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    治安が悪かった?在日朝鮮人のウトロ地区の現在は?今の治安は?

    ウトロ地区は戦前から続いている京都府宇治市伊勢田町51番地に所在する地区であり、戦後も在日朝鮮人がすみ続けています。ウトロ地区はしばしば差別的な言葉の使われ方していますが、果たしてどのような地区になのでしょうか。また現在どのような形で残っているのでしょうか。

    【この記事は2020/04/04に更新されました。】

    ウトロ地区とは?在日朝鮮人が住んでいて危険?

    皆さんはウトロ地区を知っているでしょうか。

    ウトロ地区は京都府宇治市伊勢田町51番地に所在する地域の名称であり、昔から在日朝鮮人が住んでいるというのが特徴です。

    さて、そんなウトロ地区の歴史や実情とはどういったものなのか今回はご紹介します。

    また、北海道にあるウトロと関係があるのかもご紹介します。人気タレントの安田美沙子さんの父親がウトロ地区出身との噂もありますが真相はどうなのでしょうか?

    ウトロ地区とは?

    地元の人でなければ、あまりウトロ地区という名称は耳慣れないかもしれません。そこでまず、ウトロ地区というのがどういったエリアなのかについて迫っていきます。最初にその実態の一口に入ってみましょう。

    『そういうことか』と少しだけでもウトロ地区がどういったところなのかがわかるでしょう。

    戦時中の労働者が暮らす地区

    ウトロ地区というのは、京都府宇治市伊勢田町51番地にある地域です。自衛隊・大久保駐屯地の北側にあるのが特徴でもあります。ウトロ地区という名称は通称となっていて、正式名称ではありません。

     

    宇土口(うとぐち)が正しい名称ですが、朝鮮人が間違えて読んだり書いていたことで『ウトロ』へと変わっていったと考えられています。そうしたことから、北海道にある『ウトロ』とは無関係となっているのです。このウトロという名称は、京都市には正式には認められていません。

     

    要するに、『ウトロ地区』というのは通称という形になります。第二次世界大戦の前に、航空機工場で働く人達の宿泊場があり、沢山の朝鮮からの出稼ぎ労働者がいたのです。そのエリアがウトロ地区となります。

    在日朝鮮人が住んでいる

    第二次世界大戦の最中の1942年に、京都飛行場と併設となる飛行機工場の建設が決まりました。工事を担当する2000名ほどのうち、1300名ほどが朝鮮人であり労働者とその家族が暮らしていた宿泊施設が、今のウトロ地区の起源です。

    昔、ウトロ地区の住民はこの地に住むために、自分達は1944年9月から1945年3月までの期間に出稼ぎへとやってきた朝鮮人労働者とその子孫なので、ウトロ地区に住む権利を原因である企業の日産が保証をするべきだと主張していました。

    地主企業である西日本殖産との法廷闘争と同じ時期に、日本政府や日産を相手にして闘争をしていたのです。ところが今では、ウトロ地区の住民らが参加する『ウトロ国際対策会議』では日本国際航空工業で働いていた朝鮮人1,300人は、大体が国民徴用令もしくは国家総動員法により徴用されたわけではなく、経済面の理由や兵役を逃れるために移住してきた者達であるとしています。

    戦後は大半の労働者が帰国

    1945年7月にアメリカ軍により飛行場が爆破されたことで、航空機工場は生産がストップして、従業員らは職を失いました。終戦と共に飛行場の建設も止まると、従業員達がそこにずっといる法律面での事由もなく、よりGHQにより基地や付帯となる設備が接収されたのです。

    多くの朝鮮人労働者は帰国したものの、GHQから受けた退去勧告や朝鮮への帰国を促す要求も拒み朝鮮人達が不法に滞在し、GHQが接収に失敗した元の宿泊施設が朝鮮人達の集落の元となっています。帰国しなかった理由は、朝鮮までの船の運賃が数か月分もの給料ほどの値段という高さであったからでした。

    それか、GHQが行っていた無償の朝鮮への送還事業に含まれなかったというのもあったのです。日本には朝鮮人の集落がウトロ地区以外にも幾つもありますが、私有地を不法占拠しているということについては、他の朝鮮人集落とは事情が違うでしょう。日本国際航空工業が合併するなどして、1962年にはウトロ地区の土地所有権は日産車体に移っています。

    ウトロ地区出身の芸能人は安田美沙子?

