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えたひにんを現在の苗字で見分ける方法がある?苗字や地域とは

えたひにんとは江戸時代に見られた身分制度の階級を表す言葉で、明治時代に制度は廃止されましたが、現在でも差別問題は残っているようです。今回はえたひにんに多いと言われる苗字や、現在使用されている苗字をご紹介します。さらに、えたひにんが多い地域もご紹介します!

えたひにんについて理解を深めていこう

江戸時代に士農工商という身分制度があったことは、学校で習い覚えている方も多いかもしれません。武士が最も位が高くて商人が最下級であるとされたものです。しかし、商人よりも下となる"えた"や"ひにん"といったものも存在したことを知っているでしょうか。

今回は、"えた"や"ひにん"についてじっくりと探っていきます。

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江戸時代差別されていた「えたひにん」とは?

まずは、"えた"や"ひにん"に関して詳細を見ていきましょう。"えた"や"ひにん"とは一体どういったものだったのでしょうか。その謎について詳しくみていきます。

差別階級に位置した「えたひにん」

『えたひにん』は『穢多非人』と書き、江戸時代に定められた身分差別で用いられた言葉でもあります。穢多非人と言われる人たちは、江戸時代の身分制度において、最も低く位置付けられた身分となっていました。

えたひにんはえた・ひにんの二語

『えたひにん』と一括りのように呼ばれることも多いのですが、実際には『穢多』と『非人』の2つの言葉から成ります。両者は似ているようですが、異なるということです。

えたとは?

穢多という言葉の由来は、日本仏教や神道での『穢れ』の考えから来ている、『穢れの多い仕事』に関わるという意味があるとされています。穢多の起源については古く、古代の奴隷などによる説もあるものの、明らかにはなっていません。

穢多は動物の皮を加工する職に就いていたため、最下層のランクの身分とされました。動物の皮を加工することは、仏教の教えに背くほどの卑劣な行為とされたからです。江戸時代では、革製品は戦の道具や衣装などに必要なものでした。

穢多の身分を放棄し革製品を作る仕事をする者がいなくなるのを回避するために、穢多は代々継承されていった可能性もあります。

ひにんとは?

非人は、穢多よりも扱いが酷かったとされていて、その字のごとく人間としては扱われていなかったのです。由来は犯罪を犯した者という意味にあります。非人たちは、仏教の僧侶が行う布教活動の『勧進』のサポートを行って生計を立てていました。

勧進を行うために、町には勧進場や勧進権があり独占し警護および部外者の排除などを役割として徴用されたのです。また、非人には"足洗い制度"が存在しました。要するに、功績をあげてお金を稼ぎ、保釈金を支払うと元の身分に戻ることができるというものです。

ひにんは「野非人」と「抱非人」の二種類

実は、非人には2種類あるのを紹介します。その者がした行い次第で区別されていたのです。『野非人(のひにん)』は現代で言えばいわゆるホームレスを指します。農民が農村部において病や障害で武士に年貢を納められなくなったことで、江戸へと流れてきて野宿をするようになったということです。

もう1つの『抱非人(かかえひにん)』は、自身の姉妹や叔母、姪と密通をした者や、男女で心中を図り生き残った者、主人と下女が心中をして生き残った主人、15歳未満、宿がなく盗みをした子供が該当しました。

この抱非人は、前述の通りに足洗い制度により元の身分に戻ることが可能だったのです。

えた・ひにんの違いや由来とは?

身分としては穢多の方が上とされています。しかしながら、変わる穢多は生まれてから一生身分が変わることはありません。その点最も身分が低い非人は野非人であり身元を引き受けてくれる人がいるなら、身分は回復する余地があります。

穢多という名称の由来で最も有力であると考えられるのは、『鷹が餌を取る(えとり)』とされているもののはっきりとしていません。江戸時代に屍体処理をする者を『餌取』と呼んでいて、死んだからだを鷹の餌とする仕事があり、『餌取』と『穢れ』がミックスされて穢多と言われるようになっとされています。

非人は、平安時代の貴族で書家であった橘逸勢が、当時の仁明天皇より謀反人として捕まった時に、自らの姓を橘から非人へと変えたという説があります。

えたひにんに多く使用された苗字は?

