木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
三毛別羆事件は、日本で最も被害を出した獣害事件です。世界的に見ても最大級の事件と言われています。昭和の初期は、忘れ去られたこともありました。しかし、この事件によってクマの生態が見直され、クマに対する知識が改められました。
この事件を題材にした小説や漫画もあり、テレビでも事件を扱った番組が多数制作されています。三毛別羆事件についてご紹介します。
三毛別羆事件は100年以上前に起こった事件です。大勢の犠牲者を出して、小説や映画のモデルにもなっています。
三毛別羆事件とは、どんな事件だったのでしょうか?三毛別羆事件の概要や事件が起こる前の11月の様子についてご紹介します。
三毛別羆事件は、北海道苫前郡苫前村三毛別六線沢で起こりました。事件が起こったのは1915年12月9日から14日にかけてです。巨大なヒグマが幾度も民家を襲撃し、多数の死傷者を出しました。
7人が死亡し3人が重傷を負った、日本史上最悪の獣害事件として現代に伝えられています。
警察や陸軍まで出動する事態となり、14日にクマは射殺されようやく事態は収まりました。
三毛別羆事件が起こったのは12月ですが、11月の時点で三毛別に何度かヒグマが現れています。11月の初めに池田家の近くでヒグマが目撃されました。この時は、馬が騒いだためヒグマは逃げだし被害はほとんどありませんでした。当時、開拓地で野生動物が現れることは当たり前でした。
しかし、池田富蔵さんは、足跡の大きさに不安を感じていました。11月20日にもクマが目撃されたため、富蔵さんはマタギに依頼してクマを待ち伏せすることにします。30日にクマが現れたので発砲しますが、クマは逃げてしまいます。
クマの血の跡がありましたが翌日吹雪が強くなり、追跡することはできなくなってしまいます。この時のクマは大きくなり過ぎて、冬眠に失敗した「穴持たず」ではないかと推測されていました。「穴持たず」は非常に凶暴になります。しばらくして、三毛別羆事件が発生します。
ヒグマを取り逃がしてから10日ほど経った12月9日に、三毛別羆事件の最初の被害者が出てしまいます。最初に被害に遭ったのは太田家でした。この時の被害者は2人です。これが何日にも渡る悪夢の始まりになってしまいます。
三毛別羆事件の最初の1日についてまとめました。
当時の開拓村は収穫物の出荷で忙しい時期でした。三毛別では作業のほとんどが人の手で行われていました。そのため、村の男性の大部分は留守にしていたといいます。太田家にいた長松要吉さんと当主の太田三郎さんの2人は仕事で外出していました。
三郎さんの内縁の妻阿部マユさんと6歳の少年蓮見幹雄さんの2人が家に残っていました。マユさんと幹雄さんは家で小豆の選別を行っていたようです。
昼に、食事をとるため要吉さんが太田家に戻ってきます。この時、妙に静かなことが気になったそうです。要吉さんは、幹雄さんが囲炉裏に座っていることに気づきました。寝たふりをしていると思った要吉さんは、幹雄さんに大声で話しかけますが反応がありません。
幹雄さんは喉と後頭部に大きな傷を負っており、既に死亡していました。驚いた要吉さんは、マユさんを呼びますが反応はありませんでした。要吉さんは、助けを呼ぶため下流にある架橋現場へ向かいました。
事態を聞きつけた村の男性たちが駆け付け、現場の様子からクマの仕業だと断定されました。折れたマサカリや完全に火が消えていない薪、血の跡が現場に残っていました。マユさんは抵抗の末、クマに連れ去られたようでした。
割れた窓には、人間の髪の毛が残っていました。実は太田家の近くに血痕と何かを引きずった跡があることに気づいている人もいました。
しかし、マタギが獲物しとめて、太田家で休んでいると勘違いしていたそうです。このころから、事件は午前10時ごろに起きたと判断されました。
すぐに村中は大騒ぎになりますが、12月の三毛別は日が暮れるのが速いです。午後になっては、できることも限られていました。ヒグマの追跡やマユさんの遺体の捜索は、翌日にするしかありません。
苫前村役場と古丹別巡査駐在所、そして亡くなった幹雄さんの実家と連絡を取ることも必要でした。斉藤石五郎さんが、連絡に向かう役に選ばれました。
斉藤家の家族は、明景家に避難しました。要吉さんは、男手が足りない明景家に泊まることになります。クマを討伐する準備も終わり、翌日を待つことになります。
