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    見立真一は現在海外潜伏中?衝撃の生い立ちや起こした事件などを解説

    関東連合のリーダーであり、六本木クラブ襲撃事件の主犯者である見立真一。襲撃事件から10年が経過した現在も逮捕されていません。そこで今回は、見立真一の生い立ちやこれまで、起こした事件について迫ってみたいと思います。また、彼が現在どうしているのかについても見てみましょう。

    見立真一とは誰なの?

    まずは、見立真一とは一体誰なのかについて迫ってみたいと思います。見立真一はどういった人物なのでしょうか。

    年齢は43歳

    見立真一は1979年(昭和54年)3月16日生まれであり、2022年現在は43歳となっています。早生まれのため、昭和53年生まれと同学年となります。

    関東連合の総長だった

    見立真一は、暴走族・関東連合の総長を務めた人物です。また、永福町卍黒帝会のOBでもあります。見立真一は、悪質な襲撃や徹底した”ヤキ”で知られているでしょう。

    【この記事は2021/12/30に更新されました。】

    六本木クラブ襲撃事件の主犯格

    見立真一は、2012年9月に発生した六本木クラブ襲撃事件の主犯格とされています。六本木クラブ襲撃事件については、詳細を後述します。

    優しかった幼少期と壮絶なその生い立ちは?

    続いては、見立真一の生い立ちについて迫ってみたいと思います。優しかったという彼ですが、一体どうして変わってしまったのでしょうか。

    実家は静岡県だった

    見立真一は1979年3月16日に、静岡県沼津市で生まれました。2022年現在は43歳となっています。一般的に、極悪な人間に成長してしまうのには、生い立ちが関係していると見られることが多いものです。しかし、見立真一は意外にも普通の家庭で生まれ、何ら問題のなく育ったとみられています。

    父はタクシー運転手

    見立真一の父親の職業はタクシー運転手であり、とくに反社会的勢力とは無関係な仕事についていました。また、家庭環境は非行に走ることを想像できるような複雑なものでもありませんでした。なお、三度の食事に困るほどではなかったものの、貧困家庭であったといわれています。


    極悪な半グレ集団やそのような非行グループでは、複雑な生い立ちの人が多い印象を受けます。しかし関東連合のメンバーは比較的安全な土地で育ち、家庭環境にも問題がなかった人が多いことがわかっています。見立真一もその一人です。兄弟は姉が1人いるようですが、仲の良い家族だったという話があります。

    がり勉で秀才の優しい生徒だった

    元々見立真一は、がり勉であり秀才だったといいます。成績は、”中の上”というレベルとされているのです。また中学1年までは、明るさがあり真面目で優しい男の子でした。見立真一が変わっていったのは、その後からです。

    中学2年で不良グループの一員に

    見立真一は、家族と共に静岡を離れて東京都・杉並区に引っ越しています。当時から東京にはいくつかの暴走族が存在していましたが、その地域の暴走族が集まってできたのが、後に見立真一がリーダーを務める関東連合です。

    見立真一は、中学2年生の時に不良グループのメンバーになりました。急に不良グループの一員になったことは、精神が病んでしまったことが原因といわれています。彼は、猫を交通量の多い道路に投げつけたり、ナイフで刻んで殺すなどの残虐極まりない異常な行動をとっていたとされています。

    高校入学の頃には手に負えないワルに

    不良グループの一員になった見立真一は、杉並区立井荻中学校を卒業後にヤンキー高校として有名な都立永福高校に進学しました。都立永福高校は見立真一が入学した当時は不良が多く、暴走族とも関わりがあったようです。

    見立真一は高校に入学したものの、その頃にはヤンキーの枠におさまらないほど手に負えないワルになっていました。そして、入学後わずか2ヶ月で都立永福高校を中退しました。見立真一が高校を中退する原因になったのは、学校で暴れて手がつけられなかったという説があります。

    また、女性に性的暴行を加えた説なども存在しています。

    見立真一が関東連合を復活させた?