日本にも苗字はたくさんあるものです。では、穢多や非人の苗字にはどういったものがあったのでしょうか。ここで、えたひにんの苗字について細かく迫っていきます。果たして現在でも使われている苗字はあるのについても注目しつつ見ていきましょう。

一般人とは別の苗字を与えられた

穢多や非人にも苗字は与えられていました。それでも、苗字を聞いたり見たりしただけで穢多もしくは非人であると分かるように、一般の士農工商の人たちとは区別された苗字が与えられていたのです。やはり、普通とは異なり差が付けられていたということになるでしょう。

 

えたひにんは部落差別の「部落」の概念に

穢多や非人が暮らしていた地域は、『非差別部落』と呼ばれて後々にその地域は『部落』と呼ばれるようになりました。穢多非人が、この『部落』という言葉の観念とされています。その名残もあってか、西日本などを主として被差別部落を『部落』と呼ぶようになり、現在でも『部落』という言葉は使われることがあるのです。

ただ、『部落』といったからといって全て被差別部落を指すわけではありませんし、先入観で『部落』と安易に用いるのは控えるのも一案となります。

部落の人に多い苗字はある?

部落では、川・河・辺・沖・岸・水・島・牛といった漢字が使われている苗字が多いとされています。ちなみに、非人の場合は何等かの罪により非人となった者ですので、苗字は元のものが使われることが多かったのです。

動物の漢字が入る苗字

穢多や非人には、『牛島』などといった動物を意味する漢字が入る苗字が多かったとされています。穢多の場合は、農民が捨てた家畜もしくは死んでしまった牛や馬などを回収し賃金としていました。回収した動物の皮を加工し商売をしていたために、苗字にも動物の意味がある漢字が使われていたのです。

皮や革が入る苗字

穢多や非人には、皮や革といった漢字も苗字に多く使われていました。動物の漢字と同じ意味合いで、皮の加工をしているということから皮もしくは革が苗字の漢字として使われるようになったのです。やはり、仕事が由来で苗字が付けられることが多かったということでしょう。

川が入る苗字

漢字の『川』を使った苗字も穢多や非人には多かったとされています。えたひにんはあまり安定感のない川の近くに住んでいるケースも少なくなく、川の傍に住むということで『川』の漢字が苗字に使われたのです。

また、例えば浜の近くなら『浜川』や、森にも近いなら『森川』など住んでいるのが川の近くでもどの辺なのかが分かるようになっていました。

東西南北が入る苗字

えたひにんは、苗字に東西南北の漢字が使われていることも多かったとされています。彼らの中には、川漁師として働いていた者も多く川の近くに被差別部落が形成されていました。川は、東西や南北といった風に流れる方向を表せたのです。

えたひにんが住んでいる部落がどの場所にあるかという意味もあり、川西もしくは東川などの苗字が用いられるようになりました。

えたひにんを家系に持つ人は現在苗字を変えている?

えたひにんを家系に持つ人は、先祖が穢多もしくは非人だった場合にそれを隠したくなるかもしれません。では、彼らの子孫の人たちは苗字を変更しているのでしょうか。その点について迫っていきます。

「川」や「河」の苗字に変更している

えたひにんには、『皮』や『革』といった漢字が用いられる苗字が多かったと先述しましたが、えたひにんが先祖である人たちは、その事実を隠すためか今では『川』もしくは『河』に苗字を変更し、名乗っているケースも少なくありません。

 

苗字を変えることで、新たな一歩を踏み出せたのでしょう。

「身分解放令」により苗字を変えた

明治時代になり1871年に『身分解放令』により身分制度は廃止となりました。そのため、穢多の公称もしくは罪人に与えられる非人という刑罰もなくなったのです。それによって、えたひにんとは呼ばれることもなくなりましたし、自由な人権も得られるようになりました。

これを機に、元えたひにんたちは苗字を変えたとも考えられます。

「新平民」として区別された

『身分解放令』によりえたひにんという制度上の差別こそなくなりました。しかし、元えたひにんたちは『新平民』と呼ばれて実際には差別は残ったままだったのです。一般平民とは一線を画していたのでしょう。

地域の間では差別意識がまだまだ根強く残っていましたし、皮革加工業での特定の業種を独占する権利がなくなったことから失業し、納税や兵役の義務までも課されることとなったのです。それによって、新平民の多くは経済的に困窮し”明治政府反対一揆”と呼ばれるような打ち壊しを行うほど、強く反発しました。

祖父母と苗字が違う場合も?