    タレントとしてテレビで見かける機会が多い安田美沙子さん。京都出身者として有名ではありますが、ウトロ地区の出身ではないかという噂が、まことしやかに囁かれています。それはどういったことなのでしょうか。

    その実態について迫っていきましょう。

    ウトロ地区のある宇治市で育つ

    安田美沙子さんは、1982年に母の実家である北海道札幌市で生まれました。京都府の北部にある京丹後市で小学校1年生までを過ごし、小学校2年生からはウトロ地区のある宇治市に転居しています。

     

    そして、宇治市立岡屋小学校を卒業し宇治市立東宇治中学校、京都府立東宇治高等学校を卒業しました。それから摂南大学の国際言語学部を中退しています。安田美沙子さんが宇治市に住んでいたことがあることから、ウトロ出身者ではないかという噂になったのかもしれません。

     

    また、噂になった理由の1つとしては彼女の持ち味である京都出身である点にカギがあります。彼女が話す京都弁がわざとらしいと言われたり、無理をして京都弁を話していると言われる点にあるのです。ただこれも単なる噂に過ぎないと言えるでしょう。

    ウトロ地区出身とは断定できない

    上記のように安田美沙子さんが宇治市でも生活していたことがあったために、ウトロ地区の出身ではないかという話が出ていますが、宇治市も広範囲にわたりますし安田美沙子さんがウトロ地区に住んでいたと決めつけることはできないでしょう。

    それに、もしも安田美沙子さんがウトロ地区の出身なのだとしたら、出生地もウトロ地区ということになるのではないかと考えられます。また、安田美沙子さんは父親の仕事の都合により宇治市に転居してきただけとなっているのです。

    よって、安田美沙子さんはウトロ地区とは関係がないと考えられる線が濃厚かもしれません。それだけでなく、ウトロ地区は朝鮮人やその子孫達の住むエリアのため、ウトロ出身なのであれば生まれも育ちもウトロ地区のはずです。安田美沙子さんは元々北海道の札幌から引っ越しているので、違う可能性が濃厚となります。

    ウトロ地区の治安は悪いの?

    ウトロ地区というと、戦後まもなくから朝鮮人やその家族が暮らしていて、現在も朝鮮人およびその子孫が住んでいます。それもあってかスラムのようなイメージを抱かれることもあるのです。

    そのため、治安が悪そうと思う方もいるかもしれません。では、実際のウトロ地区は現在ではどの様になっているのでしょうか。治安が悪いのかどうかについて迫ります。

    比較的安全で危険じゃない

    ウトロ地区は危険であったり恐いという情報が、ネット上で流れています。外国人が不法に占拠しているというイメージがあるためか、その様な噂となるのかもしれません。街は閑散とした雰囲気が漂っていて、人がいる気配もあまり感じられないために怖さを感じる人はいるでしょう。

     

    それに、色々なところに『ウトロ』と書かれていますし、ハングルの看板があったりすることから日本ではないような雰囲気もあります。それでも、実際に治安が悪いというわけではないのです。

    故郷を訴える看板がある

    ウトロ地区の北側に行くと、青い看板が目に入ります。上部には老若男女様々な人達の絵が描かれていて、その下には何行にもわたり縦書きで文字が書かれています。青い背景に白い文字でハングルが書かれていて、その脇にもっと濃い青でハングルの訳が日本語で書かれているというものです。

    またその他には、『ウトロ町づくり基本方針』という看板があり、その隣に『オモニの歌』という看板もあります。オモニとは、韓国語で"お母さん"の意味があり、看板に書かれている内容は要するに『ここからは出ていかない。何があったとしても、ウトロは私達の故郷である』ということが書かれているのです。

    とは言え、事実2000年に最高裁において立ち退き処分が下っており、不法占拠状態ではあります。看板も設置後から大分経っていると見受けられます。

    ウトロ地区と北海道のウトロは関係がある?

