木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
立教大学文学部日本文学科を卒業した伊集院静さんは、広告代理店電通勤務を経てCMディレクターになります。1980年に歌手のコンサートツアーの演出を始めます。初めて演出を担当したのは、松原みきさんでした。
その後は、松田聖子さん、薬師丸ひろ子さん、松任谷由実さん、和田アキ子さんら人気歌手のツアーの演出を行い、ファッションショーの演出も担当しています。
アイドル路線で活動していたロックバンドのレイジーの演出も行い、レイジーがハードロック路線に転向するきっかけを作りました。
ディレクターとして活躍していた伊集院静さんですが、1981年に「小説現代」で「皐月」を発表し小説家としてデビューします。「乳房」や「受け皿」、「機関車先生」、「ごろごろ」などの代表作を発表しています。
1991年に吉川英治文学新人賞、1992年に直木三十五賞、1994年に柴田錬三郎賞、2002年に吉川英治文学賞を受章しています。代表作の1つである「機関車先生」は、1997年にアニメ映画化され、2004年に実写映画になりました。
伊集院静さんは、「伊達歩」という名義で作詞家としても活動しています。作詞家として人気歌手に多数の作品を提供しており、ヒット曲も多数あります。近藤真彦さんには9曲を提供しており、「ギンギラギンにさりげなく」は日本レコード大賞を受章しています。
レイジーの楽曲では最も多くの作詞を行っており、補作詞も含めると11曲が伊集院静香さんの作詞です。
韓国人という噂もある伊集院静さんですが、出身地はどこなのでしょうか?伊集院静さんの生い立ちや家族に関するエピソードなどをまとめました。
伊集院静さんは、1950年2月9日生まれで山口県防府市出身です。日本で生まれていますが在日韓国人2世で、生まれた時の名前は「趙 忠來」(チョ・チュンネ)でした。現在は日本に帰化していますが、伊集院静さんが韓国人だったことは事実です。
中学生の時に日本に帰化し、戸籍上の名前は「西山 忠来(にしやま ただき)」となっています。「伊集院静」は作家としてのペンネームです。山口県立防府高等学校後に立教大学に進学していますが、元々は美術大学に進む予定でした。
読売ジャイアンツの長嶋茂雄選手に「野球をするのならセントポール(立教)に行きなさい」と言われて、立教大学に入ったというエピソードがあります。
伊集院静さんの父親は韓国の慶尚南道出身で、13歳の時に下関行きのフェリーで日本にやってきました。伊集院静さんは、大学生の時に家を継がないと言って父親と大喧嘩をしています。そのため、大学生の時に実家からの仕送りは止まってしまったそうです。
母親は優しい人で、伊集院静さんが幼い時から何をしても許してくれたといいます。しかし、伊集院静さんが紫綬褒章受賞を辞退しようとした時は、「亡くなったお父様が承知しませんよ」と言ったそうです。
初めて「許しません」と母親に言われた伊集院静さんは、辞退せずに紫綬褒章を受章しています。「お父やんとオジサン」は、父親の朝鮮戦争時の体験を元にした作品で、両親のエピソードが多く収録されています。
伊集院静さんは、6人兄弟の中で育っています。6人兄弟の中で男は伊集院静さんと弟の2人だけだったそうです。伊集院静さんが家を継がない決めたことで、弟は父親の期待を受けて医学部に進学する予定だったといいます。
弟は本当は探検家になりたかったそうですが、定年退職までは医師をすると決めていました。しかし、弟は17歳の時に海で遭難し、亡くなってしまいます。弟が亡くなったのは伊集院静さんが、大学2年生の時のことでした。
2021年現在、伊集院静さんは何をしているのでしょうか?実は伊集院静さんは、2020年にくも膜下出血で倒れていますが、現在は作家として活動しているのでしょうか?伊集院静さんの現在の情報をまとめました。
