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「東海村jco臨界事故」は検索してはいけない言葉?理由は?現在は?

今から22年前の1999年に起きた『東海村jco臨界事故』を知っているでしょうか。死者も出てしまったこの事故ですが、一体どういった事故だったのか、原因は何だったのか知りたいという方もいるかもしれません。そこで今回は、『東海村jco臨界事故』の原因や被害などについて迫ってみたいと思います。

「東海村jco臨界事故」はどんな事故?

まずは「東海村jco臨界事故」がどの様な事故であったのか見ていきたいと思います。「東海村jco臨界事故」の概要とはどういったものだったのでしょうか。

茨城県で起きた原子力事故

「東海村jco臨界事故」は、茨城県で起きました。1999年9月30日に、茨城県那珂郡東海村に所在するJCOの燃料加工施設において起きた、原子力事故です。JCOは住友金属鉱山株式会社を親会社とし、1980年に日本核燃料コンバージョン株式会社として独立した会社です。1998年には名称を株式会社ジェー・シー・オーに改めています。

 

「東海村jco臨界事故」では、日本で初めて事故被曝における死者が発生してしまいました。

核分裂連鎖反応が発生

JCOでは、1999年に高速増殖炉の研究炉である『常陽』で使われる核燃料の製造を受け持っていました。9月28日まではウランの精製作業が行われ、29日には硝酸ウラニル溶液を均一にする作業が始まっています。事故当日となる1999年9月30日に、JCO東海事業所の核燃料加工施設では核燃料を加工していました。

具体的には、作業員たちが転換試験棟で硝酸ウラニル溶液を沈殿槽にバケツで流し込んでいたのだといいます。バケツで流し込んでいる最中に、ウラン溶液が臨界に達したことで核分裂連鎖反応が発生したのです。現場ではこの状態が20時間ほども続いていたといいます。

中性子線を浴びる

核分裂連鎖反応が発生したことによって、作業員や周辺住民などの多数がとても近い位置から中性子線を浴びることになってしまったのです。沈殿槽は“むき出しになった原子炉”のようになったとされ、中性子線は建物内だけでなく敷地の外にまで放出されたのです。

レベル4相当の事故

国際原子力事象評価尺度(INES)において、「東海村jco臨界事故」はレベル4相当の事故であるとされました。国際原子力事象評価尺度(INES)とは、原子力に関する事故や故障を評価する尺度のことです。国際原子力機関(IAEA)や経済協力開発機構原子力機関によって策定されました。

なおレベル4とは、『事業所外への大きなリスクを伴わない事故』とされています。

「東海村jco臨界事故」は検索してはいけない?

「東海村jco臨界事故」は検索してはいけないという話があります。それは一体どういったことなのでしょうか。その理由について見ていきましょう。

サイトで紹介されている

検索してはいけない WiKiと言うサイトで、「東海村jco臨界事故」が紹介されています。そのサイトでは、『東海村 JCO』というタイトルのページが作られているのです。『東海村 JCO』と検索してはいけないということです。さて、その理由とは一体どこにあるのでしょうか。

なぜ検索をしてはいけないの?

『東海村 JCO』と検索してはいけないと言われる理由は何なのでしょうか。それは『東海村 JCO』と検索をすると、被曝者の画像がHITするとされているのが理由であると考えられます。また、最近は「東海村」と検索するだけで、被曝被害者の画像のサムネイルが表示される様にもなったのだともいいます。

ひろゆきが被ばくを解説?

大規模インターネット掲示板『2ちゃんねる(現・5ちゃんねる)』の開設者である“ひろゆき”に関するYouTubeチャンネル『ひろゆきりぬきチャンネル』があります。このチャンネルに、高線量被ばくすると人はどうなるかをひろゆきが解説している動画が投稿されています。

この動画は、『※検索してはいけないシリーズ※』と銘打たれているでしょう。

「東海村jco臨界事故」が起きた原因は何?

「東海村jco臨界事故」はなぜ起きてしまったのでしょうか。続いては、「東海村jco臨界事故」が起きた原因について迫ってみたいと思います。

JOCの管理がずさんだった

「東海村jco臨界事故」が起きたのは、しっかりとした管理が行われていなかったことが原因となっています。旧動燃(動力炉・核燃料開発事業団)が発注した高速増殖炉の研究炉である『常陽』の、核燃料の製造工程でJCOが作業の工程管理をずさんに行っていたことで起きたのです。

裏マニュアルに沿っての作業

臨界事故防止に重きを置いた正規のマニュアルもありました。しかしJOCが燃料加工の工程において、裏マニュアルに沿い作業をしていたのです。例えば、原料となっているウラン化合物の粉末を溶かす工程について挙げてみましょう。正規マニュアルでは『溶解塔』という装置を用いるように決まっていました。

ところが、裏マニュアルではステンレス製のバケツが用いられるように変更されているのです。それだけでなく、事故前日である9月29日には効率的に作業をするため、裏マニュアルとも異なる手順で作業をしていたといいます。

青い光が見えた?