普通なら、大概は自分とどちらかの祖父母とは同じ苗字なはずであると考えられるでしょう。それでは、えたひにんの場合はどうなっているのでしょうか。祖父母と苗字は異なるのかについて、見ていきます。

祖父母と苗字が異なる場合がある

今の時代でも、祖父母と自分の苗字が異なるという方がいます。例を挙げるとすると、祖父母は『皮田』だとしたら、自分は『川田』であるといった具合です。苗字を意図して変えたというのがうかがえるでしょう。

部落差別を危惧して苗字を変更

苗字が変更された理由は、昔はえたひにん出身だということで結婚や就職において不利になってしまう恐れがあったからです。要するに、部落差別の名残があったことで不利な状況をしたために、多くの人が苗字を変更したのでした。

祖父母の時代は変更が大変だった

身分での差別がなくなった後は、苗字を変えるとなると多くの手続きが必要でした。それは祖父母の家系においても同様であり、それが理由となって祖父母は苗字を変えなかったと考えられるでしょう。当時は、そういった方も多かったのです。

えたひにんの身分や生活は?

ここで、えたひにんの身分および生活について詳しく見ていきましょう。えたひにんというのは、一体どういった身分でありどの様な生活を営んでいたのでしょうか。暮らしぶりなどを探っていきます。

えたひにんの身分とは

えたひにんは、江戸幕府により確立された身分制度『士農工商』の最下層に位置する身分でした。今の時代には考えもつかないような、身分上の差別を受けていたのです。そして、生活も普通とはかけ離れたものでした。

 

当時は武士が最高位であり次が農民でしたが、実際には農民の生活はそれほど良いものではありませんでした。そのことで農民の不満は溜まり溢れてしまいます。それで幕府はえたひにんを置き、農民の抱える不満を抑えて、商いで失敗し負債を抱えた商人や辛い農作業から逃れた農民などを、『えたひにん』の括りとしたのです。

士農工商は中国から伝来した

士農工商は、元は中国に古くから伝わってきた人民を構成する要素を4つに分類するための概念が、基になっています。中国の儒教では、社会は国家機関である"官吏"や農作業をする"農民"、熟達した技で手工業を経営する"職人"、そして商売をする"商人"の4職種で構成されると考えられていました。

日本でも同様の職種区分にしようとしたものの、江戸時代の身分制度は職業の概念が実質的な身分制度とは異なっていたのです。実質的な江戸時代の職業区分は、"士"は武士として"農"を百姓、"工"については町に住む職人を町人とし、村に住む職人は百姓とされました。

"商"は町人が当てはめられたのです。百姓は、農業に加えて海運業や手工業で財を成した者も該当しています。百姓および町人は"平人"としてまとめられました。平人は、武士に上がることもありませんでしたが、えたひにんへと位が下がることもなかったのです。

えたひにんの生活事情とは

えたひにんは江戸時代の最下層身分ですので、人としては扱いを受けていませんでした。農業や物づくり、商売といった一般の仕事が禁止されていたのです。それだけでなく、祭事に参加することさえも許されず、祝うことも悲しむこともできなかったとされています。

それは、神様が汚れるからという理由からでした。そして沼地もしくは山奥でひっそりと暮らすしかなく、自身の家の墓についても墓石を土の下へと隠す必要があったのです。

えたひにんの存在意義とは?

人間は、『死』が必ずやってくるものです。それでも、誰も触れずに『死』を放置していれば、動物の死骸や人の死体が至るところに転がっている世の中になってしまうでしょう。それを避けるために、えたひにんに『死』に接するような仕事をさせていました。

誰もしないような業務を担っていたえたひにんですが、彼らがいたからこそ当時の日本の秩序も保たれていたのかもしれません。

えたひにんが多く住む地域とは?

えたひにんがどこで暮らしていたのか、気になるところです。ここで、えたひにんはどういった地域に多く住んでいたのかについて、迫っていきましょう。一体、どういった場所が居住地だったのでしょうか。

えたひにんが多くいた地域とは?

