2024/02/16
r.y6
和服姿が似合う美徳と演技力で人気を博した池内淳子さん。確かな演技力で、愛人・未亡人・芸者、そして割烹着の似合うお母さん役まで、幅広く活躍した池内淳子のプロフィールを、まず最初ご紹介していきます。
池内淳子さんは、東京都内の祖父の代まで8代続く塩物問屋・乾物屋の四人姉妹の長女として生まれました。父は、洋傘メッキの仕事をされていたそうです。
池内淳子さんは、70過ぎても女優としてまだまだ元気に仕事に励んでいた時、肺腺がんを患いました。一度は肺腺がんを克服したのですが、数年後に再発。そんな池内さんが患った病気のことをお話ししましょう。
池内淳子さんは、2007年4月、舞台「三婆(さんばば)」の地方公演中、胸に違和感を覚えました。そこで気になった池内淳子さんは公演中でしたが健康を優先して検査入院することにしました。
検査の結果、「間質性肺炎及び胸水貯留」と「肺腫瘍」が発覚し、「肺腺がん」の診断が下されてしまいました。池内淳子さんは同年5月から予定されていた舞台「怪談牡丹燈籠」を降板し、3ヶ月間入院して抗がん剤治療を受けました。
「肺腺がん」は太い気管支が枝分かれた、肺の奥=末端部分の細い器官に出来る肺がんのひとつです。「腺がん」は乳がんや胃がんでも多く、体の臓器にある分泌腺にできる「がん」で、比較的小さなうちから転移を起こす傾向があるそうです。
この腺がんタイプのものは、肺がん全体のおよそ6割を占めていると言われています。
3ヶ月の抗がん剤治療で腫瘍はほぼ消滅し、池内淳子さんは6月に退院し、自宅から通院しながら治療を続けました。8月にはテレビドラマに仕事復帰するまでに回復しました。
2010年、名古屋で舞台「三婆(さんばば)」に5月16日まで出演していた池内淳子さんは、肺腺がんが再発し、再び入院することになりました。
享年76歳だった池内淳子さん。40年間タバコを吸っていたと話したことがあり、死因はタバコではと言われたことがありました。でもそれが原因かは定かではありません。
都内の病院に入院してから4ヶ月後、池内淳子さんは肺腺がんのために死去しました。享年76歳でした。
2010年11月放送の「Wの悲劇」がテレビドラマの遺作となり、舞台「三婆」が生涯最後に出演した作品となってしまいました。
池内淳子さんは喫煙者でした。インタビューで、60代頃まで40年間ほど喫煙していたと述べたことがあります。
池内淳子さんの若い頃の画像を検索すると、タバコのポスターガールの画像を見つけることができます。その写真でも池内淳子さんの喫煙する姿がとられています。
池内淳子さんは喫煙者でしたが、それが死因となった肺腺がんの原因であったのかどうかは、はっきりとは分かりません。
池内淳子さんのお別れ会では、池内さんとは実の姉妹のように仲が良かった長山藍子さんが世話人と友人代表として挨拶を行いました。
長山さんは、親族と共に池内さんを看取っています。そこには、池内淳子さんが出演したテレビドラマ「女と味噌汁」などを手掛け彼女と親しかった演出家・石井ふく子さんももいたそうです。
お別れ会には、佐久間良子さん、八千草薫さん、三田佳子さん、淡島千景さん、水谷八重子さん、坂口良子さん、賀来千香子さん、石田ひかりさん、菅野美穂さん、宇津井健さん、藤田朋子さん、前田吟さん、井上順さん、田中健さん、中原ひとみさん、石倉三郎さん、浅丘雪路さん、三浦友和さん、高橋英樹さん他、著名人800人あまりが参列しました。
池内淳子さんは黒柳徹子さんとは幼稚園の頃から友達で、とても仲が良かったそうです。
黒柳徹子さんのベストセラー「窓際のトットちゃん」にトモエ学園が出てきますが、そのトモエ学園の幼稚園時代に黒柳さんと池内淳子さんは同級生だったのだそうです。1963年に幼稚園はなくなってしまいましたが、二人の友情はずっと続きました。
池内さんは、将来は黒柳さん、山岡久乃さんの3人で老人ホームに入ろうと約束していたらしいです。
池内さんが亡くなった際、黒柳徹子さんは自身が司会を務める「徹子の部屋」で追悼番組を緊急放送しました。
