ビートたけしが芸能界引退?事故で顔面麻痺の過去や映画作品を紹介
2023/12/28
大今里
1970年頃から1990年にかけてよくドラマなどでお見かけした岸部四郎さんですが、最近テレビで見かける機会が減りましたよね。高齢であり一部で死亡説などもでていますが、今もご存命で老人ホームで暮らしているそうで。しかし何故「老人ホーム」住まいなのかという疑問と共に、病気になったという噂や時には死亡説までネット界隈では流れています。
この記事ではそんな岸部四郎さんの活動内容や頂点からの転落、死亡説の理由や現在の様子など、多岐にわたってまとめていきます。
タレント・俳優としてのイメージが強い岸部四郎さんですが、本格的な芸能界入りのきっかけは「ザ・タイガース」でバンド活動を始めたことでした。「ザ・タイガース」は世代の方ならよく知っている存在であり、「モナリザの微笑」や「君だけに愛を」など数々のヒット曲、日本武道館でコンサートを行ったこともあります。
若い頃の「ジュリー」こと沢田研二さんがボーカルを務めていたことも有名ですが、惜しまれながら1971年に解散。その後も1981年~1983年は「同窓会」と銘打って再結成されて活動。更に30年が経過した2013年にも復活コンサートを行うなど今なお不滅の存在として語り継がれています。
現在も俳優として活動されている岸部一徳さんは実の兄です。岸部四郎さんと同じくザ・タイガースに所属し、兄妹でグループサウンズの最前線として活躍されていました。ただ、岸部一徳さんは堅実で真面目な性格に対して、弟の岸部四郎さんは数多くの借金エピソードが事欠かない楽天家の浪費家でした。
借金エピソードの詳細は後ほどに触れますが、岸部四郎さんが自己破産するほどに追い込まれていた時に、岸部一徳さんは「自業自得」と切り捨て援助をしなかったことから、長く不仲説が噂として広まっています。
しかし2003年に岸部四郎さんが病気で倒れてからは岸部一徳さんは徐々に歩み寄り、今は老人ホームに住んでいる岸部四郎さんに面会に定期的に行くまでに兄妹仲は修復されているそうです。また、2013年にザ・タイガースが復活公演をしたときも、岸部四郎さんと岸部一徳さんは共演をされています。
「ザ・タイガース」が解散してからも岸部四郎さんは順風満帆。司会・タレント・俳優としてマルチな活躍を見せ、正に向かう所敵なしでした。バラエティで弄られる金にがめつい小汚いおじさんイメージしかない世代の方は、これもまた驚きの事実なのではないでしょうか。
晩年はバラエティで自虐ネタを連発することになった岸部四郎さんですが、その背景には絶頂から転がり落ちるような転落劇がありました。
テレビ出演も順調でお金持ちそうなイメージが強い岸部四郎さんですが、そのイメージとは裏腹に多くの借金を抱えていました。堅実な岸部一徳さんとは真逆と称したように、岸部四郎さんは貯金が苦手でお金を持つとすぐに使ってしまうタイプでした。
売れた芸能人にありがちですが、岸部四郎さんにもやはり事業を起こしたい野望があったようで、アメリカのディスコを買収やヘリコプター運行委託会社の共同経営などの無謀な挑戦を何度も繰り返し、借金が「本人が全く把握していないままに」膨れていったそうです。更には骨董品収集の趣味までありました。
自責以外にも、岸部四郎さんは知人の借金の連帯保証人を次々と引き受けていて、人の良さに付け込まれ、結局は借金者は支払うことができませんでした。岸部四郎さんは連帯保証人としての負債も乗りかかり、最終的な借金は4億2000万円(自己申告)にも膨れ上がったと言われています。
ついに借金でクビが回らなくなった岸部四郎さんは、1998年に自己破産の道を選択します。この時に「ルックルックこんにちは」を自首的に降板、事務所からも解雇と突然の芸能活動縮小の流れになりました。一部では以前所属していた渡辺プロに圧力をかけられ、干されるのを恐れたためとも言われています。
この自己破産からの活動自粛は大スキャンダルとして暫くワイドショーを賑わせる形となり、当時は連帯保証人の被害者として岸部四郎さん報道されていました。しかし後年、岸部四郎さんはこの時の破産の原因を骨董品収集が理由だったと仰られています。「骨董品に億は使った」と、自己破産前から雑誌で答えたりしていました。
