木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
アル・カポネは1900年代前半にアメリカのシカゴで悪名を馳せたギャングの首領です。
用心棒から身を立て、ギャング組織を指揮するのと同時に、密造酒の製造と販売、売春業、賭博業など違法なビジネスを拡大して、数多くの犯罪組織をまとめあげていって、シカゴNo.1のボスになりあがった人です。
今回は、そんなギャングという神も恐れぬ大悪人という印象を持ちながら、時折人間らしい一面をのぞかせたアル・カポネの生い立ちから逮捕までと彼が題材となった映画「アンタッチャブル」についてまとめていきます。
アメリカの代表的なマフィアのアル・カポネの生い立ちはどのようなものだったのでしょうか?
アル・カポネは14歳から不登校になったそうですが、なぜ不登校になり、その後はどのような生活をしていたのでしょうか?
アル・カポネは、1899年にニューヨークのブルックリン区にイタリアのカンパニア州サレルノ県アングリ出身のイタリア系アメリカ人の家に9人兄弟の4番目として生まれました。フルネームは「アルフォンス・ガブリエル・カポネ」と言います。
父親のカブリエーレ・カポネは理髪師で、母親のテレサ・ライオーラは裁縫の仕事をしている普通の一般的な家庭でした。
アメリカンドリームを夢見て移住した彼の家族ですが、現実は甘くなく待っていたのは、貧困と前に移住した人々からの差別でした。
少年時代のアル・カポネはスラムでの生活を余儀なくされていたので、まともな生活を手に入れるために6年生までは成績が良かったそうです。算数の得意な彼はそのクリっとした目の愛嬌や人柄で町の人気者でした。
厳格なカトリック系の学校に通っていましたが、馴染めずに悪ガキ達との付き合いが始まり、学校を休みがちになります。
そんな日が続いた7年生のある日、担任の女教師に「学校にろくに来ていないのに、成績がいいのはおかしい。試験でイカサマをしているだろう」と注意されたことで、殴り合いの喧嘩になりました。その喧嘩をきっかけに学校に2度と行かなかったそうです。
不登校になった頃のアル・カポネは、遊びが好きで洒落た服を着て外出してはしゃいでいました。また、ビリヤードの名手で町のチャンピオンであったそうです。
幼馴染のエドワード・ディーン・サリヴァンによれば、彼は無邪気な少年で、お酒を一滴も飲まないのに、「アドニス社交クラブ」という暴力団のたまり場のような店に出入りしていたと言います。
アル・カポネは同時に、工場で働いていて、お金を少しでも稼いだら母親に渡す家族思いの面も持っていました。しかし、工場の労働者を小馬鹿にするような少しの賃金の何倍もの報酬をポンとくれるギャングにだんだんと入り込むようになっていきました。
アル・カポネがギャングの道に足を踏み入れたのは、ニューヨークのギャング「フランキー・イェール」の下で働き始めた頃でした。イェールが経営していた「ハーヴァード・イン」という店で、用心棒やバーテンダーなどの下っ端の仕事をこなした結果、認められました。
この時に「スターフェイス(傷跡がついた顔)」が生まれました。アル・カポネがイェールの店で働いている時に、ある女性を侮辱し、その女性の兄からナイフで左頬を切り付けられました。一生治らない傷跡がつき、ニックネームが付けられました。
アル・カポネは、この下積み時代からどのように組織のボスへとなったのでしょうか?
1919年または1920年頃に、のちに「暗黒街におけるアル・カポネの育ての親」と言われたシカゴのギャングスタ―のジョニー・トーリオがアル・カポネをシカゴへ呼ぼ寄せます。
彼が経営する賭博場、売春宿、酒場がすべて一緒になり、おまけには地下に拷問室まで兼ね備えるという夢のようなアミューズメントパークの用心棒として雇われます。アル・カポネの出世は驚くもので、わずか1年でそれらの施設の支配人となります。年に2万5千ドルものお金を稼ぐようになったと言われています。
同時に不正なビジネスを組織化していくなどして、裏社会での実績を上げていきました。また、この頃には結婚をしていて妻子もいたので、シカゴに家を買って家族を呼び寄せています。母や兄弟も同時に呼び、10人前後のにぎやかな暮らしをしていたようです。
1920年5月11日にトーリオのボス、シカゴ・アウトフィットと呼ばれる犯罪組織の創設者「ジム・コロシモ」が、フランキー・イェールに殺害されました。殺害理由には、酒の密売ビジネスを始めたいが邪魔になったため、依頼したとされています。
