2024/02/16
r.y6
戸川京子は女優でもありミュージシャンでもあり、テレビのパーソナルティとして数々の番組で活躍していた女性です。
子役としての活動後には、雑誌のモデルをしていたりしました。現在で言うマルチタレントとして、活躍していたのです。姉として、歌手の戸川純がいます。
戸川京子は1964年8月13日産まれで、女優やミュージシャンととして活躍していた女性タレントです。女性ファッション雑誌のモデルとしても活躍していました。
テレビでは、バラエティ番組のパーソナルティなどもしています。マルチタレントとして活動をしていたのですが、2002年7月18日自宅マンションにて自らの命を絶ってしまったのです。37歳という若さでした。
マルチタレントとして活躍していた戸川京子は、ミュージシャンとしてもアルバムなどをリリースしています。1993年には、ロックバンドZIGGYのドラマーの大山正篤と結婚しました。
大山正篤は北海道の釧路市出身で、1992年にそれまで活動していたバンドZIGGYから脱退しました。バンドを脱退直後に戸川京子と結婚したのでしょうね。
しかしその結婚生活は、そう長くは続かずに1999年に2人は離婚しています。
ミュージシャンや女優として、マルチに活躍していた戸川京子。そんな戸川京子に、子供がいるのではないかという噂があるようなのです。1993年には大山正篤と結婚をしていますが、年齢的にもお子さんがいてもおかしくない年齢でした。
しかし、いろいろ調べてみたのですが2人の間に子供がいるという情報はありませんでした。結婚していたから子供が生まれたという事は、限りなく噂に近い情報だと思います。
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37歳と言う若さで、自ら命を絶ってしまった戸川京子。戸川京子の芸能界へのデビューは何をきっかけとしたのでしょうか。
ここからは、戸川京子の芸能界での歩みなどをご紹介したいと思います。
戸川京子は、5歳の時から劇団ひまわりに所属していました。その劇団では子役として、数々のドラマや映画に出演しています。明るいキャラクターとトークで戸川京子の人気は、高まっていったのです。
子役としては、特撮シリーズのウルトラマンAや仮面ライダーストロンガーなど数多くの番組に出演していました。
映画での初出演は、「アフリカの鳥」と言う作品です。その後は、「男はつらいよ 翔んでる寅次郎」「独身アパートどくだみ荘」など幼い頃から培った演技力で、数多くの作品に出演しているのです。
女優として活躍している戸川京子は、女性ファッション雑誌のモデルとしても活動しています。その雑誌は「CUTiE」と言って、先端的な着こなしでモデルとして活動していたのです。
女優としてだけではなく、スタイルも良いと言うことで雑誌のモデルなどの仕事もこなしていました。趣味で車が好きと言うことで、イギリス製2シーターオープンスポーツカーMGBを愛車としており、自動車雑誌にも掲載されたことがあるそうです。
子役から女優として、ミュージシャンとしてマルチに活躍していた戸川京子。雑誌のモデルとしても活躍していたのですが、ある大人向けの番組に出演するのです。それは「11PM」という大人向けの、バラエティー番組でした。
「11PM」ではパーソナルティとして出演しており、そのほかにも「もっと過激にパラダイス」という番組にも出演していました。そこでは子役時代の戸川京子ではなく、大人の女性としての戸川京子を見せていたのです。
戸川京子の子役時代は、「お寿司やけんちゃん」などのけんちゃんシリーズや映画に数ず多く出演しました。2002年にNHKで放送された、「どっちがどっち」出演が最後のテレビドラマとなったのです。
このドラマは、戸川京子が自らの命を絶ってから、3カ月後の放送となっています。もうそこにはいない戸川京子が、目の前で役柄を演じていると言うことはとても信じられないことだったのです。
戸川京子は女優をしながら、音楽活動にも力を入れていました。アルバムも何枚かリリースしており、戸川京子のファンも多かったのです。「まりもの気持ち」や「ワンルームの鍵」と言った曲は、今でもファンの間では愛されている曲となっています。
歌手としての歌唱力も有り、メロディーも聞きやすくて最近の若者にも受け入れられると思います。隠れた名曲として「砂丘」がファンの間では慕われているのです。
ミュージシャンや女優としてマルチに活躍していた、戸川京子。2002年7月18日に37歳という若さで、命を絶ってしまったのです。仕事も順調にこなしていたと思うのですが、戸川京子に一体何が起きたのでしょうか。
命を絶つ前日には、スタッフと電話で会話したり、友達と電話で会話した記録が残っていたのに…命を絶った原因は何だったのでしょうか。