10日の早朝に斉藤石五郎さんが村を出発し、クマの追跡も始まりました。しかし、この日が三毛別羆事件で最悪の一日となり、大勢の被害者を出すことになってしまいます。三毛別羆事件2日目の出来事についてまとめました。
村の男性たちは30人の捜索隊を結成し、クマの足跡を追跡しました。捜索隊は、森に入ってまもなくクマと出会うことになります。もちろん銃が用意されていましたが、整備不良で打つことができた銃は1丁しかなかったといいます。
捜索隊はクマの反撃でバラバラに逃げますが、クマも追いかけてこなかったため被害者は出ませんでした。捜索隊は木の根元に、血の跡があることに気づきます。雪の下には、マユさんの遺体が埋められていました。クマは保存食にするために、遺体を隠したと判断されました。
夜になるころには、亡くなった幹雄さんの両親や知人が到着しました。太田家でマユさんと幹雄さんの通夜が行われることになります。ヒグマを恐れて、通夜に参列したのは9人しかいませんでした。
20時半ごろに、クマが壁を破壊して再び現れます。太田家は大混乱になりました。銃を持ち込んでいた男性が発砲し、騒ぎに気づいた50人ほどの男性がかけつけます。しかし、その頃にはクマは逃走していました。
この時、犠牲者は1人も出ませんでした。ほっと胸を撫で下ろした一同は、下流にある明景家に避難することになりました。
太田家にいた人たちが避難しようとした明景家には、斉藤石五郎さんの家族も避難していました。太田家にクマが再出没した後の明景家に残っていたのは、女性と子供ばかりでした。成人男性は59歳の要吉さんだけだったといいます。
当主の安太郎さんは鬼鹿村へ出かける用があり、留守にしていたのです。護衛の男性もいたそうですが、太田家にクマが現れた騒ぎでそちらに向かってしまいました。ヒグマは入れ違いの形で、明景家を襲うことになります。
クマが明景家を襲ったのは、8時50分ごろでした。太田家がクマに襲撃されてから、わずか20分ほどしか時間が経っていないことになります。明景家では、明景ヤヨさんが4男の梅吉さんを背負って夜食の準備をしていました。
突然、窓を突き破って黒い影が家の中に現れます。それは、太田家を襲ったクマでした。囲炉裏ではカボチャを煮ていましたが、鍋がひっくり返って火は消えてしまいます。家の中にはランプもありました。しかし、混乱したせいで全ての明かりが消えて、真っ暗になってしまいます。
ヤヨさんは、真っ暗になった家から屋外に脱出しようとします。しかし、次男の勇次郎さんがしがみついてきたため、逃げるのが遅れます。3人はクマにつかまってしまい、背負われた梅吉さんとヤヨさんがかじられます。
しかし、逃げようとした要吉さんにクマの注意が向かいます。そのすきに、ヤヨさんは子供2人を連れて逃げることに成功します。要吉さんはクマの攻撃を受けますが、クマは残りの7人に標的を変更します。子供たちが次々に攻撃を受け、斉藤石五郎さんの妻タケさんがクマに襲われます。
妊娠中だったタケさんは、クマにお腹の子の命乞いをしたと伝えられています。
太田家を出た一行は明景家へ向かっていましたが、途中でものすごい音と悲鳴を聞きます。急いで向かう途中で、逃げ出したヤヨさんたちを保護しました。明景家にクマが現れたことを知った一行は途中で要吉さんを保護し、クマがいる家の周りを取り囲みます。
真っ暗な家の中からは、何かをかみ砕く音が聞こえたといいます。家の裏側から空砲で威嚇すると、クマは入り口から飛び出してきました。先頭にいた男性はクマを撃とうとしますが、弾は出ませんでした。
結局、撃つことはできず、クマはそのまま逃げてしまいます。
松明をもって中に入ると、明景家の中は血まみれでした。血痕は天井まで届き、タケさんは上半身を喰われて絶命していたといいます。更に、金蔵さんと春義さんの遺体が見つかりました。2人とも3歳だったといいます。
タケさんのお腹は破られ胎児は取りだされていましたが、生きていました。しかし、一時間後に死亡したといいます。タケさんの3男の巌さんは生きていましたが、下半身の一部から骨が見えており20分後に亡くなりました。
逃げられなかった子供のうちで、力蔵さんとヒサノさんは無事でした。明景家では、胎児を含めて5人が殺害されたことになります。2日間で、7人が死亡するという凄惨な事態になりました。
明景家での惨劇もあり、12月11日には住人全員が三毛別分教場に避難しました。三毛別分教場は、10日の夜からずっとクマよけのための炎が燃えていました。クマの処置について話し合いがされましたが、自分達だけでは対処できないという結論になります。