事故当時には、現場の転換試験棟にいた作業員が「青い光を見た」のだと発言していました。その光を見たのは、ウラン溶液を溶解槽に移している最中であったといいます。

「東海村jco臨界事故」の被曝者はどうなった?

「東海村jco臨界事故」では多数の被曝者が出ましたが、その後が気になる方もいるでしょう。では、被曝者のその後はどうなったのでしょうか。続いては、「東海村jco臨界事故」での被曝者のその後について見ていきたいと思います。

「東海村jco臨界事故」での被曝者数

事故時には3名の作業員が放射線を浴び、”急性放射線症候群”となりヘリコプターで放射線医学総合研究所に緊急搬送されました。うち2名については、造血幹細胞移植の関係により東京大学医学部附属病院に転院し、集中治療室にて治療を受けたといいます。

 

それだけでなく、作業関係者7名や救急隊員、周辺住民207名が被曝しています。事故調査委員会の発表だけでも計667名が被曝するという、大惨事となりました。なお、事故前日に辞任を表明していた野中広務官房長官が、東海村の村民に対して外出禁止勧告を出しています。

亡くなった方がいる

当時35歳だった作業員の大内久は、推定16から20シーベルトの線量を被曝し、多臓器不全により1999年12月21日に死亡しました。また当時39歳だった作業員・篠原理人も、事故から211日後となった2000年4月27日に多臓器不全で亡くなっています。彼は、亡くなった時には40歳を迎えていたといいます。

2人は染色体が破壊され、様々な臓器が障害が起きたのでした。

生存者もいる

大量に放射線を浴びた3名の中には、生存者もいます。当時54歳だった作業員・横川豊は骨髄治療を受けたことで回復し、現在も生存しているのです(2019年時点)。現在も健在であれば76歳ほどになっている可能性があるでしょう。彼も、事故当時には白血球がゼロになってしまっていたといいます。

しかし放射線医学総合研究所の無菌室で骨髄治療を受けたことで、回復したのです。そして、1999年12月20日になり放射線医学総合研究所を退院することができたでしょう。生存者となった彼ですが、取材については断っているとされています。

被害者の画像がネットにある

検索すると、事故のサムネイル画像が表示されると先述していますが、被曝者の被曝した様子の画像が、インターネット上で見られます。事故によって被曝した方がどの様な状態になったのか、そのリアルな状況は知ることができるでしょう。被曝の真実を知りたいという方は探ってみることも一案です。

決死隊が結成された?

「東海村jco臨界事故」では“決死隊”が結成されたという話があります。さて、この“決死隊”とはどういった部隊なのでしょうか。その活躍についてお伝えします。

18名の決死隊

「東海村jco臨界事故」が起きた後に、JOCの職員の中から18名の”決死隊”が結成されました。彼らは、放射線を浴びながらも臨界を止める作業に当たったのだといいます。

誰も辞退せず

上司から「嫌なら断ることもできる」と言われても、“決死隊”のメンバーたちは断らなかったといいます。“決死隊”となったある男性は、「自分の会社が起こした事故だから当然だと思った」と後に語っていました。“決死隊”としての作業中に119ミリシーベルトの被曝をしたメンバーもいたとされています。

しかし、健康に問題はありませんでした。“決死隊”の1人だった男性は「(当時は)思うように手が動かず、生きた心地がしなかった」と語っています。とても時間が長く感じたといいますが、作業をしていたのは3分程度であったのでした。

『第一原発』の事故がだぶる

“決死隊”として作業をした方の中には、東日本大震災により発生した福島第一原発事故が「東海村jco臨界事故」と重なる方もいた模様です。”決死隊”の1人であったある男性は、2011年に起きた東日本大震災での『福島第一原発』の事故に際し、「私たちの事故よりはるかに深刻」としていました。

福島の事故の12年前の、自分たちとだぶらせ『福島第一原発』の作業員を思いやっていたのです。

事故によりポケモンが放送休止となった?

「東海村jco臨界事故」と人気アニメ「ポケットモンスター」は何も関連性がないかもしれません。しかし、「東海村jco臨界事故」により“ポケモン”が放送休止となったという話があります。それは一体、どういったことなのでしょうか。

『ポケモン』を放送する予定だった?