えたひにんの住む地域は、被差別部落と呼ばれました。被差別部落とは、えたひにんに関する対策事業の対象になった地域をまとめて呼んだ呼び名であり、その地域とは西日本が大変に多く、福岡県に最も多くて続いては広島県、そして愛媛県と続いて被差別部落の数が多かったとされています。

福岡県

福岡県は、えたひにんが暮らしたという被差別部落の数が最も多いとされていて、600地域ほどあったのです。江戸時代は、ロシアからの弾圧に抗うために蝦夷地(現・北海道)が幕府の直轄地となっていました。

さらに、蝦夷(えみし)を北海道や東北、北関東から福岡へと連れてきて、働かせたとされているのです。仕事の内容はというと、大宰府の重要な地域の警備や、蝦夷には蝦夷地での伝統狩猟の技術があったことで、皮なめしの仕事をさせられていました。

多くの蝦夷が福岡に連れてこられて、えたひにんの仕事に従事し被差別部落に居住することになったために、部落の数も多くなったとされています。

広島県

広島の場合は、被差別部落は414または422か所あったとされています。広島県の中でも、最も大きな部落とされたのは、広島市西区にある福島地区です。その大きさは国内でも5番目に入るほどの規模だったとされています。

広島には1889年に軍港が開設されたために、日本海軍が求める牛豚肉を用意するための、食肉市場が置かれたのです。また日本海軍が運ぶ遺体の処理もしくは捕らえた兵士を投獄し警備する目的の施設も設置されました。

上記のような仕事をさせるために、えたひにんが多数必要となったことから部落が付近に増えていったとされたのです。

愛媛県

現段階では、愛媛県の被差別部落の数は400地域ほどとされています。この地域の多くは、海沿いに100世帯以上あるとされているのです。海沿いに多い理由は、愛媛が四国4県の中で最も被差別部落の数が多く、その理由は海賊(水軍)対策であると考えられています。

中世の日本の瀬戸内海では、村上水軍が勢力を誇っていました。江戸時代になると長州藩の船手組となり海上を押さえていて、その警備もしくは他の海賊の対策のためにえたひにんが必要視されたと言われています。

京都府

京都の場合は、被差別部落の数が200地域ほどあったとされています。江戸時代の日本の発展は、京都が中心となっていました。京都に部落が多かったのは、聖い天皇の概念を強固なものとするために、穢れているとされるえたひにんの存在を、人々にしっかりと認識させなければいけなかったのです。

また京都は貴族階級の人が多く、平民からの不満も少なくなかったため、その対策として身分制度をきちんと根付かせる目的で、えたひにんが多く置かれたと考えられます。それに人口が多いので、重要な地域の警備をする人手も必要になり、貴族たちが所望する皮革加工品も多数にのぼったことから、えたひにんが多数必要になったという説もあるのです。

えたひにんの差別は現在もある?

差別というのは、基本としてなくなったと考えられますが、実際のところは本当に差別は現在行われていないのでしょうか。ここで、現在は差別はなくなっているのかどうかについて、迫っていきます。

現在も差別は存在する

明治時代になると、『四民平等』という言葉も生まれるほどに皆が自由になり、平等であるとされました。しかし、現在では高齢の方や歴史的背景に詳しい方などの中には、苗字を聞いたり出身地を聞くだけで、被差別部落の出であると理解する方もいます。

 

そして、未だもってえたひにんへの差別は無くなってはいません。今でも残っていて、続いたままなのです。

結婚や就職で出自を調べられる

通常なら、結婚や就職でそこまで出自を調べられるということはないでしょう。えたひにんへの差別がなくなった今でも、結婚や就職に関しては差別が残っています。えたひにんかどうかを調べて、親子関係や先祖などについて調べられるのです。

結婚は家同士の問題でもありますし、被差別部落は貧困層が多い地域でもあり荒れているケースも少なくないので、結婚相手として避けたがられることがあります。それに、特段に理由がないとしても周囲の風潮に倣い避けようというパターンも多いのです。

就職についても、企業は優秀な人材を求めるものでしょう。家庭環境にも重きを置かれて貧しく育った人や満足に教育が受けられなかった人は、取らないようにしようとするケースもあるのです。