クマの処分は、警察や行政に頼るしかなかったのです。使者として役場や駐在所に出向いていた斉藤石五郎さんは、この日に妻と子供たちの死を聞かされたといいます。
三毛別羆事件の3日目は、クマが目撃されることはありませんでした。
事件発生から4日目は、とうとう警察も登場しクマの討伐のために本格的に動き出します。クマをおびき出すために、前代未聞の待ち伏せ作戦が実行されました。三毛別羆事件の4日目をまとめました。
12月12日、北海道庁にヒグマによる被害の報告がなされます。即座に羽幌分署長の菅貢さんの命令で、クマの討伐隊が集まりました。討伐隊には志願者も加わり、銃だけでなく日本刀などの刃物を持った者もいたといいます。三毛別の討伐隊の本部が設置されました。
被害者を検死するため、医師は討伐隊結成よりも早く現場に到着していました。正午には近くの参道でクマの糞が見つかります。中からは人間の体の一部が発見され、医師を戦慄させました。
土地勘のある喜渡安信さんが、討伐隊の指揮をとることになります。要所の農家に銃を持った射手が置かれ、更に追手がクマを追跡しました。万が一クマが平野に出てしまうと、被害はさらに広がる危険がありました。
なんとしてもクマをここで仕留めようと、探し回りますがクマは見つかりませんでした。
三毛別羆事件のクマは「穴持たず」と考えられていました。しかし、これから冬眠する可能性はあります。万が一冬眠してしまえば、人間の味を覚えたクマを逃してしまいます。討伐隊は絶対にクマを仕留めようと考えていました。そのため、信じがたい作戦が発案されます。
この当時から、クマは獲物に執着すると考えられていました。発案されたのは、被害者の遺体を使ってクマをおびき出すというものでした。この作戦に本部でも意見が割れましたが、討伐隊隊長の菅貢さんはこの案を採用します。
どんな非難も覚悟の上で、菅さんは遺族から了承を得ようとします。しかし、この提案に反対する人間は遺族の中には1人もいませんでした。こうして、被害者の遺体をおとりにした作戦が実行されることになります。
待ち伏せ作戦の準備は迅速に行われました。惨劇の舞台となった明景家に6人の遺体が置かれます。その中には、胎児の遺体もありました。銃の扱いに慣れた精鋭7人がクマを訪れるのを待ち構えます。
やがてクマは現れましたが、家の周りを回るだけで中には入りませんでした。クマは結局消えてしまいました。翌朝まで待ち伏せが行われましたが、その後クマは現れませんでした。
実は、クマは最初に襲撃した太田家に侵入していました。無人の家の中で食料を漁っていたそうです。
三毛別羆事件の5日目は、ヒグマを仕留めるために陸軍まで動くことになります。一方、人間がいなくなった村の中で、クマは大胆な行動を取り始めます。三毛別羆事件の5日目の動きについてまとめました。
待ち伏せ作戦が失敗したことに業を煮やした討伐隊本部は、陸軍第7師団に応援を要請します。将兵30名が動員され、クマの捜索が行われました。だんだんと大胆な行動を取るようになったクマは、無人の家を次々に襲撃していました。
8軒の民家が被害に遭ったことを本部は掴んでいましたが、クマを発見することはできませんでした。しかし、クマも警戒心を失い、発見される時間は近づいていました。
午後8時ごろ、討伐隊隊員が異常に気づきます。6つのはずの切り株が1つ増えており、動いているように見えるというのです。当然、クマが切り株に見えている可能性はありましたが、クマではなく討伐隊隊員かもしれません。
クマと人を区別するために合言葉が決められていましたが、叫んでも黒い影は反応しません。3度合言葉が叫ばれた後、討伐隊の銃が一斉に火を噴きました。今回も不発の銃が多く、クマは逃げてしまいます。
一部のマタギは自信を失ったといわれていますが、この時銃弾はクマに命中していました。
クマを仕留めることには失敗しましたが、13日の銃撃はクマに深手を負わせていました。14日には、伝説のマタギがクマに銃弾を撃ち込みます。この伝説のマタギは、漫画『ゴールデンカムイ』に登場するマタギ・二瓶鉄造(にへいてつぞう)とも言われいます。
とうとう、クマは仕留められ、三毛別羆事件は終息します。三毛別羆事件の6日目の出来事をまとめました。
前日にクマがいた場所を調べると、足跡と血痕が見つかりました。足跡の様子からクマが弱っていることは明らかでした。更に討伐隊と別行動を取るマタギの山本兵吉さんが、クマに迫っていました。山本さんは、ロシア製のライフルで多数の獲物を仕留めていました。
更に、鯖裂き包丁一本でヒグマを仕留めた過去から、「宗谷のサバサキの兄ぃ」の異名を持つ人物でした。