池内淳子さんは、「徹子の部屋」には1967年の初回から12回出演していて、最後の出演は2009年1月の放送で、仲のいい二人の会話が繰り広げられました。
黒柳徹子さんは、池内淳子さんの死について「別れが早すぎる、涙が止まらない」とコメントしています。
池内淳子さんは、高校創業後に女性たち憧れの日本橋三越で働きました。退社後は花嫁修業にいそしんでいたのですが、「サンケイグラフ」に応募して合格したばっかりに、映画界に入ることになります。その経緯をお話ししましょう。
池内淳子さんは、十文字高等学校を卒業後、当時の日本女性の憧れだった日本橋三越の入社試験を受け合格しました。
池内淳子さんが外に出て働くことに両親は反対しましたが、祖父の許しを得て日本橋三越の呉服売り場で働くこととなりました。呉服売り場には、後に女優となった前田通子さんもいたそうで、池内淳子さんと共に美しい要望が評判となりました。
池内淳子さんは、1年ほど日本橋三越で働いた後、1954年に退社して花嫁修業のために和裁と料理の学校(日本女子割烹専修学校(現:池袋調理師専門学校))へ通いました。
そのときに友人の勧めで「サンケイグラフ」のカバーガールに応募し、見事合格し、10月下旬号で池内淳子さんが表紙を飾りました。
「サンケイグラフ」の表紙を飾った池内淳子さんの写真が映画会社・新東宝の目に止まり、スカウトされて池内さんは新東宝に入社し映画界へと進出することになりました。
新東宝で、池内淳子さんは偶然にも同じ新東宝に入社した前田通子さんと再会しました。
池内淳子さんは、新東宝入社の翌年の1955年に「皇太子の花嫁」の脇役でスクリーンデビューしました。続く「次郎物語」で主人公の妹を演じ、注目を集めました。
その後、池内淳子さんは清純は女優として青春映画や時代劇に出演し、1956年に「新妻鏡」で初の主演に抜擢されました。共演は高島忠夫さん。
1957年には「警察官」「リングの王者・栄光の世界」「鋼鉄の巨人(スーパー・ジャイアンツ)」と立て続けに出演し、久保菜穂子さん、三ツ矢歌子さんと共に「新東宝現代劇の女優三羽烏」と呼ばれ、新東宝の看板女優となりました。
池内淳子さんは、24歳の時にジャズ歌手の柳沢真一さんと結婚しました。しかし、結婚期間は三ヶ月にも満たず、離婚してしまいました。理由は定かではありませんが、その後、池内さんは再婚せず女優一筋の道を歩みました。
池内淳子さんは、1957年にラジオの共演で知り合った、俳優でジャズ歌手の柳沢真一さんと結婚し、映画界を引退しました。挙式は、品川プリンスホテルで行われました。
1932年・東京生まれ。
ジャズ歌手、俳優、声優、福祉活動家、ボードビリアン、作詞家など様々な分野で活躍した多彩な人物。
1952年にジャズ歌手デビュー。俳優として主演・助演を併せて150本以上に出演。声優としては、アメリカTVドラマ「奥様は魔女」のダーリン役の吹き替えで知られています。
池内淳子さんは、結婚した翌年に実家に戻り、柳沢真一さんと離婚しました。池内さんと柳沢さんが夫婦であった期間は87日間しかありませんでした。
離婚の原因は、性的不一致、姑がしっかり者すぎた、池内さんの暴力など諸説が噂されましたが、真相は不明です。
池内淳子さんは、柳沢真一さんとの離婚後、新東宝と再契約して、1960年に「花嫁吸血鬼」でスクリーンに復帰しました。
「花嫁吸血鬼」で池内淳子さんは、毛むくじゃらの怪物に変身する悲劇の美女を、特殊メイクをして演じました。
なんでも、新東宝の社長・大蔵貢さんが、もともと池内淳子さんの結婚に反対だったそうで、映画界に復帰した池内さんは自分では不本意な役ながら、泣く泣く引き受けさせられたのではと噂されました。
しかし、当時の新東宝では、このような役をふられるのは特別なことではなく、池内さんに限った話ではなかったそうで、ただの噂に過ぎないとも言われています。
池内淳子さんに息子がいて俳優をしているという噂がありますが、残念ながら息子さんはいないようです。結婚生活が短かすぎるせいもあると思われます。
