木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
玄倉川水難事故は、1999年8月14日に神奈川県足柄上郡山北町玄倉川の中洲で起こった水難事故のことです。事件前日の13日から中州では、大勢の人間がキャンプをしていました。しかし、当時は熱帯低気圧の接近などで天候が悪化し、玄倉川の水位が急上昇することが予想されていました。
しかし、キャンプをしていた人の一部は事前に避難することなくキャンプを続け、事故が起こってしまいます。
事件前日から玄倉川が増水すると警報が出ていましたが、犠牲者となる18人は避難しませんでした。当日は激しい暴風雨となり、キャンプをしていた中洲は沈没してしまいます。救助ヘリも出動していますが、子供4人を含む13人が玄倉川水難事故の犠牲になってしまいました。
玄倉川水難事故事故は事故の前日から警報が出ており、再三に渡ってダム職員や警察が避難を呼びかけています。しかし、全ての警告が無視されたことで、玄倉川水難事故は、「DQNの川流れ」と揶揄されるようになりました。DQNとはネットスラングのことで、非常識で軽薄な行動を取る人間のことを意味します。
玄倉川水難事故の利害者のリーダーと言われている加藤直樹は、現在どうしているのでしょうか?加藤直樹の事件後や現在の状況をまとめました。
玄倉川水難事故の被害者のリーダーとして注目を集めた加藤直樹ですが、現在の情報は一切不明です。事件直後は、加藤直樹に関する暴露情報など様々なことが話題になりました。しかし、現在は加藤直樹のことについて語る関係者もおらず、何の情報もありません。
加藤直樹の事件後の情報は少ないですが、娘の加藤朝香のブログが注目を集めたことがあります。玄倉川水難事故と明言はされていませんが、内容から玄倉川水難事故の事だとわかる記事が投稿されていました。
記事の内容が反感を買ってしまい、ブログは炎上して閉鎖されてしまいます。現在は、閉鎖されているので実際のブログを見ることはできませんが、ブログの魚拓とされるものが残っています。
玄倉川水難事故の被害者は、事故後に会見を開きませんでした。生存者5名のうち、3人は加藤直樹を含む大人で、同じ会社の社員でした。世間は会見を開くのが当然だと考えていましたが、会見で謝罪や感謝の意を示さなかったことで、さらに批判を集めることになります。
倉敷水難事故の被害者18人は、全員が同じ会社の社員とその家族、あるいは関係者だったことが分かっています。事故後はかなりバッシングを受けたようですが、現在も勤務先の会社は社名を変更することはなく営業を続けているようです。
加藤直樹は、当時、株式会社富士繁という会社に勤めていたことがわかっています。富士繁はどんな会社だったのかや富士繁が現在どうなっているのかなどをまとめました。
事故当時、加藤直樹は神奈川横浜市南区にある株式会社富士繁という会社の社員でした。これは読売新聞の記事で報道された情報で、玄倉川水難事故の他の被害者も富士繁の社員や家族、関係者だったと報道されました。
加藤直樹が勤めていた株式会社富士繁は、金属加工や産業廃棄物処理などを扱う会社です。現在は事業拡大していますが、今でも玄倉川水難事故に関係したクレームが入っていると言われています。また、工場の騒音問題も起きており、あまり評判は良くないようです。
事故当時は、株式会社富士繁の社員だった加藤直樹ですが、現在も所属しているのかは不明です。現在も営業している株式会社富士茂ですが、社員の情報などはありません。加藤直樹が事件後も藤重の社員だったのかは、噂レベルでも全くわからないのが現状です。
加藤直樹の娘である加藤朝香が、Twitterをしているという噂があります。加藤朝香のTwitterアカウントやネット上にある顔写真などについての情報をまとめました。
「加藤朝香」という名前のTwitterアカウントがあったことはわかっています。ツイプロにアカウントが存在した痕跡があり、フォロワーは30人登録されていたことがわかります。しかし、現在はアカウントが削除されており、ツイート内容などは一切わからない状態です。
「加藤朝香」という名前のアカウントがあったことは確かですが、本人のものなのかはわかっていません。同姓同名の別人の可能性もありますし、そもそもアカウントに本名を使っているとも限らないでしょう。あくまで、加藤直樹の娘と同じ名前のアカウントがあっただけで、本人のものなのかは不明です。
ネットには加藤朝香のものとされる顔写真も見ることが可能です。ブログが炎上騒ぎになった際に、本人を特定したとされるプリクラの写真などがネットで話題になりました。しかし、本人を特定した方法や写真が本当に本人のものかは、一切わからない状態です。