    暴走族の関東連合は一度消滅していますが、それを復活させたのは見立真一だといわれています。それは本当なのでしょうか。

    関東連合の復活に一役買った

    見立真一は関東連合のリーダーとして、闇社会で名を馳せることになりましたが、関東連合は1976年生まれの世代が、全員警察に逮捕されたことで代替わりすることが出来ませんでした。そのことで、一時的に消滅状態にありました。その復活に一役買ってでたのが見立真一です。

    ”永福町ブラックエンペラー”が関東連合を復活

    関東連合を復活させたのは、当時見立真一が中心となって結成されていた『永福町ブラックエンペラー』という暴走族でした。見立真一と『永福町ブラックエンペラー』のメンバーより復活した関東連合の襲撃は、筋違いの人物や抗争相手には容赦がありませんでした。

    そして、1976年代のメンバーを遥かに超える残虐ぶりが恐れられていたのです。そして、関東連合の名を一気に広めることになりました。見立真一が中心となった関東連合の主な活動内容は、従来の暴走族のような集会や集団暴走ではなく、威嚇行為や喧嘩、凌辱、抗争、拉致監禁、脅迫です。

    関東連合はあっという間に東京の闇界を牛耳る存在としてのし上がりました。

    残虐王子と呼ばれていた見立真一

    見立真一が復活させた関東連合は、抗争時に金属バットや刃物といった危険な凶器を使っていました。それだけではなく、さらには抗争相手に対して半殺し状態になるほどのリンチを加えるようになりました。当時の関東連合には止める先輩が存在しなかったため、見立真一の残虐さは増していったのです。

    命の危険にまで及んだため、不良少年たちの間で見立真一や関東連合は脅威の存在になります。見立真一は瞬く間に残虐王子の異名を持つほどになりました。見立真一は監禁した抗争相手の歯や爪を抜くといった極悪なリンチに始まり、抗争相手の彼女や家族にまで危害を及ぼすようになっていったといいます。

    抗争相手の彼女を拉致して性的暴行を加えたり、家を集団で襲撃したりする暴力集団と化していきました。

    『ワキガ王子』のあだ名をつけられる

    インターネット上では『残虐王子』と呼ばれた見立真一ですが、彼に対してその様に呼ぶ者はいなかったと故・工藤明男(柴田大輔・元関東連合幹部)が明かしています。後輩である瓜田純士は、見立真一に対して『ワキガ王子』というあだ名をつけました。

    このあだ名は仲間内では大変にウケたといいますが、その後に見立真一の耳に入り瓜田純士は見立真一らに呼び出されます。そして瓜田純士は、11時間にもわたり壮絶なヤキを入れられたのでした。

    闇社会の富豪になった見立真一

    10代の頃には、数々の悪行を働き凶悪を繰り返した見立真一ですが、成人後には闇金業者として荒稼ぎをし、生計を立てるようになりました。闇金業は元から違法性が高いものですが、見立真一の場合は多重債務者詐欺にまで手を染めるなどしていた模様です。

    見立真一は、どこからいくら借りているかも把握できていないほどの多重債務者を利用し、自分が貸してもいない相手に返済を迫るといった不条理な行為を行いました。月に3億もの金額を手にしたことが半年続き、「30歳までに100億円持つ」と口にしていました。

    こうして闇金界の富豪にまで成り上がった見立真一でしたが、マルチ商法にまで手を出しています。そして、野球賭博運営や株の仕手戦に失敗したことで、経済的に凋落していきました。

    見立真一が行なった数々の悪行には何がある?

    見立真一は残虐な悪行を行っていましたが、それは一体具体的にどういったものがあったのでしょうか。次に、見立真一が行ってきた悪行について迫ってみたいと思います。

    関東連合は”半グレ集団”に

    見立真一がリーダーを務めることになった関東連合は、当時渋谷で幅を利かせていたチーマーとの度重なる暴力的抗争を経て、渋谷の非行少年界を制圧していきました。さらにその悪行はだんだんとエスカレートし、「既存の暴力団ではないが暴力的な犯罪を行う集団」である中途半端な”半グレ集団”になりました。

