木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
まずは、小学6年生だった少女が起こした『佐世保事件』の概要についてお伝えします。『佐世保事件』とはどういった事件だったのでしょうか。
加害者・辻菜摘と被害女児が同じ小学校のクラスメートであり、友人の中の1人でした。とはいえ、親友というほどではなかったといいます。
加害者・辻菜摘は、被害女児を学習ルームに呼び出した後に、カーテンを閉めて床に座わらせました。そして、手で被害女児の目を隠して背後より首や左手をカッターナイフで切りつけて失血死させたのです。被害女児の首の傷の深さは10センチ、長さも10センチ程度となっていました。
通常の大人の首の太さは、直径で13センチから15センチほどです。いかに深く切られたかがうかがえるでしょう。また左手の甲にも深い傷があり、骨が見えるほどであったといいます。
加害者・辻菜摘は、犯行後に15分ほどその場に留まっていました。そして被害女児が息絶えたのを見届けた後で、返り血を浴び血まみれになった姿で教室に戻ったといいます。それから、担任の教師らを学習ルームに呼び出したのです。これにより、事件が発覚しました。
続いて、加害者となった辻菜摘の事件後や現在を見ていきたいと思います。辻菜摘はその後どうなったのでしょうか。そして、現在はどうしているのでしょうか。
加害者・辻菜摘は事件当時11歳であったため、刑事責任は問われませんでした。当時の少年法では刑事責任を問えるのが14歳からと決まっていたからです。そのため加害者・辻菜摘は、栃木県さくら市の児童自立支援施設『国立きぬ川学院』に送致されました。
『国立きぬ川学院』に送致されてからの加害者・辻菜摘は、職員に対してもきちんと従う模範生として過ごしています。施設での集団生活においても、トラブルを起こすことはありませんでした。とはいえ、面会に訪れた家族に対してもいたって冷静であり、ホームシックにもならなかったといいます。
まだ小学生という年齢の少女には見えない面も持ち合わせていたのです。
加害者・辻菜摘は、2008年春に『国立きぬ川学院』を退所して社会復帰しています。事件後には、被害者に対して自身の犯した短絡的な犯行を謝罪したいと語っていました。しかし、『国立きぬ川学院』にいた頃は、1度も謝罪の手紙を書いたことはなかったといいます。
また、加害者の両親が娘の代わりとして毎月謝罪の手紙を書いていたといいますが、娘が『国立きぬ川学院』を退所した後はそれも途絶えています。社会復帰をした加害者・辻菜摘については、社会復帰の妨げにならないようにと個人情報が全て伏せられました。
ネット上では、支援者の養子となり名字が変わったという噂があります。それだけでなく、結婚をして既に子どももいるとの噂もあるのです。なお、これまでに被害者宅に謝罪に訪れたことは一切ないとされています。
加害者・辻菜摘の画像は、ネット上にいくつも出回っています。その中の1つの画像に『NEVADA』と書かれた服を着た画像があり、その画像が可愛いということで、ネット上で『ネバダたん』と呼ばれました。また、彼女は顔が可愛いとも言われています。
続いては、加害者・辻菜摘の生い立ちや家族について見ていきたいと思います。辻菜摘の生い立ちは一体どの様なものだったのでしょうか。
加害者・辻菜摘は、児童相談所の職員によるとごく普通の女の子であり、成績も良好であり頑張り屋でもあったといいます。ただ、内向的な傾向にあり自己主張が苦手でもあったともいうのです。
加害者・辻菜摘の自宅は山間部にあったことから、路線バスを利用して通学していました。1時間に1本しかバスの便がないため、父親には帰りのバスに乗り遅れないようにと言い聞かせられていたのです。こうした居住環境もあり、彼女は放課後に友達と遊ぶこともできませんでした。
こうした点も、加害者・辻菜摘が友達を作ることにも影響を与えていたと見られます。そんな孤独感を抱えた娘を心配した父親は、パソコンを買い与えたのです。このパソコンで、加害者・辻菜摘はオカルトサイトを頻繁に見ていたといいます。
加害者・辻菜摘は、長崎県佐世保市の山間部の自宅で両親と祖母、姉(当時は商業高校に通っていた)の5人で暮らしていました。父親は、生命保険会社でサラリーマンをしていましたが、1995年に脳梗塞で一度倒れています。その際には、母親がパートに出て家計を支えました。