    ウトロと読む地域は京都だけでなく、北海道オホーツク総合振興局斜里郡斜里町にも同じくウトロと呼ばれる地域があるそうです。

    このウトロは京都のウトロ地区と同じように、治安が悪かったりするのでしょうか?

    北海道にあるウトロは”宇登呂”という漢字で表記され、語源はアイヌ語の「ウトゥルチクシ」であり、「その間を我々が通る所」という意味があるのだとか。

    しかしこのウトロは、京都のウトロ地区とは全く関係がないそうで、厳冬期には流氷が押し寄せるため、地元の観光業者による流水ウォークのツアーが催行されるなど観光地として有名なようです。

    現在のウトロ地区は解体されている?

    朝鮮人達の不法占拠によるウトロ地区ですが、退去命令も出ていることから解体されてきています。いつまでも同じ様相ではないということです。さて、現在はどの様になっているのでしょうか。

    ウトロ地区の現在のリアルについて見ていきましょう。

    2016年に取り壊しが開始

    2016年に、ウトロ地区では市営住宅を建設するために家屋が取り壊され始めました。2016年6月の時点では、60世帯180人ほどの住人は再開発で建設される市営住宅に住むこととなるとされたのです。

     

    そして、2017年12月27日に40世帯が入居できる市営住宅の1期棟が完成しました。5階建ての鉄筋コンクリート造りであり、タイプは2DKと3DKがあるのです。その後は、残っている住宅と同じくして道路の整備が進行しています。2期棟は2019年の間に完成予定となっています。

     

    ウトロ地区にあった住宅は解体され、京都市が出資をして市営住宅が建てられたのです。人気があまりないのは、そのためもあるということでしょう。トタンで作られた住宅も段々と数が減っていくものと考えられます。

    韓国政府も援助資金を提供

    ウトロ地区には、韓国政府の援助資金が投入されています。2004年に韓国において国際会議が開かれ、その際にウトロ地区の住民が4名出席したのです。そしてウトロの問題を訴えたところ、韓国から政府関係および国会議員のグループが次々と視察に訪れました。

    そのことで、韓国では突如としてウトロ地区に高い関心を寄せるようになったのです。それから、韓国の市民団体ではウトロ救援募金として6,500万円ほど、韓国政府からの支援金として3億6,000万円ほどが寄付されて、2007年9月28日には西日本殖産とウトロ町内会において、地域全体の大体半分ほどを5億円で買い取るという合意に達しました。

    また韓国においては、日本のウトロ地区や軍艦島などといった韓国人が強制的に徴用されたとされる場所が、たびたびテレビで放送されることがあり、ウトロ地区も2015年に放送されたのです。

    まだまだバラックは残るスラム街

    2017年の時点で、ウトロ地区のバラック住居はある程度は撤去されています。それでもまだまだバラックが残り『ウトロ』らしさがあるのです。屋根なども壊れかけていて、既に人が住んでいないように見受けられる建物などもあります。

    トタンなどの素材が使われたりしていますが、そのトタンもサビたりもしているのが現状です。70年以上というウトロ地区の歴史の重みを感じさせられるかもしれません。治安自体は悪いというわけではないものの、住居はまだまだ今後も撤去されていくでしょう。ウトロ地区の南側を歩くと、バラックの住宅街が見えてきます。この南側の道の反対側は、防衛省の駐屯地になっているのです。

    朝鮮人の街と日本の防衛省が隣り合っているという、不思議な地域ということになります。バラックの周囲は整備がされていなくて、空地になっていて雑草が生い茂っています。それでも、微かに生活をしている雰囲気は今もあるのです。ちなみに、2005年の時点では65歳以上の高齢者を含めた世帯が30世帯と、そして高齢者のみの世帯が16世帯20人となります。生活保護世帯が全体の20%、若い世代についてはウトロ地区を離れて、日本の生活保護を受けている高齢者世帯が多いということです。

    ウトロ地区を女優のキム・ヘスが援助している

    前の項で韓国の政府が資金援助をしていると話しましたが、それだけではありません。韓国の有名女優であるキム・ヘスも援助をしているのです。ここで、キム・ヘスについてやその援助の内容等について迫ります。