この事件で一夜のうちにジョニー・トーリオがサウスサイド・ギャングのボスになり、アル・カポネはその右腕になり、シカゴ暗黒街で一気に出世しました。
その後、他のギャングと平和的に話し合いをし、縄張りを決める「和解」を試みましたが、1925年にノースサイド・ギャングのボスが殺害されたのを機に交渉は決裂しました。
ジョニー・トーリオはノースサイド・ギャングから何度も襲撃を受け、1925年1月24日に妻アンと買い物の帰り道に、胸と首に銃弾を食らい瀕死の状態になり、命はなんとか取り留めましたが、第一線から身を引くことを決めました。
ノースサイド・ギャングとは、シカゴで1920年代から1930年代に活動していたアイルランド系とポーランド系のアメリカ人によるギャングで、闇市と酒場の奪い合いでシチリアのサウスサイド・ギャングと対立している軍団です。
そして、組織トップの座をアル・カポネに託したのです。アル・カポネが26歳の時でした。この頃は、ギャング同士の抗争が最も激しい時でした。
サウスサイド・ギャングのボスになったアル・カポネは、ノースサイド・ギャングからの襲撃を警戒し、突然ごく親しい友人と休暇に出かけたり、敵対するギャングに近付かないようにしたり、シカゴ市警や市長を買収するなどし、自分の命を守ろうとしました。
また、自宅以外では1人にならにようにし、常にボディーガードも付けるようになりました。実際、26歳の時に暗殺を計画されていましたが、たまたま不在だったため難を逃れたこともありました。
その結果、生涯を通して周囲の人間が殺害される状況は続きましたが、一方でアル・カポネ自身は生き延びています。自分に近い人間が殺されるたびに、その報復として敵対するギャングの構成員を無慈悲に殺害してきました。
また、アル・カポネはどんなに敵から襲撃があっても、裏社会ビジネスの拡大の手は緩めませんでした。売り上げを増やすために酒の取引を強引に拡大して、仕入れを断った店を爆破することもあったそうです。
強引なビジネス拡大により、1927年頃には酒類、売春、麻薬などの不正ビジネスを取り仕切る強大な存在へとなっていきました。
禁酒法とは、1920年から1933年までアメリカ全体で、消費のためのアルコールの製造や販売、輸送が全面的に禁止された法律です。
禁酒法はありましたが、酒の製造業者の従業員は逮捕されてもすぐに釈放されるといういい加減なもので、多くの市民は隠れて酒を自宅で飲んだり、会員制の闇のバーで酒を飲んだり、ポケットに小瓶に隠して人気のないところで開けて飲んでいたようです。
結果として、酒の収入が闇から闇に流れたため、ギャンググループに酒で得た収入が流れて、その収入を巡ってギャング同士の抗争にまで発展しました。
アル・カポネのギャングは、不正ビジネスを取り仕切る強大な存在になっていきましたが、実はそれらの事件に直接関与していませんでした。それどころか、アル・カポネはメディアの力を借りて、感じが良く親切な人という印象を世間に与えていました。
野球観戦を楽しんだり、慈善事業に寄付したりする姿を見せ、「現代のロビンフッド」と呼ばれることもありました。
例えば、アル・カポネは密売で得たお金で無料食堂に運営資金を提供し、12万人以上の人々に食事を提供しました。大怖慌期に職を失ったアメリカ人の中には、ここでの食事が唯一の食事だったという人もいたと言われています。
アル・カポネは政治にもお金を使い始めました。
1927年の市長選では候補者の1人であるウイリアム・ヘイル・トンプソンに莫大な額の26万ドルを献金し、トンプソンを勝利させています。
その結果、当時のシカゴではアル・カポネが実質的な市長だと言われる事さえありました。
上記の一連の行動は、アメリカの資本主義に対するアル・カポネの思想をよく映し出していると言えます。
アル・カポネは実際に、「呼び方はどうでもいいが、アメリカの制度は積極的に受け入れて、最大限に活用できれば、大きなチャンスを手にすることが出来る制度だ」と言っています。
シカゴの皆から慕がわれるようになったアル・カポネでしたが、純粋すぎる性格があだとなりました。
自分でいいやつで、人気者で、自分を疎ましいと思っているやつなどいないだろうと思っていたアル・カポネでしたが、それは間違いであるという事件がこの後起こりました。
間違いであると気付いた事件には、どのようなことがあったのでしょうか?