自宅マンションで、自らの命を絶ってしまった戸川京子。戸川京子は、病気を苦にして命を絶ったのではと言う噂があります。命を絶つ日には、鹿児島でロケの予定が入っていました。所属事務所でも、自殺の原因は分からないと言うことだったのです。
前日まで変わった様子もなかった戸川京子。命を絶った半年後に、父親が週刊誌のインタビューに答えています。その中で幼い頃から戸川京子は、小児喘息を患っていたことが分かりました。
30代に入ってからは重い喘息に罹っており、1日に4回飲む薬を1回でも飲み忘れると発作を起こすほどだったのです。舞台稽古中にも、咳が出たりして稽古が中断すると迷惑を掛けると言って我慢していたのです。それだけに、周囲には苦しいと打ち明けていたようです。また2001年には心筋梗塞も起こしていました。
小児喘息の他にも、戸川京子の晩年はうつ病だったのではないかと言う話もあるようです。ハッキリしたことは分かっていないのですが、うつ病だったのなら発作的な自殺は考えられるでしょう。
戸川京子の死因は、首を吊ったことでの窒息死だと言うことです。死後に遺品を整理していた父親が、1枚のメモを発見しました。そのメモには「死ぬのは嫌じゃない」という文字があったのです。
もし戸川京子がうつ病だとしたら、友人からの電話で出なかったと言うことにも納得がいきます。うつ病で精神的に疲れたりして、発作的に命を絶つと言うこともありうるでしょう。そしてこのメモの言葉に、自殺の原因を解く鍵があるのかもしれませんね。
戸川京子には、戸川純という姉がいます。2人はとても仲良しだったようなので、戸川京子が自殺したことで戸川純はそうとうショックを受けたのではと考えられます。
そんな戸川純にも、いろいろ問題があったようなのです。これから姉の戸川純のことを、少し調べて見たいと思います。
戸川京子の姉、戸川純も自殺未遂を起こしています。それは1995年の事で、自宅マンションで手首をカミソリで切ったのです。自殺未遂の原因として所属事務所との金銭問題や、バンドメンバー脱退などのトラブルがあったと考えられるのです。
トラブルの内容はライブビデオが断りもなく編集され、無断で販売されていたそうです。その様な人間関係などのトラブルが度重なり、自宅マンションで自殺を図ったのでしょう。
その後も戸川純は何度か自殺未遂を起こしています。睡眠薬の多量摂取や、マンションの屋上から飛び降りたりもしたそうです。やはり、数々の人間関係のトラブルが原因と考えられています。
戸川京子の姉、戸川純は不思議キャラと言われています。歌唱力は高いのですが、わざと音を外して叫んだりしていました。コスチュームも独特で、小学生の女の子みたいなコスチュームを着てトランス状態のように目をむきながら歌うのが有名だったのです。
パフォーマンスも、何かに取り憑かれているような独特の雰囲気があり、戸川純は「ビョーキ」と言われていた時期がありました。
戸川京子の姉戸川純は、元祖ヤンデレと言うことでも有名でした。「ヤンデレ」とは、「病んでる」と「デレ」を合わせた造語です。精神的に病んでる状態のことを、表現しているのです。
自身が作詞した中にもその「ヤンデレ」みたいな表現が有り、「滴る生き血に飢えるわ(肉屋のように)」とか「愛してると言わなきゃ殺す(好き好き)」とかの病的で過激な歌詞があるのです。
そんなことから、「ヤンデレ」元祖と言われ、当時のニューウェーブやパンクバンドなど、前衛音楽の一種の特徴だったのでしょう。
芸人の中で、戸川純の影響を受けた人が居ます。鳥居みゆきが、影響を受けた芸人です。目をクリむいて絶叫する姿などは、戸川純を彷彿させていました。その鳥居みゆきが戸川純を知ったのは、中学三年の時に教師が語った言葉からだというのです。
その教師は「このCDは鳥居っぽいから聞いてみたら」と言って、戸川純のCDを渡したのです。その歌声に激しい衝撃を受けます。23歳の頃には戸川純が書いたレビューを読んで、再び衝撃を受けたのです。
鳥居みゆきは、戸川純の歌声で衝撃を受け、戸川純の文章で表現者として目覚めたのでしょう。
自らの命を絶った戸川京子、その戸川京子の姉で戸川純は今現在何をしているのでしょうか。一部では、妹の戸川京子の自殺にショックを受け、活動を休止していたという話があるようです。
戸川純は、戸川京子の自殺をレポーターから聞かされたそうです。その時「私みたいに死にたいと思ってる人ほど、長生きをする。まさか京子が早死にするなんて…」と愕きました。そして「京子は、どんな時でも前向きに生きていくと思っていたのに…」と悔しがったそうです。
葬儀のあとの戸川純は、涙も涸れ果てた様子で戸川京子との仲が良かったことが覗えたそうです。