伊集院静さんは、1997年に妻の篠ひろ子さんと一緒に仙台に移住しています。伊集院静さんは作家として活動しながら、現在でも篠ひろ子さんと愛犬と一緒に静かな生活を送っています。
女優だった篠ひろ子さんですが女優活動を休止し、現在まで公の場にはほとんど姿を現していません。伊集院静さんによると、篠ひろ子さんは「家で料理を楽しんでいる」そうです。
伊集院静さんは、2021年1月21日にくも膜下出血で倒れたことが1月23日に発表されました。22日には手術を受けています。容体が心配されましたが順調に回復し、2月に病院を退院してリハビリ病院に転院しました。3月12日には本人が仕事を再開していくとコメントを発表しています。
3月下旬にはリハビリ病院も無事に退院しました。作家として活動できるのか心配された伊集院静さんですが、くも膜下出血の後遺症はないそうです。2021年7月現在も、作家として活動を続けています。
伊集院静さんは、篠ひろ子さんと結婚する前にも2回結婚しており、子供には有名人もいます。伊集院静さんの3回の結婚や子供に関する情報をまとめました。
伊集院静さんは、電通に勤めていた頃に一般人の女性と結婚しています。最初の妻は一般人だったためか、どんな女性なのか全く情報がありません。最初の妻との間に2人の子供が生まれていますが、1980年に離婚しています。
伊集院静さんは、最初の結婚で2人の娘が生まれています。長女に関しては詳しい情報は不明ですが、伊集院静さんの次女は女優で作家としても活動している西山繭子さんです。西山繭子さんは1978年1月21日生まれですが離婚前に伊集院静さんが家を出ているため、父親と暮らした記憶がないといいます。
幼稚園の時に父親の存在を知っていましたが、実際に伊集院静さんと会うことができたのは13歳の時です。芸能界に入ることを決めたのは、父親に会えると考えたからでした。
伊集院静さんは、1984年に7年間不倫を続けていた夏目雅子さんと再婚しています。結婚式は行きつけの寿司店の中で静かに行われたといいます。しかし、1985年2月に夏目雅子さんが倒れ、白血病になっていること発覚します。
一時は退院間近と言われるほど回復しましたが、7ヶ月の闘病生活の末に夏目雅子さんは27歳の若さで亡くなります。
夏目雅子さんが亡くなった7年後の1992年に、伊集院静さんは篠ひろ子さんと再婚しています。2人は「夏目雅子さんを偲ぶ会」で出会っています。夏目雅子さんが亡くなってから、伊集院静さんはかなり荒んだ生活を送っていました。
全国を転々としながらギャンブルとお酒に明け暮れており、体はボロボロの状態になっていたそうです。夏目雅子さんの兄と結婚していた元キャンディーズの田中好子さんはそのことを見かねて、伊集院静さんに篠ひろ子さんを紹介しました。
伊集院静さんは、作品の中で数々の名言を残しています。伊集院静さんの魅力的な名言の中から、2つの言葉をご紹介します。
「人はそれぞれ事情をかかえ、平然と生きている」は、伊集院静さんの著作「大人の流儀」で語られている言葉です。人には誰でも事情がありますが、多くの人はそのことを表には出さずに生きています。
伊集院静さんの言葉に納得する人が多く、名言として取り上げられることが多いです。この言葉は「NIKKEI プラス1」の何でもランキングでも取り上げられました。
「おのれ以外のために何かをする、それが生きるということ」は、「硬派の肖像―ぶれない男、31人の人生訓」で取り上げられた言葉です。硬派の肖像は、硬派な生き方を送ってきた31人のポートレートやインタビューを集めたものになっています。
伊集院静さんの言葉は、本の紹介ページでも写真付きで大きく取り上げられています。
伊集院静さんの生い立ちや若い頃の職業、3度の結婚生活などについてご紹介しました。くも膜下出血で作家生命が危ぶまれた伊集院静さんですが、後遺症もなく作家として活動を続けています。今後も良い作品を生み出して欲しいですね。
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