    キム・ヘスの親族が日本在住経験あり

    キム・ヘスは、1970年9月5日生まれの韓国の女優です。演技については東国大学校映画科や成均館大学校大学院で学んでいます。身長は170センチでありテコンドーや水泳が特技となっています。

     

    母国の韓国での芸能界デビューは中学生の頃であり、当時はコマーシャル・タレントとして活躍していました。高校生になってから女優となり活動を続けているのです。キム・ドンヒョンとキム・ドンヒという、タレントをしている弟もいます。

     

    また、親族が日本に住んでいたことがあるとされているのも特徴です。2005年にはウトロ地区に住んでいる住民を助けるために発足した『ウトロ希望代表33人』にも参加し、ウトロ地区を映像により紹介する録音に関しても協力をしています。

    記念館を建てるための募金に参加している

    キム・ヘスは、ウトロ地区に記念館を建設するというプロジェクトの募金に参加しています。そして寄付をしていますが、親族が日本に住んでいたことがあったことも理由かもしれません。財団では、差別に抗って地域を保護してきたウトロの住民たちのこれまでを記録して、拡散させるためにも記念館を建てる必要があるという旨を話しています。

    非営利団体アルムダウン財団およびキム・ヘスが募金を呼び掛けたものの、支援金は十分には集まっていない模様ですので、これからの動向が注目されます。

    ウトロ地区のパンフレットまである

    韓国では、ウトロ地区がどの様に成り立っているのかを広めることや、民族文化を守ることを目的として著名人が支持をすることや募金活動をすることがあります。韓国広報専門家である誠信女子大学教授のソ・ギョンドクが、女優のソン・ヘギョと一緒にウトロ地区に対しハングルで書かれたウトロ地区のパンフレットを寄贈しています。

    これに対し日本のネット上では、"いい加減にしてほしい"や"既に住宅を建ててしまっているのか。こんなところでも実効支配が行われているようだ"、"宇治市をこれ以上に汚さないで"などといった声があがっています。

    また、不法占拠を継続することで立ち退き料に加えて市営住宅の建設を得た証を残したいのだろうという意見もあるのです。それに、政府は何をしているのだという声もありますし、(韓国側が)何を被害者ぶっているのかという声まであります。

    土地ころがしの騒動もあった

    1987年に日産車体は80世帯が居住するウトロ地区全域を、この地区の自称自治会長である平山桝夫こと許昌九(ホ・チャング)に3億円で売却をしました。彼に現在の在日本大韓民国民団系列である旧・大阪商銀が資金を融資し、在日本大韓民国居留民団の京都地方本部団長をしていた河炳旭(ハ・ビョンウク)が融資の際の連帯保証人になりました。

    それから2か月が経ち、許昌九はウトロ地区にある土地を西日本殖産という彼が設立した不動産会社に4億4,500万円で転売をしたのです。1988年には河炳旭は金澤土建という土木建設会社にウトロ地区の土地を持つ西日本殖産ごと売却しました。

    そして、ウトロ地区には手を出さなくなったのです。そのころというのは、バブルの真っ只中であり投機をするための短期においての土地転売での利鞘稼ぎいわゆる土地ころがしが日本のあちこちで横行していた時期だったのでした。西日本殖産は住民側にウトロ地区の土地を明け渡すように言ったのですが、住民側は拒否しています。

    ウトロ地区は在日朝鮮人が住んでいる地域

    ウトロ地区は、京都府宇治市に所在する在日朝鮮人の居住地区です。戦時中に計画された航空機工場の建設に携わる作業員とその家族のための宿泊施設があった場所でした。それが今も続き不法占拠となっているのです。

    タレントの安田美沙子もウトロ地区の出身ではないかと言われていますが、単にウトロ地区のある宇治市に住んでいたことがあるというだけであり、元は北海道の生まれとなります。ウトロ地区は現在新たな公営住宅の建設がされていて、解体されてきています。

    それでもまだまだトタンでできたバラックの住居は残っていて、辺りは静けさがあります。ウトロ地区については韓国政府などから援助があり、女優のキム・ヘスは財団と共にウトロ地区の記念館を建てるための募金活動を始めてもいます。母国の韓国でも、ウトロ地区に関し話題を呼んでいるのです。

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