戸川純は、妹戸川京子の自殺のあと一時活動を休止していた時期がありました。妹の死のショックから立ち直ったのか、活動を再開する時期が来たのです。2007年以降には、ラジオ番組のパーソナルティを始めています。
その後は、長編小説なの執筆も行っていたようなのです。
妹の自殺のあと、一時は芸能活動を休止していた戸川純。現在はどのような活動をしているのでしょうか。その活動の一端を見てみたいと思います。
現在も戸川純は、ソニーミュージックのアーティストとして活動をしています。不定期でもあるのですが、全国的にライブ活動もしているようなのです。
戸川純の音楽活動は、様々な刺激をアーティスト達に与えています。その影響を受けたアーティストの中には、椎名林檎も戸川純の影響を受けたのではと噂されていました。
それほど戸川純の音楽活動は、現在でも様々なアーティストに影響を与え続けているのでしょう。
戸川純は結婚しているのでしょうか。妹の戸川京子は、1度結婚をしています。しかし姉の戸川純の結婚については、ネット上の情報も錯綜しているのです。一時期、上野耕路さんと結婚したという情報もありました。しかしすぐに離婚しているという情報もあるのです。
上野耕路さんは、ユニットを組んでいたメンバーでもあります。それは「ゲルニカ」というユニットでした。戸川純は「ゲルニカ」の活動を休止したあとにソロ活動に入ります。上野耕路さんとは、それぞれ別の路を歩くことになるのです。
年齢的にも結婚して子供さんがいてもおかしくないのですが、その様な確信を得られるような情報はほとんどありません。そう言うことから戸川純は、一度も結婚をしていないと思われます。
戸川純が、車椅子での生活を送っているという話があります。どうしてその様な話が出たのでしょうか。話の発端は、テレビ番組の「笑っていいとも」だと思われます。戸川純がテレフォンショッキングに出演したとき、椎間板ヘルニア手術の話をしたのです。
またその後、交通事故に遭って足を複雑骨折しています。椎間板の手術や、足を骨折したことで腰を痛めてしまったようです。その事で車椅子での生活を送っていたようです。ライブも車椅子で行っており、その状態で歌ったり車椅子から立ち上がって、パフォーマンスをしていたようなのです。
戸川京子は1984年にデビューしていますが、その年にデビューした芸能人は数多くいます。しかしその中には、自ら命を絶った芸能人も少なくありません。
1984年にデビューした芸能人で、自ら命をたった代表的な人を見てみましょう。
「ファースト・デイト」でデビューした岡田有希子の夢は、松田聖子や山口百恵のようにトップスターになることでした。「くちびるNetwork」のヒット曲や、「禁じられたマリコ」で主演を演じたりして、歌手と女優としても活躍したのです。
しかし1986年4月8日、自宅マンションにてガス自殺を岡田有希子は図ったのです。その時は、他の住人の通報により一命を取り留めます。その後に事務所関係者が目を離したすきに、事務所のあるビルの屋上から飛び降りて命を絶ったのです。
自ら命を絶った原因は何だったのでしょうか。当時は様々な憶測が流れます。あるベテラン男優との恋愛に、悩んでいたのではないかと言うのです。真面目な性格の岡田有希子でしたから、人に言えない悩みがあったのかもしれません。いまだにその原因は、謎のままなのです。
グラビアモデルとしてデビューした可愛かずみ。高校在学中にスカウトされ、モデルデビューしたのです。しかしそのモデルデビューには裏があり、ヌードになる仕事だったのです。最初は断ろうと思ったのですが、担当女性がひどく叱責されるのを見て、渋々同意してしまいます。
それからロマンポルノ女優として、活躍します。その後は野球選手とお付き合いをするようになり、結婚間近と言うことでした。お付き合いをしていた野球選手が、故障したことによりすれ違いが生じ破局してしまいます。
失恋したことにより、何度かリストカットなどをして自殺を図ります。1997年5月9日、熱があると言って病院へと出かけた可愛かずみ。以前お付き合いをしていた野球選手のマンションから、飛び降りたのです。初めは破局相手への当てつけだと言われたのですが、いまだに本当のことは分からないようです。
戸川京子は自分の手で自らの命を絶ちました。女優としてミュージシャンとして活躍していたのにです。しかも様々なジャンルで活躍する、多彩な才能を持っていましたが、芸能界特有の悩みや苦しみがあったのでしょう。
戸川京子の死の原因は、いまだに不明であります。しかし姉である戸川純が、妹の代わりに今もミュージシャンとして頑張っています。
その姿を戸川京子は、静かに微笑みながら応援していることでしょう。
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