さんまとの離婚理由

大竹しのぶは1988年に明石家さんまと再婚し、娘のIMALUも出産しました。しかし、1992年に長男・二千翔とIMALUの親権を大竹しのぶが持つ形で、4年ほどの結婚生活にピリオドを打っています。その理由は、明石家さんまは記者会見で「仕事に対する考え方の違い」と語っていました。

その真相は、明石家さんまが家庭で尽くして欲しいと願ったのに対し、大竹しのぶは女優として活動したいと願ったためとの話もあります。なお離婚に際して、明石家さんまは条件として『子供との面会を月30日』と求めています。これは、いつでも会いたい時に会うという意味でしょう。

血の繋がっていない二千翔についても同様であり、明石家さんまは子供たちに離婚後も愛情を注いできたとされています。

インスタに服部清治の画像を投稿した?

大竹しのぶはインスタグラムを開設しています。彼女は、2022年になり元夫・服部清治との思いでの写真をインスタグラムに投稿しました。さて、どういった写真が投稿されたのでしょうか。

ウェディングショットを公開

2022年1月21日に、大竹しのぶがインスタグラムに25歳当時のウェディングショットを投稿したことを説明してください。大竹しのぶは朝日新聞夕刊東京版でコラム『まぁいいか』を連載しており、その関連写真を探していたのだといいます。そのタイミングで懐かしい写真を見つけたのでした。

見つかった写真は服部清治との披露宴の際のものであり、出演映画『青春の門』の浦山桐郎監督が恭しくスピーチをしている場面が写っています。この写真について、大竹しのぶは「私は二時間泣き通しでした。しかも号泣」と思い出していました。

またファンからは、「ウエディングドレス姿、かわいいですね」などの反響があった模様です。

服部清治と仲間の写真をアップ

2022年3月8日には、亡き夫・服部清治と同僚たちとの懐かしい写真もインスタグラムに投稿しました。大竹しのぶは青いノースリーブのトップスで白のミニスカートを穿いて中央で写っています。そしてその隣では服部清治が白のスポーティな服装で微笑んでいるのです。

大竹しのぶは、この写真に写っていると思われる夫の同僚・H氏に連絡をしてみようとお風呂の中で思い出したのだといいます。その1週間後にH氏から電話がかかってきたと思ったところ、かけてきたのはH氏の息子だったのです。父親と似た声で息子は「父が亡くなりました」と告げたのでした。

H氏を含め、服部清治は同僚らとよくテニスをしていたと、大竹しのぶは回顧しています。

服部清治は大竹しのぶと結婚後5年で死去

大竹しのぶの元夫・服部清治は、TBSでドラマディレクターをしていました。大竹しのぶが、服部清治の手掛けるドラマに出演したことで2人は出会いました。修羅場を切り抜け結ばれた2人でしたが、結婚後に服部清治はがん性腹膜炎で余命1年と告げられます。

そして服部清治は47歳で1987年に死去しました。服部清治の闘病中に、大竹しのぶは長男の大竹二千翔を出産しています。服部清治が死去してから30年以上が経ちますが、大竹しのぶの心の中には今も服部清治の存在が生きているのかもしれません。

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