2024/02/16
r.y6
高倉美貴という女優をご存知でしょうか。ロマンポルノ史上、最も美しい女優と言われている、伝説の女優です。ここではその高倉美貴の経歴や現在についてご紹介していきます。
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1950年代に入り、日本映画界は黄金時代を迎えました。しかし1960年代後半になると、テレビの時代へと移り、観客数は減少、映画会社は経営難に陥っていきました。
ワンマン社長による放漫経営であった日活も同様であり、そこで打ち出した起死回生の方針が成人映画を主体とするというものでした。成人映画では制作費や製作時間を一般の映画に比べて半分に抑えることができました。こうして1971年に「日活ロマンポルノ」が誕生しました。
日活ロマンポルノには、高田美和や天地真理など、かつてのスターで人気が落ちてから出演した女優がいる一方で、東てる美や美保純などロマンポルノへの出演を通して、人気女優となっていった者がいます。高倉美貴も後者の女優の一人でした。
またロマンポルノと言えども映画を志す者にとっては、映画を撮るチャンスとなり、多くの監督を輩出しました。『おくりびと』の滝田洋二郎、『最も危険な遊戯』の村川透、『相棒 -劇場版』シリーズの和泉聖治、『セーラー服と機関銃』の相米慎二、『Shall we ダンス?』の周防正行などがそうです。
1980年代に入ると、アダルトビデオが人気となっていき、成人映画は売り上げを落としていきました。日活は、よりハードな「ロマンX」シリーズと元アイドルなどを起用したソフトな路線の二つで対抗しようとしましたが、映倫は「ロマンX」に難色を示しました。
そのため日活は苦境に立たされ、1988年ロマンポルノの終結を発表しました。その後、2016年になり、「日活ロマンポルノ リブートプロジェクト」が発表され、園子温や白石和彌など今を時めく人気監督5人が作品を制作し、再びロマンポルノが注目を集めています。
高倉美貴は、石川県金沢市の老舗料亭の長女として生まれました。地元のお嬢様学校を経て、高校卒業後、子供服のデザイナーを目指して上京しました。表参道のブティックに務めていたといいます。
東京は彼女の美貌を放っておきませんでした。スカウトされて芸能界入りし、「越沢美紀」の芸名でデビューし、モデルとして活動しました。
高倉美貴は1983年、団鬼六に見出されて、ロマンポルノ女優デビューします。人気があった団鬼六のSMシリーズ5本に出演し、ロマンポルノ史上最も美しいと言われる、スター女優となりました。
高倉美貴は1984年、貯蔵酒のフクマサ生ライトのCMに出演しています。水辺に気だるく座り、お酒を飲む様子は、まさに妖艶であり、さすがロマンポルノ女優といった雰囲気を出しています。またその美貌も息をのむ美しさがあります。最後にセリフがありますが、その幼い感じはギャップがあり、惹きつけられます。
原田伸郎は清水国明とともにフォークデュオ「あのねのね」を結成し、人気となりました。高倉美貴と原田伸郎の関係はどのようなものだったのでしょうか。
原田伸郎は1970年代から80年代にかけて「あのねのね」で一世を風靡しました。1977年より清水国明とともに司会を続けていた『ヤンヤン歌うスタジオ』を1986年に降板すると、清水国明とは別にピンで活動するようになります。
『MBSヤングタウン』、『夜はクネクネ』のレギュラーを務めたほか、ドラマにも出演しました。1987年にはよみうりテレビ制作の「朝の連続ドラマ」シリーズ『見上げればいつも青空』に出演しました。そこで高倉美貴と出会います。
『見上げればいつも青空』は甲斐智枝美演じる、美容師・競馬評論家・エッセイストの主人公の半生を描いたものです。原田伸郎は主人公の夫役を務めており、その浮気相手役で出演したのが高倉美貴でした。
原田伸郎は結婚していましたが、二人はドラマ上だけでなく、現実においても不倫関係にあったとみられています。
『見上げればいつも青空』をきっかけに出会った高倉美貴と原田伸郎は、1995年3月1日に結婚しました。高倉美貴は初婚、原田伸郎は3度目(2度目という説も)の結婚でした。高倉美貴としては不倫関係がずっと続くのではなく、正式に結婚できたのは幸いであったでしょう。
ここで伝説のロマンポルノ女優となった高倉美貴の経歴について、詳しくみていきましょう。どのようにロマンポルノ女優となり、その後はどうなったのでしょうか。
スカウトによって芸能界に入った高倉美貴は、CMやポスター、雑誌でモデルとして活動を開始しました。活動のなかでビキニ写真も披露しています。ここまでは普通の若いタレントと同じでした。
高倉美貴のタレント人生を大きく変えることとなったのが、団鬼六の存在です。官能小説家である団鬼六は、日活ロマンポルノで人気であったSMシリーズの原作者でした。ロマンポルノへの出演オファーを渋る高倉美貴に対して、団鬼六自身が説得に当たりました。
日活は新人としては破格のギャラでオファーし、団鬼六に頼まれて団の友人の大島渚監督も説得を行い、出演することに至りました。高倉美貴は高校時代に映画研究愛好会の部長を務めるほどの映画好きであり、大島監督の勧誘は大きな影響があったとみられます。
高倉美貴は谷ナオミ、麻吹淳子に続く「3代目日活SMの女王」として売り出され、その美貌と抜群のスタイル、大胆な演技で「和製オリヴィア・ハッセー」の異名を持つ、スター女優になりました。
「団鬼六 美女縄地獄」(1983年)、「団鬼六 美女縄化粧」(1983年)、「団鬼六 修道女縄地獄」(1984年)、「団鬼六 縄責め」(1984年)、「団鬼六 緊縛卍責め」(1985年)の5本に出演しています。当初は3年で4本の契約でしたが、日活側の要請で1年延長しました。
高倉美貴は1985年契約満了に伴い、ロマンポルノを引退しました。同年、武田鉄矢とともに第8回日本アカデミー賞授賞式の司会に大抜擢されています。高倉美貴にとっては大きなチャンスでしたが、緊張のために失敗が多く、あまり上手くいきませんでした。
その後、高倉美貴は映画やドラマに多く出演しましたが、小さな役が多く、主演を務めるまでには至りませんでした。
高倉美貴は1993年、33歳のとき、ヘアヌード写真集『South Fairy Tale』を刊行しました。撮影は写真家で映画の撮影も担当する石黒健治が撮影を務めています。しかし、あまり話題になることはなく、ロマンポルノ女優としての栄光はすっかり過去のものとなってしまっていたのでした。
ロマンポルノ女優としてスターとなり、その後も映画やテレビに出演してきた高倉美貴は、現在どうしているのでしょうか。
高倉美貴は1995年に原田伸郎と結婚後、芸能界を引退し一般人として暮らしています。たまにテレビ出演することがあっても夫と一緒に出るだけとなっています。とは言っても、インスタグラムでは、多くの芸能人とのツーショット写真がアップされており、交友関係の広さが窺えます。
以上、高倉美貴の経歴や現在などについてご紹介してきました。モデルからロマンポルノの世界に入り、スター女優となりました。現在、観てもその美しさや妖艶さは、惹きつけられ、目が離せない魅力があります。
その後、小さな役ながら映画やテレビに出演し、結婚により芸能界を引退しました。まさに彗星のように通り過ぎ、人々に強い印象を残した伝説の女優です。
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