    まとめ上げる者も止められる者もいなくなった関東連合は、愚連隊(ぐれんたい)と呼ばれ、様々な悪行を行っていきました。

    与国秀行を襲撃で失明させる

    見立真一には「与国秀行(谷山秀行)襲撃事件」に関わっていたという噂があります。この事件は、見立真一の中学の先輩であり1990年代に都内最強といわれたアウトロー与国秀行が、妻と共に襲われた事件でありこの事件で与国秀行は左目を失明しています。

    与国秀行は幸福実現党都副代表として『第45回衆議院議員総選挙』に出馬し落選しました。襲撃事件は、その直後に起こります。被害届が出されず警察の捜査はなく事件は闇に葬られていますが、関東連合のOBたちが与国秀行を襲撃をしたという噂がささやかれました。

    見立真一は、西新宿事件の被害者・金村剛弘の葬儀に号泣しながら参列し、犯人への復習を誓います。しかし、同じく葬儀に来ていた与国秀行から「これを機会に堅気になれ」と説教されます。これが事件の原因かといわれていましたが、与国秀行本人が否定しています。

    西新宿事件について

    なお西新宿事件とは2008年に起きた事件であり、これにより関東連合の後見人であった金村剛弘が亡くなっています。金村剛弘が食事をしていた飲食店で、敵対中の打越スペクターのリーダーや暴力団組員と口論となり、金村剛弘は打越スペクターのリーダーを一撃で倒しました。

    その2日後に、金村剛弘は武装した4、5名の集団の襲撃を受けました。そしてその5日後に脳挫傷で亡くなったのです。この事件が、『六本木クラブ襲撃事件』に繋がっていきます。

    木村兄弟との関係

    不良グループ『新宿ジャックス』の出身であり、関東連合の最大のライバルといわれている木村兄弟という2人がいます。木村兄弟は、反関東連合勢力であった『新宿ジャックス』の創設者である金村剛弘が見立真一を含め関東連合のOBたちと交流を深めていたことで、彼に対して不信感が募っていたといいます。

    そのため、金村剛弘が殺害された『西新宿事件』の首謀者は木村兄弟であり、腹いせのための犯行ではないかとう話がもあります。また、木村兄弟の弟である木村孔次郎は、当時山口組極心会連合系の暴力団の構成員でした。

    そのことから、金村剛弘を襲撃するだけの兵隊を集められることで、信憑性の高い噂として流れていました。

    見立真一には内縁の妻と子供がいた?

    グループのリーダーに君臨していながらも、見立真一はどこか孤独のように見えたとされています。意外も用心深い性格で、周りには敵が多いことも自覚していたため、返り討ちに遭わないために仲間内にも住所や素性は明かしていなかったといわれています。

    しかし、実は都内に妻と子供がいたのではという噂もあります。続いては、見立真一の妻や子供の噂について迫ってみたいと思います。

    アーリア系美人女性と同棲の噂

    見立真一には、海外への逃亡前に都内の高級マンションでアーリア系(ドイツ系)の美人女性と同棲していて、さらに娘がいたのではないかという噂があります。しかし、見立真一が結婚していたという事実はないため、同棲していた女性は内縁関係にあった可能性が高いようです。

    見立真一が海外に逃亡するきっかけとなった、『六本木クラブ襲撃事件』が起きたのは2012年ですが、当時の見立真一は幼い子供と暮らしているといわれていました。その後に見立真一が逃亡したことで、同棲していてたとされる女性と子供はマンションから姿を消したとされています。

    交際女性にはDVが日常茶飯事

    関東連合では女性に対しても残虐な逸話がある見立真一ですが、特定の彼女は存在したようです。関東連合の主要メンバーは、芸能人と付き合っていた人も多くいたようですが、見立真一は一般人を相手に交際していたといいます。

    しかし、交際といっても幸せな恋愛とは真逆だったようで、交際した女性は1年もすると無感情な表情になり、爬虫類のような目になることで有名だったとされています。見立真一は関東連合の仲間に対しても秘密主義で、交際している女性について話をするようなこともありませんでした。

    交際女性との間に何があったかは明らかになってしませんが、DVなどは日常茶飯事であったと噂されています。

    相葉雅紀やayaを知る人物が見立真一について語った?