クマが弱っていることを確信した討伐隊は、クマに接近していました。しかし、山本さんは討伐隊よりも早くクマを見つけます。気配を決してクマに接近すると、近くの木に身を隠します。
狙いを定めたライフルがクマの心臓の近くに命中しました。倒れたクマは起き上がり向かってきますが、山本さんは冷静にクマの頭を打ち抜きます。現場に現れた討伐隊が見たものは、巨大なクマの死体でした。仕留めた後に天候が急変し、嵐になったため熊風と恐れられました。
仕留められたヒグマは、体長2.7mで340kgあるほどの大きさでした。実際に人食いのクマかどうか確認するために解剖されています。胃の中からは、衣服や人間の髪が発見されました。阿部マユさんのものと思われる衣服も見つかり、間違いなく太田家を襲ったクマでした。
クマは被害者の供養のために、討伐隊によって食べられました。毛皮は乾燥させられて、肝と共に売りに出されました。小学校の教員の初任給に当たる50円で売却され、全額が被害者の遺族に贈られました。
歴史上最悪の人喰い野獣による惨劇
三毛別羆事件は日本史上最悪の獣害事件として、現在でも恐れられています。なぜ、こんな事件が起こってしまったのでしょうか?三毛別羆事件の原因や事件の教訓についてご紹介します。
当時、三毛別羆事件のヒグマは、冬眠に失敗したクマと考えられていました。冬眠に失敗したクマは、空腹で狂暴になると考えられています。しかし、その同様の事件は起こっていません。このことから、現在は全く別の原因だと考えられるようになりました。
江戸時代から行われている森林伐採、明治以降の内陸部開拓などで人間の村とクマの生息域が重なったことが原因と言われています。
三毛別羆事件ではヒグマに関して多くのことがわかりました。クマは動かない人間を食べるため、死んだふりをしても無駄です。動物は火を怖がると言われています。しかし、ヒグマは平然としていることもわかりました。
熊は逃げるものに反応します。急いで逃げるのは、かえって危険だといわれるようになりました。同じところに、何度も訪れるように執着心も強いことがわかります。
また、一度人間を食べたクマは、人間を食料と判断するため非常に危険です。これらの知識は有名になっていますが、三毛別羆事件から得られた教訓なのです。
三毛別羆事件は大正4年の事件でした。既に、100年以上昔のことになります。実際にクマに襲われて生き残った人もいました。三毛別羆事件の当事者はどうなったのでしょうか?三毛別羆事件の生き残りについてご紹介します。
クマに噛まれたヤヨさんは元気になりましたが、梅吉さんは2年8か月後に亡くなりました。要吉さんは回復後しましたが、翌年の春に川に落ちて亡くなっています。勇次郎さんは、三毛別羆事件から27年後の太平洋戦争で戦死しました。
クマを仕留めた山本兵吉さんは、その後もマタギを続けました。生涯で300頭以上のヒグマを仕留め、1950年に92歳で亡くなったそうです。事件が起きた六線沢からは村人が去ってしまい、最終的にほぼ無人の地になったといいます。
その後、消息がわからない人もいますが、三毛別羆事件から104年が経っています。既に存命の人はいないでしょう。
三毛別羆事件が発生した当時の区長の息子大川春義さんは、事件後にヒグマ狩猟の名人と呼ばれるようになりました。自宅が三毛別羆事件の対策本部だったこともあり、大川春義さんは事件の様子を詳細に聞いていたといいます。
猟師からヒグマの生態を学び、狩猟の仕方も自然と覚えながら育ったと言います。大川春義さんは、父から猟師になってヒグマを仕留めることを勧められました。ヒグマを憎んでいた大川春義さんは、勧め通りに猟師となります。
大川春義さんは、70頭のヒグマを仕留めることを誓ったといいます。これは、犠牲者の10倍の数でした。
大川春義さんは20歳で猟師になりました。しかし、10年以上ヒグマを仕留めることができませんでした。実際にヒグマを見ると、恐ろしくて撃つことができなかったそうです。初めて、ヒグマを仕留めたのは32歳の時でした。
その後、年に数頭のヒグマを仕留めるようになります。1970年代には、念願の70頭を達成し最終的には102頭を仕留めました。大川春義さんが猟師になってから、20年の間にクマの被害は3分の1まで減りました。
この功績は称えられましたが、大川春義さんは本当に悪いのはクマの住処を荒らした人間ではないかと考えたこともあるそうです。三毛別羆事件の70回忌の法要で、大川春義は突然亡くなりました。三毛別羆事件が起きた同日に亡くなったことに、多くの人は因縁を感じたといいます。