アル・カポネやジョニー・トーリオの同業者に、童顔ギャングとして知られていたダイオン・オバニオンという男がいました。彼から製造所を譲渡され、ジョニー・トーリオが手入れして外に出ると、そこには警察が待っていました。
そこで逮捕され、9ヵ月の懲役と五千ドルの罰金を食らいました。これを知って激怒したアル・カポネは、ニューヨークからフランキー・イェールら3人の殺し屋を雇い、ダイオン・オバニオンの所に派遣し、殺害しました。
アル・カポネが率いるギャングが関与した殺人事件は数年間続きましたが、1929年に敵対するノースサイド・ギャングを率いていたバッグス・モランを殺害して抗戦の終止符を打つことを計画しました。
1929年2月14日の聖バレンタインデーに、雇った数人の男性に警官の格好をさせて、偽の強制捜査を行うためにアル・カポネは、モランの本部に向かわせました。倉庫で話していたノースサイド・ギャングの関係者7人を全員に壁に並ぶように命じて、一斉に発砲して殺害しました。
一方、モランは数分到着が遅れ、倉庫に止めてあった偽のパトカーに驚いて、その場から立ち去ったため、事なきを得ました。これ以降、ノースサイド・ギャングの力は弱まり、アル・カポネにとっての脅威でなくなりました。
世間に感じが良く親切な人だと認識されていたアル・カポネですが、上記の殺人事件などから世間の敵となってしまいました。
そして、逮捕までされてしまったアル・カポネ。逮捕後に梅毒が悪化し、人格がすっかり変わってしまいました。
ノースサイド・ギャングの脅威がなくなりましたが、アル・カポネの最大の脅威は別のところにありました。「聖バレンタインデーの虐殺」で行われた凄惨な殺害がマスコミにより大々的に取り上げられ、世間の人々から背を向けられるようになりました。
世間の声が高まりを受けて、警察組織はアル・カポネのビジネス調査に着手して、総力を挙げて起訴へ乗り出すことになりました。
その結果、アル・カポネは、「禁酒法違反の罪」、「法廷侮辱罪」、「武器を隠し持っていた罪」、「浮浪罪」、「偽証罪」で告発されました。
しかし、結果的に逮捕された理由は別にありました。アル・カポネは一切納税を行っていませんでした。そのため、1931年にはとうとう脱税の罪で起訴され、懲役11年と罰金8万ドルの判決が下されました。この時、陪審員を買収して逃れようとしたが、事前にバレて陪審員を入れ替えられてしまい、失敗に終わっています。
1931年にクック群刑務所に入りました。実はアル・カポネは、ジョリー・トーリオによってシカゴに呼び寄せられた下積み時代に、梅毒に感染していました。刑務所での生活をしていた1936年に、患っていた梅毒が進行し始めて、神経障害などが目立ち始めました。
アル・カポネは、気が弱くなり、子供じみた行動をとったり、痴呆症状が出るなどして、他の受刑者の庇護が必要になるほどでした。1939年にアル・カポネは釈放されましたが、その時にはすでに精神が錯乱することも多い状態でした。
出所後は、ボルチモアのユニオン記念病院で、梅毒の治療を受けることになります。4ヵ月の治療後、家族とフロリダのパームアイランド島にある家で生活します。この頃、暗黒街の人間が訪れてきて、雑談したり、他の兄弟と商談をしたりしていたそうです。
また、第二次世界大戦中の1945年に、梅毒治療として民間人で初めてのペニシリンを投与されたが、病気が進行しすぎていたため、効果はありませんでした。
それから7年後の1946年の時点で、アル・カポネの知能は12歳並みになっていたと言われています。そして、1947年1月25日に脳卒中に伴う肺炎によって、48歳で死去しました。出所してから死亡するまで、かつて牛耳っていたシカゴに戻ることはありませんでした。
Ennio Morricone 映画「アンタッチャブル」 Main theme from THE UNTOUCHABLES
アル・カポネが題材になった「アンタッチャブル」は、アメリカでは1987年6月5日、日本では1987年10月3日に公開されたアメリカの映画です。
大人気映画となり、興行収入も7,600万ドル以上で、テレビドラマ化もされ大ヒットしました。
映画の内容はどのようなもので、キャストは誰が出演していたのかをご紹介いたします!
禁酒法時代のアメリカ・シカゴを舞台にして、正義のためにギャングのボスであるアル・カポネを逮捕しっようとするアメリカ合衆国財務省捜査官たちのチーム「アンタッチャブル」の戦いの日々を描いた実録映画になっています。
捜査チームの主任捜査官だったエリオット・ネスの自伝を基に作られています。
映画「アンタッチャブル」のキャストには、かなり有名な俳優が出ていました。
主役のエリオット・ネス役にはケビン・コスナーさんや、主人公を助ける老警官役ジム・マローン役にショーン・コネリーさんが出演しています。
また、ジョージ・ストーン役にはアンディ・ガルシアさんで、この映画で大階段でのアクションで注目を集めたことで、キャリアスタートとなりました。
今回はアメリカの暗黒社会で活躍したギャングのボス「アル・カポネ」について、その生い立ちから生涯を見てきました。下積みから成り上がり、大胆な不正ビジネスの展開や、世間に対するイメージ戦略によって、稀代のギャングスタ―となりました。
さらには、仁義は通すし優しいが、裏切り者や敵には容赦ない。しかもギャンブルが大好きで、入ってきたお金はどんどん使って蓄えがなく、ほとんど残していなかったなんて、本当にギャングの鑑と言える人物でした。
現在の平凡な日々を送る私たちに、アル・カポネの人生は、ロマンや夢を与え続けてくれることでしょう。
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