    「雅紀の秘宝伝」というブログの管理人・kuhsanが、見立真一について語っています。「雅紀の秘宝伝」とは相葉雅紀の所持品だったものをコレクションしていて、紹介されているブログです。kuhsanは、相葉雅紀だけでなく彼の元交際相手とされるaya(牧野田彩)についても発信しています。

    なお見立真一は、2011年頃に高級マンション『白金台サンク』に住んでいました。相葉雅紀は2013年に高級マンションを購入したと報道されています。見立真一と相葉雅紀は、時期こそ異なるものの同じマンションに住んでいたというのです。

    このため、kuhsanは見立真一についてもブログに綴っていました。見立真一がayaと関わりがあるというわけではありません。

    六本木クラブ襲撃事件とは何なの?

    ここで、見立真一が主犯格とされる『六本木クラブ襲撃事件』について迫ってみたいと思います。『六本木クラブ襲撃事件』とはどういった事件だったのでしょうか。

    逃亡のきっかけとなった事件

    『六本木クラブ襲撃事件』とは、見立真一逮捕が主犯格となり引き起こした事件です。見立真一が、逮捕から免れようと逃亡するきっかけになった事件でもあります。この事件は、『六本木クラブ集団暴行死事件』とも呼ばれていて、一人の男性に集団で暴行を加え、あっという間に殺害に至ってしまった事件です。

    2012年9月2日に発生

    『六本木クラブ襲撃事件』は、2012年9月2日午前3時40分頃に発生しました。事件が起きた場所は、港区六本木のクラブ『フラワー』です。犯行に及んだ集団である関東連合からターゲットにされたのは、当時31歳の飲食店経営をしていた男性・藤本亮介氏でした。

    関東連合は、集団が敵対視している人物を藤本亮介氏だと勘違いしたことから、犯行に及んでいます。本来であれば何も恨まれる覚えのない、失わずに済んだはずの命が奪われてしまったのです。

    犯行時の状況

    当時、店を訪れていた藤本亮介さんは、金属バットを持って乱入してきた目だし帽姿の10人ほどのグループから襲われました。そして、袋叩きにされてわずか1分間で死亡しています。それだけでなく、被害者の男性と同席していた友人2名も殴られて軽症を負っています。

    犯行グループの男らは、男性3人・女性2人の計5名とともに酒席にあった被害者を、無言で急襲した後にワゴン車2台で東京・東大和市方面を経由し、埼玉方面へ逃走しました。被害男性の死因は、頭蓋骨損傷による失血死または脳幹部損傷でした。

    事件当時、店内では音楽イベントが開催されていて、500人から600人の来客がいたといいます。しかし、大音量であったという点とVIPルームでの犯行であったことから、ほとんどの来店客がこの暴行に気づかなかったとされています。

    見立真一以外の全員が逮捕

    『六本木クラブ襲撃事件』が発生した5日後、警視庁が襲撃したグループが映っていた防犯カメラの映像と被疑者5人の写真を公開しました。するとこの映像に対し、暴走族グループの関東連合OBの関与を指摘する情報が寄せられました。

    その後、犯行後の逃走に使用されたワゴン車の1台が関東連合の元メンバーが役員を務める東京都内の会社の名義であったことが判明したことで、会社が家宅捜索されます。そして事件後に名前を変えて営業していたクラブ経営者らが逮捕され、21日までに関東連合OBや関係者らが逮捕されました。

    この事件で合計19人に対して逮捕状が出され、2013年までで18人が逮捕されましたが、主犯格の見立真一のみ海外逃亡をしたため逮捕には至りませんでした。

    見立真一は現在フィリピンに逃亡中?

    ここで、見立真一の現在について迫ってみたいと思います。見立真一は逃亡をしているという話がありますが、それは本当なのでしょうか。

    フィリピンに潜伏している?