玄倉川水難事故はどんな経緯で起きたのでしょうか?事故が起きる前から雨は大量に降っており、事故は起きるべくして起こったことがわかります。倉敷川水難事故の経緯をまとめました。
事故の前日の1999年8月13日は、キャンプシーズンでしたが、既にかなりの悪天候でした。熱帯低気圧の影響で各地で大雨が降っており、神奈川県でも雨は降っていました。15時には事故現場周辺でも雨が降り始め、16時50分には神奈川県全域に大雨洪水注意報が出ています。
現場上流の玄倉ダムもダムの決壊の可能性を考えて、警戒していたのです。
8月13日15時20分に玄倉ダムの管理職員は、河川敷周辺でキャンプをする人たちに向けて水位が上昇可能性が高いので避難するように警告します。大部分の人達はこの時点で避難していますが、加藤直樹を含む被害者グループは気にも留めなかったようです。
19時50分頃にダムの職員は、2度目の巡回を行い直接話して避難を求めますが、被害者グループに追い返される結果になります。20時06分に現場にいることを危険と判断したダム職員は、警察に退去命令を出すように要請します。
20時20分、決壊を防ぐために玄倉ダムが放流されます。その後に到着した警察とダム職員は被害者グループに避難勧告を行います。既に川は増水して渡ることが危険なため、拡声器を使って避難を求めていました。しかし、警察の呼びかけにも被害者グループは大丈夫と言っていたようです。
被害者グループと一緒にキャンプをしていたうちの3人は、この時点で避難して自動車に移動しました。22時35分に再び警察が避難を求めますが、酔っていたという被害者グループは悪態をついて非難を拒否します。
子供を連れて夜間に川を渡るのは危険と判断した警察は、見張りを立てるように呼び掛けて、現場から引き上げました。
事故当日の8月14日早朝には神奈川県全域に大雨洪水警報が出され、ダムの放流量も増やされます。前日避難していた3人が、6時ごろに被害者グループに呼びかけますが、反応がありませんでした。
警察も呼びかけますが反応がなく、8時4分に前日避難していた3人が119番に救助要請を行います。8時30分頃になると中州は完全に水没してしまいました。
9時7分に消防隊が到着しますが、救助はうまくいきません。11時には一時、ダムの放流が止められますが、決壊を防ぐために5分後には放流が再開されました。11時38分には中洲の水位は大人の胸辺りに達し、加藤直樹を含む18人全員が流される事態になってしまいます。
その後、加藤直樹と他4名は救助されますが、残る13人は流されてしまい遺体で発見されました。
再三の避難勧告を無視した加藤直樹と被害者グループは、非難を浴びることになりました。更に、加藤直樹が暴言を吐いていたという記事が雑誌などに掲載されます。掲載内容の信憑性はあまり高くありませんが、世間の批判はより増すことになりました。
加藤直樹が言ったとされている暴言についてまとめました。
1999年の暴露雑誌『噂の真相』の読者投稿で、地元の人物が加藤直樹らに危険だから避難するように呼びかけたという記事が掲載されました。これに対して加藤直樹らは次々に反論し、「地元の人は臆病」、「プライバシーを侵すのが趣味」などかなり失礼なことを言われたということです。
炎上系ニュースメディア「まいじつ」には、地元記者の証言が取り上げられました。加藤直樹は救助しようとするレスキュー隊員に向かって、「ヘリを出せ!早く助けろ!お前らの仕事だろ!」などと暴言を浴びせていたといいます。
匿名掲示板では、加藤直樹がボランティアの差し入れを「まずい!」と言ったと投稿されています。これは救助後のことですが、ボランティアが差し入れたおにぎりを放り投げて「まずい!もっとマシなものを出せ!」と暴言を吐いたというものです。
玄倉川水難事故の被害者グループのリーダー加藤直樹に関する現在の情報などをご紹介しました。事件から20年以上たっていますが、現在でも非難する声が上がるなど被害者グループの対応は批判されています。
加藤直樹の暴言などについては信憑性の低いものが多いですが、再三の避難勧告を無視した責任は重いでしょう。
この記事に関する記事
Copyright© 運営事務局
玄倉川水難事故は、中州でキャンプをしていたグループが玄倉川で濁流に巻き込まれた水難事故です。多数の死者を出した水難事故ですが、被害者グループの対応がまずかったとしてリーダーの加藤直樹は現在でも非難されています。
玄倉川水難事故の簡単な概要、被害者の人数などについてまとめました。