リハビリに励み社会復帰をした父親は、自宅で保険代理店を営業しながらおしぼりを配達するアルバイトをしています。これにより、加害者・辻菜摘の家庭は安定した生活をしていました。特に困窮していたということはなかったでしょう。
『佐世保事件』の被害者は、加害者の同級生であった御手洗怜美という少女です。次に、被害者となった御手洗怜美についてお伝えします。
御手洗怜美の母親・直美は、5年間という闘病生活の末に癌により2001年に他界しています。よって、その後は父親・御手洗恭二により育てられました。御手洗怜美には2人の兄もいたといいます。
御手洗怜美の父親・御手洗恭二は、事件当時に毎日新聞社佐世保支局長を務めていました。そして、御手洗一家は毎日新聞社佐世保支局の建物の3階に居住していたのです。3階建てのビルのため、最上階となります。なお、事件当時の長男は徳島大学に在学していたため、一緒に暮らしていませんでした。
御手洗怜美の次兄は、事件当時高校生でした。御手洗怜美からいじめの相談を受けていたものの、何もできなかったと後悔をして心身に異常を来してしまいます。留年の危機にも陥ったといいますが、その後は大学にまで進学をしたといいます。
加害者・辻菜摘が御手洗怜美を殺害するに至ってしまった、動機やきっかけは一体何だったのでしょうか。続いては、『佐世保事件』が起こった原因について迫ってみたいと思います。
加害者・辻菜摘は、2003年4月に両親に頼んで地元のミニバスケットボールのチームに入団しました。レギュラー入りも果たしていたといいますが、2004年2月に母親により強制的に退団させられます。それから、彼女の言動は不安的になっていったのです。
学校での授業中に居眠りをするようになったことや、突然にストレートパーマを髪の毛にかけて登校してきたという行動があったといます。
加害者・辻菜摘は、2004年3月より被害者となった御手洗怜美も含めた仲間たちで、交換日記を開始しました。また、当時流行っていたポ-タルコミュニケーションサイト『カフェスタ(現在は閉鎖済み)』でチャットをするなどして交流をしていた時期もあったといいます。
ところが、状況が変わってしまいます。2004年5月上旬に、加害者・辻菜摘が交換日記の文章の最後に『NEXT○○(仲間の名前)』と書くようになったことで、仲間内でそれが流行り、真似して『NEXT○○』と使用する仲間が増えたのです。
このことに加害者・辻菜摘が激怒し、仲間たちは萎縮して謝罪をしたといいます。しかしながら、御手洗怜美だけは彼女に交換日記の中で反論したのでした。『NEXTはみんなが使える表現ではないの?』と言ったのです。それが、加害者・辻菜摘の恨みを買う原因となってしまいました。
それからの2人は、表面上は仲良くしていたといいます。しかし、2004年5月下旬に御手洗怜美に冗談でからかわれたとして激怒し、加害者・辻菜摘は御手洗怜美に対して嫌がらせを開始させたのです。2人は、『カフェスタ』のパスワードを互いに知っていたといいます。
加害者・辻菜摘が御手洗怜美の『カフェスタ』のホームページを改ざんしてアバターを変更してしまいました。これに対し、御手洗怜美も『どうせあの人がやっているんだろう』と書き残しています。これにより、加害者・辻菜摘はさらに激怒して御手洗怜美の『カフェスタ』ホームページを初期化したのです。
加害者・辻菜摘はより御手洗怜美に対して憎悪の念を膨らませ、殺害を決意しました。殺害方法は、事件前日に観たドラマ『ホステス探偵危機一髪』から決めたといいます。
『佐世保事件』の加害者である辻菜摘は、その後に更生施設に入所したものの現在は社会復帰をしているものと考えられます。加害者・辻菜摘は2021年で28歳ほどになるでしょう。結婚をして子どももいるという噂もありますが、現在はどこかで静かに暮らしているのかもしれません。
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『佐世保小6女児同級生殺害事件』は、2004年6月1日に佐世保市立大久保小学校で起きました。午前中の授業が終わった後に、加害者である辻菜摘が被害女児を学習ルームに呼び出しました。そして、被害女児を殺害したのです。