「東海村jco臨界事故」の起きた日の夜(1999年9月30日)に、「ポケットモンスター」が放送される予定だったという話があります。当時には既に、「ポケットモンスター」は子どもたちに大人気のアニメとなっていました。しかし、事故当日は「ポケットモンスター」が映像表現を理由に休止されたというのです。

『かえってきたマサラタウン!』が休止?

インターネット上では、”サンダーが出てくる無人発電所の話”などではないかとの話もあります。また、『ヨシモトムチっ子物語』に差し替えになったという話もあるでしょう。そして、休止となった『ポケットモンスター』は『かえってきたマサラタウン!』の回だったとされます。

しかし、休止になったとの確たる情報はありません。

Wikipediaには記述がない

「ポケットモンスター」が休止となったという話は、作品のWikipediaに書かれていたとされています。現在「東海村jco臨界事故」のページには、「ポケットモンスター」に関する記述そのものがありません。「ポケットモンスター」のページにも、放送休止になったとは記載されていないでしょう。

そのため、真偽は不明となっています。

「ポケットモンスター」が休止になったことはある

「東海村jco臨界事故」とは直接関係がありませんが、「ポケットモンスター」は過去に放送休止したことはありました。1997年12月16日に放送された第38話『でんのうせんしポリゴン』において、視聴者の一部が光過敏性発作を起こす事件があったのです。

光過敏性発作とは、視覚に飛び込んできた光の刺激についての、異常反応を示す症状です。30都道府県で685名が病院に搬送される事態となり、重傷者3名含め208名が入院したといいます。この事件は、“ポケモンショック”という通称があるでしょう。

この事件において、「ポケットモンスター」は約4か月間放送が休止されたのです。

「東海村jco臨界事故」は風化してきている?

事故が起きたとしても、月日は移ろっていくものです。人々も生活をしていく中で、事故のことをあまり思い出さなくなっていくこともあるでしょう。「東海村jco臨界事故」は、事故後にどうなったのでしょうか。最後に、「東海村jco臨界事故」のその後について迫ってみたいと思います。

事故から22年が経つ

「東海村jco臨界事故」は1999年に起きたので、2021年で22年が経ちました。長い年月が経過していることが分かるでしょう。事故から21年目という2020年の段階でも、東海村内では事故の記憶は薄れてきているといいます。

 

現在茨城新聞東京支社に勤務する斉藤明成という男性は、事故当時中学1年生であり東海村から車で1時間半の場所に住んでいました。事故の翌日には野球部の朝練が中止になったのでした。放射能の塵が風に乗り自身の住む地域にまで来るのではないかとの懸念から、中止になったのです。

 

この様に、記憶に留めている方もいるということです。『TOKYO SLOW NEWS』の音声コンテンツで、2020年9月30日に『東海村JCO臨界事故から21年。東海第二原発の今』というプログラムが配信されています。この中で、斉藤明成氏が事故について語っているのです。

避難訓練が行われるようになった

「東海村jco臨界事故」により、東海村や茨城県、国を交え防災訓練や避難訓練が行われるようになりました。また、安定ヨウ素剤を備蓄するようにもなったといいます。安定ヨウ素剤とは、甲状腺や喉の内部被曝を防ぐための錠剤です。

この安定ヨウ素剤は、福島第一原発の事故後に国の施策により、住民に配るようになったのです。行政の担当者は、もし外で原子力事故が起きた場合に備え、常に持ち歩くように話しています。

原子力に逆風が吹いた

事故により、原子力に対する逆風が吹く転換期となりました。原子力事故史の大きなポイントともなったでしょう。後に福島第一原発の事故も起きたことで、脱原発運動も起きるようになっています。それでも東海村住民の1/3ほどは、原子力関連の仕事をしているといいます。

「東海村jco臨界事故」は被曝者の画像がHITするから検索NG

「東海村jco臨界事故」は、1999年に起きた臨界被曝事故です。作業員や東海村村民など多数が被曝し、2名の死者も出ています。「東海村jco臨界事故」は検索してはいけないとされていますが、それは『東海村 JCO』と検索をすると、被曝者の画像がHITするというのが理由として挙げられているでしょう。

現在では、『東海村』と検索するだけで被曝者の画像がサムネイルとして出てくるというのです。検索をしてしまうと、被曝した方の凄惨な状況を知ることになるということです。現在は、東海村でも事故に関しては風化しつつあるといいますが、訓練が行われるなど対策が取られています。

この様な原子力事故が、2度と起こらないことを願うばかりです。

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