三毛別羆事件は小説や映画にもなっていますが、三毛別羆事件をモデルにしたといわれる漫画があります。三毛別羆事件をモデルにしたといわれる漫画『シャトゥーン ヒグマの森』に関してご紹介します。
実はこの三毛別羆事件と人気マンガ「鬼滅の刃」には共有点があることをご存知でしょうか?この三毛別羆事件は、鬼滅の刃と同じ大正時代の出来事という点や主人公の竈門炭治郎の父親が巨大なクマと戦う描写など共有点が多く存在します。
販売されは、鬼滅の刃の外伝には「穴持たず」のクマが登場。このクマは、6人を食い殺したクマで、体調9尺、体重は300キロそして首に月の模様があることから三毛別羆事件のクマを連想させています。また鬼滅の刃の1話目では、竈門炭治郎も部屋の中で殺された家族を見て「クマが出たのか?」と発言していることから、三毛別羆事件を連想させる発言をしています。
『シャトゥーン ヒグマの森』は同名の小説のコミカライズ作品です。北海道を舞台にした物語です。密猟者の手で手負いになり、狂暴化したヒグマに襲われる恐怖を描いたアニマルパニックになっています。
シャトゥーンはアイヌの言葉で「穴持たず」を意味します。冬眠に失敗したクマを意味しており、三毛別羆事件の影響があることがわかります。クマに襲われるシーンが非常に生々しく残酷で、評価が分かれる作品になっています。
漫画『シャトゥーン ヒグマの森』は、小説をかなり忠実に描いた作品になっています。原作でも、人間がクマに生きたまま喰われるグロシーンがあります。これが漫画では描写されており、非常に恐ろしい作品になっています。
本物のクマ生態の描写が評価されていますがやり過ぎともいう意見もあり、読む人を選ぶ作品といえます。
三毛別羆事件は日本で最も被害の大きかった獣害事件です。海外では、三毛別羆事件にどんな反応をしているのでしょうか?日本のアニメの中の写真を見て、海外のファンが三毛別羆事件に言及したこともありました。
海外で作られた人食い獣のランキングがネットで公開されています。この中で、三毛別羆事件のヒグマは9位にランクインしています。基本的に食い殺された人間の数でランキングが作られているようです。
世界中の事件でも三毛別羆事件のヒグマは、かなり上位に入っていることがわかります。ただし、インドでは三毛別羆事件以上に人を殺したクマの事件があるようです。ライオンの集団に1000人以上の人間が食い殺されたという信じがたい事件もあります。
300人以上を殺した巨大ワニ「ギュスターブ」は、写真も撮影されています。このランキングに登場する動物は基本的に殺されています。しかし、ギュスターブは機関銃でも殺せず、現在でも生きているといわれています。
幾原邦彦監督のオリジナルアニメ「ユリ熊嵐」が、三毛別羆事件と関連があるということで話題になりました。アニメの中に登場した写真が、三毛別羆事件の写真だと海外のファンが指摘したそうです。
その後、この写真は三毛別羆事件とは無関係だとわかりました。三毛別羆事件のクマに関する写真などの画像は残っていません。クマは解体されてしまったので、剥製もありません。ただし、同じくらい大きさのクマの剥製はあるということです。
海外でも三毛別羆事件は有名なようですね。アニメの内容は人に化けたクマが人間を襲いますが、特に三毛別羆事件とは関係ありません。しかし、熊嵐がタイトルに入っていることから、三毛別羆事件を意識しているではないかともいわれています。
日本史上最大の獣害事件として、有名な三毛別羆事件についてご紹介しました。その後も、北海道で巨大なヒグマが現れていますが、この時のような被害は出ていません。それほど、狂暴なヒグマはいないようです。
しかし、環境破壊は続いており、クマの食料は減り続けています。ヒグマと人間が遭遇する危険性はより高くなったともいえます。人間は、ヒグマとの関わり方を考え続けなければならないのです。
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皆さんは「三毛別羆事件(さんべつひぐまじけん)」という害獣被害を知っていますか?この事件は1915年(大正4年)に北海道苫前郡苫前村三毛別(現:苫前町三渓)六線沢で発生した熊害事件です。
日本市場最大の熊害事件とされており、北海道を舞台にした『ゴールデン・カムイ』の題材の一つとしても有名です。開拓民7名が死亡し、3名が負傷したこの事件ですが、実は生き残った人がいたとのことですーーーー今回はそんな三毛別羆事件について詳しく解説していきます。