池内淳子さんは、新東宝に入社し、1955年「皇太子の花嫁」で映画デビューしました。
その後も数々の新東宝作品に出演し、1961年に新東宝が7億8千万円(当時)の負債を抱えて倒産すると、東京映画(東宝)に移籍し「社長シリーズ」「駅前シリーズ」「けものみち」などに出演しました。
1960年には映画と並行してテレビドラマにも進出し、よろめきドラマ(不倫ドラマ)が昼の放送にもかかわらず高視聴率を記録しました。
その後も、池内さんが出演すれば高視聴率をマークし、「20%女優」とも言われ、愛人・未亡人・はたまた割烹着の似合うお母さん役まで、幅広く活躍しました。
池内淳子さんの1955年公開のスクリーンデビュー作です。
女性雑誌記者(島崎雪子)と敏腕カメラマン(高島忠夫)が、皇太子だったころの天皇陛下の御妃候補を巡って取材合戦を繰り広げる様を明るく描いた作品。
池内淳子さんは、5人の花嫁候補の1人を演じています。
池内淳子さんは、映画と並行してテレビドラマにも進出しました。1960年に出演した、丹羽文雄の小説をドラマ化作品がそのひとつです。
病気にふせっている妻がいる出版社の社長(原保美)が、温泉宿で出会った女性と恋におち、妻に内緒で不倫関係を続けるストーリーで、池内淳子さんは不倫相手の女を演じました。
昼ドラマ(フジテレビ 昼1時~1時30分)にも関わらず驚異的な視聴率を記録し、池内淳子さんの人気が沸騰しました。1962年には、よろめきドラマ(現在の不倫ドラマ)には欠かせない人気女優となり、日本放送作家協会女性演技者賞を受賞しました。
橋田壽賀子脚本による国民的人気ホームドラマ「渡る世間は鬼ばかり」の第9シリーズ(2008年4月3日~2009年3月26日)に、池内淳子さんは、岡倉大吉(宇津井健)から思いを寄せられる女性・小宮怜子を演じました。
大吉が店で酔いつぶれた女性客・怜子を介抱し、彼女が気に入った大吉はその後何度か会います。店で出した求人広告を見てやってきた怜子を雇い、いつしか2人は互いに惹かれあい、再婚の話にまで至るのですが…。
松本清張の社会派サスペンスの長編小説を、須川栄三が監督した1965年作品。
池内淳子さんは、珍しく悪女を演じています。共演は、池部良、小林桂樹、小沢栄太郎、菅井きん、伊藤雄之助。
中風で寝たきりの夫を、女中勤めで養っている民子は客のホテル支配人・小滝にそそのかされ、事故死を装って夫を焼き殺します。そして、小滝の紹介で政財界の大物で体の不自由な老人・鬼頭の屋敷で彼の世話をし、彼の愛人として過ごすことになります。
民子の夫の焼死事件に疑問を抱いた警視庁の久恒刑事は、彼女のアリバイを崩そうとしますが、次第に民子の美徳に惹かれていき、彼女に淫らな行為を迫ろうとします。
鬼頭の周囲の人間が次々と人が殺害されていき、恐ろしくなった民子は小滝の元を訪れますが…。
愛欲に溺れる妖艶なヒロインを、池内淳子さんはエロスを振りまきながら大胆に演じています。
清楚な雰囲気漂う正統派美人の池内淳子さん。よろめきドラマから人情ドラマまで様々なジャンルの作品に出演し、小粋な和服姿の芸者から割烹着の似合うお母さん役まで、幅広い役柄を演じました。
池内さんのテレビドラマのヒット作のひとつが1965年6月からスタートした「女と味噌汁」。自分の小料理屋を持つことを夢に見る新宿の芸者が、ライトバンで祖母から教わった味噌汁とおにぎりの店を出す日々を描いたもので、後に劇場映画化もされました。
主婦など女性ファンが多い池内淳子さんだけに、そんな「女と味噌汁」のイメージを生かしたCMや広告がいろいろ作られています。
味の素 ほんだし女房CM
今は亡き美人女優・池内淳子さんの死の原因や結婚、それに出演ドラマや映画を通して彼女の生涯を振り返りましたが、いかがだったでしょうか。
池内淳子さんが出演したドラマや映画は映像ソフト化されているものが結構あります。今一度、池内淳子さんの名演技や和服が似合う美しさを見直してみたらいかがでしょうか。
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