    見立真一は『六本木クラブ襲撃事件』発生後に海外逃亡しており、現在も逃亡を続けています。潜伏先については様々な憶測が飛び交いましたが、事件発生直後に出国しています。そして中国や韓国などを経て、2016年11月にフィリピンに渡った後の足取りは途絶えたままです。

    関係者の話によると、「一生、海外で逃亡生活を続けるほどの覚悟があるとも思えない」との指摘があり、見立真一が偽造パスポートなどで帰国した場合でも逃さないよう、国内外の入管当局との連携も強めているといいます。

    国際指名手配されるも未だ捕まらず

    見立真一は、現在フィリピンの離島に逃亡していて現地のマフィアに匿われて潜伏生活を送っているといわれています。そして生活の資金は、現地の構成員から手渡しされているのではないかという見方があります。国際指名手配となった見立真一ですが、現在も連絡を取っている関東連合のメンバーがいる模様です。

    話によると一時期、ペルー国籍を取って逃げ切るという画策もあったとされるものの、国籍なども変えて日本に密入国する可能性もあるでしょう。なお2022年現在の見立真一は、外務省より旅券返納命令が出ており不法滞在となっています。彼は、事件の翌年にパスポートを失効しているのです。

    逃亡の理由は金村剛弘の仇を打つため

    見立真一は海外逃亡前、「目的を果たすまで出頭しない」と話していた模様です。海外逃亡してまで警察に捕まりたくなかったのは、金村剛弘の仇を討つことを諦めておらず、木村兄弟への復讐の機会を伺っているためといわれています。

    『六本木クラブ襲撃事件』では、人違いで1人の男性が殺害されていますが、本当のターゲットだったのは金村剛弘とトラブルを起こしていた木村兄弟であったといいます。『六本木クラブ襲撃事件』では、クラブに木村兄弟がいるという情報を受けて襲撃していました。

    見立真一は、結局木村兄弟へ復讐することができなかったことが未だに心残りであるようです。

    時効は停止中?

    見立真一は殺人罪であるため、時効というものがありません。もし傷害致死を主張したとしても、海外に逃亡をしているとされているので、時効は停止となっています。

    見立真一は逃亡後国内に戻っていた?

    見立真一は、国外に逃亡をした後に日本へと帰国したという話があります。それは本当なのでしょうか。見立真一の帰国した話について探ってみましょう。

    いわき市に潜伏?

    見立真一は、『六本木クラブ襲撃事件』が発生した後の2013年頃、偽造パスポートを使って日本に戻っています。2013年に見立真一に会ったという関係者は、千葉県のホテルで遭遇したとされており、見立真一が帰国した理由は集金のためだっただったといいます。

    見立真一が日本に戻っていた間、生活の拠点にしていたのは被災地であった福島県いわき市でした。同行していた女性が、高い放射線量を避けて空き家になった一軒家を手配したようです。

    宮崎旅行にも行っていた?

    日本に滞在中に、見立真一は六本木のキャバクラで働いていた女性と宮崎旅行に出かけたり、新宿の高級ホテルや八王子駅前のホテルに泊まったりしていました。見立真一は日本を満喫していたということです。

    見立真一は死亡している?

    現在見立真一に関して、インターネット上では実は死亡しているのではないかと囁かれています。これには、見立真一の情報提供者には600万円の懸賞金が支払われるものの、未だに有力な情報が得られないことが理由とされています。また、周りには見立真一を敵対視する人物が多くいることが挙げられる模様です。

    しかし、見立真一が死亡したという確証はなく、現在もフィリピンに潜伏しているという情報が有力視されています。

    整形して国内に潜伏している?

    見立真一は現在、整形をしており指名手配の写真とは別人のようになっているという話があります。また2019年の時点では、警視庁が見立真一について「国内に潜伏している可能性もある」と語っていました。国内に潜伏しているとしたら、都内や静岡県、埼玉県などが該当するとされています。

    しかし、実際に見立真一がどこにいるのかは不明です。

    見立真一の今後に注目

    『六本木クラブ襲撃事件』発生後に行方をくらまし、現在はフィリピンに逃亡中とされる可能性が高い見立真一。事件から10年が経過した今も、日本での目撃情報は無く逃亡を続けています。これまでの悪事の数々は目を覆いたくなるものばかりですが、今後の計画も黙々と進んでいるのかもしれません。

    今後、見立真一はどんな形で日本国民の前に姿を現すのでしょうか。一刻も早く警察に逮捕され、1人たりとも被害者が出ないことを切に願うところです。

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