荒廃した地域への元部落の疑惑

今でこそ同和地区(被差別部落の行政用語)の対策として、解消に向かっているものの、少し前までは被差別部落だった地域の環境は良いと言えるものではありませんでした。上下水道の整備が間に合っていなかったり、舗装道路の整備をするはずがそのままになっていたりするのです。

それもあってか、現在でも荒れている地域に対して被差別部落ではないかと疑いの目が向けられています。要するに、えたひにんが暮らしていた被差別部落は、発展もしなければ汚くて荒れているといった、地域差別であると考えられるでしょう。

不動産屋に知らされる

例えば大阪府にも被差別部落は多くありますが、近くに同和地区がないかどうかを家を選ぶ際のポイントにしているという方がいることがわかっています。宅建業務法第47条によると、敢えて事実を告げなかったり事実ではないことを告げることを禁止しているのです。

要するに、住宅の購入時や賃貸時の判断により大事な項目は隠さずに伝えることが必要となるでしょう。よって不動産屋は敢えて被差別部落であった場所であると教えています。ただ、日本政府はこの件について"そうした点に答えなくても良いのが宅建業務法第47条である"としているのです。

そうした状況でも、えたひにんについてはまだまだ差別意識が残っていて、伝えなければ逆に顧客等に批判をされてしまうと思い、不動産屋は被差別部落であった事実を顧客に伝えています。

被差別部落出身の芸能人はいるの?

えたひにんや被差別部落について見てきましたが、被差別部落の出身である有名人もしくは芸能人はいるのでしょうか。ここで、被差別部落出身の芸能人について探っていきましょう。驚くような人も被差別部落の出身かもしれません。

被差別部落出身の有名人は多いのか

被差別部落の出身であるとされる有名人や芸能人が多いという噂があります。一般人であっても被差別部落出身者であることを隠して暮らす人も多いですが、自ら被差別部落出身であると公言する有名人もいたほどです。

 

今では、成功していてお金持ちであるというのが芸能人らのイメージかもしれません。しかし、江戸時代から昭和の初期頃までは、芸能というのは低い身分の貧しい者のすることとされていました。芸能人は、社会的な地位が低かったということです。

 

そうした流れは近年まで続き、芸能事務所も経営陣に被差別部落出身者が多いことで、所属する芸能人や有名人も必然的に被差別部落出身の人が多く採用になるという噂があります。

 

被差別部落出身の有名人:野中広務

政治家の野中広務は被差別部落出身です。大臣および内閣官房長官、国家公安委員長等を務め、『影の総理』という異名もあったほどでした。野中広務は1925年京都府南丹市生まれです。自ら被差別部落出身であると認めていて、被差別部落や在日朝鮮人に関する差別対策にも奔走したのです。

2001年には、麻生太郎に『野中広務は被差別部落出身だから、総理になれるわけがない』と言われたことから、野中広務は麻生太郎に詰め寄ったという逸話もありました。

被差別部落出身の有名人:三國連太郎

三國連太郎は群馬県太田市で1923年に生まれました。『ビルマの竪琴』や『はだしのゲン』といった180本以上もの映画作品に出演している俳優です。『釣りバカ日誌』のスーさん役でもおなじみでしょう。

彼の父親が電気職人で被差別部落出身であることを明かしています。また、部落差別の本を出版したり講演をしたりといった活動もしていました。2013年に亡くなりましたが、その直前に息子に「戒名はいらない」と言ったともされています。

実は戒名には、被差別部落の人に向けた侮辱するような言葉が含まれる『差別戒名』があるとされ、それを許すことができずに戒名をつけることを拒んだと考えられます。

えたひにんの差別は今にも続く

江戸時代に確立された『士農工商』の身分制度。この下にも『えたひにん』という下層の身分が設けられていました。穢多は生まれながらの身分であり代々受け継がれ、死を迎えるまで身分や穢多としての苗字は一生変わりません。

そして、非人は稼いだり善行をすれば元の身分に戻れるというものでした。四民平等となりえたひにんは法律上なくなりましたが、彼らが集められ暮らしていた被差別部落はまだ残り、差別自体も未だに存在しているのが実情なのです。

本来であればとっくに消えたはずの差別は、実際は今も色濃く残っていることですので、早くそんな差別のない本当の意味で皆が平等に生きられる世の中になることが望ましいでしょう。

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