岸部一徳さんも初期は借金返済の援助をしていましたが、浪費癖が最後まで抜けなかった岸部四郎さんを「自業自得」と切り捨てています。先に触れた不仲説のとおりですね。最終的には利息だけで月1200万円になっていたそうで、これはこの時の岸部四郎さんの月収以上の額面でした。
この一連の流れからの自粛で、岸部四郎さんは自殺説が流れることとなりました。「借金が膨らんで人気番組を降板、事務所は解雇、仕事なし」な状況に突然陥ったので、思ってしまうのも仕方ないことかも知れません。しかしルックルックこんにちはのスタッフに電話が入り、生存を確認されました。
借金が膨らみ自己破産へ。ルックルックこんにちはからも降板し、表舞台から姿を消した岸部四郎さん。その衝撃はネットも流行していない時代に自殺説までさも事実のように流れたことから、当時の世論の驚きや困惑を現していると言えます。
そのまま消えてしまうと思われた岸部四郎さんでしたが、破産・降板事件の熱も冷めた2002年頃からまたテレビで姿を見せるようになりました。岸部四郎さんは昼の顔の時とは全く違った新たな一面を武器にして、不死鳥のように復活したのです。
ルックルックこんにちはでは穏やかで落ち着いた印象、数々のドラマでは名脇役、若い頃は司会にと活躍された岸部四郎さんですが、復帰後のキャラは180度反転しました。復帰後はバラエティ中心に出演することとなり、「めちゃイケ」や「ガキの使い」などに出演。過去の出来事から、金に汚いタレントそしてお茶の間の笑いを誘うことになりました。
復帰後の名台詞「俺を誰やと思てんねん!元金持ちやぞ!」というセリフも「ガキの使い」で産まれた言葉で、コレが見事に受けました。特に同番組では岸部四郎さんを落とし穴に落とす企画が大受けし、「金が欲しいキャラ」を定着付けることに成功しました。転んでもただでは起きません。
復帰後、岸部四郎さんは二度病気で倒れています。一度目は2003年で、岸部四郎さんの金持ちキャラが定着した頃。突然の「脳内出血」で緊急入院し、生死の境を彷徨うこととなりました。一命をとりとめましたが、脳の病気ということもあり要介護者となってしまいました。
脳出血の後遺症で「視野狭窄」が残り、右目の視野が左目の1/3しかないことを告白されています。しかし退院後は芸能界に復帰し、バラエティでの活躍で人気だったことから俳優としての仕事も増えています。電車男の主人公の父親を演じたことは覚えている人も多いのではないでしょうか?
しかし2009年に「身体の身動きが取れなくなり」再び入院へ。病名や原因は明かされていませんが、脳出血の病歴が関係していると言われています。この時から岸部四郎さんは体調がかなり悪化し24時間車椅子生活となり、芸能活動もほぼ停止しました。当時の岸部四郎さんはまだ60歳前後。まだまだ隠居には早い年齢です。
波乱万丈で浮き沈みが激しい芸能生活を送っていた岸部四郎さんですが、二度結婚しています。この項では波乱万丈な人生を送る岸部四郎さんの道を彩り、時には支えた妻について紹介していきます。
岸部四郎さんはザ・タイガースの解散後にアメリカで知り合った女性と結婚されています。二人の子宝に恵まれましたが1986年に離婚し、親権は妻側へ。高額な養育費や慰謝料を請求されたそうで、岸部四郎さんははじめて借金をする事となりました。
二人目の妻は14歳年下の女性。輸入ブティックの店員でしたが、岸部四郎が見初める流れで結婚となりました。名前を「小緒理」といいます。しかし結婚からわずか4年後に岸部四郎さんは多額な借金を背負い、自己破産してしました。お金目当てであればここで別れてしまうことでしょう。でも、小緒理さんは違いました。
事務所からも解雇された岸部四郎さんの仕事を探したりと、心身ともに支える道を選んだのです。2003年に脳出血で岸部四郎さんが要介護者となった後も小緒理さんは岸部四郎さんを傍で支え続け、正に良妻と言っていいでしょう。
2007年、心身ともに岸部四郎さんを支え続けた小緒理さんは43歳という若さで心臓発作でこの世を去りました。岸部四郎さんはうつ病になるほどのショックを受け、一気に老け込み激やせしました。極稀にその変わり果てた姿でメディアに出るたびに、ネットで「岸部四郎がヤバイ死にそう」と囁かれることになったのです。これが2度目の岸部四郎死亡説の真相です。
「ザ・タイガース」のメンバーとして音楽業界を引っ張り、解散後はその個性的な容姿やキャラクターからドラマでは名脇役、バラエティ番組ではタレントとして重宝され、音楽活動から一歩引いても衰えること無く長く活躍された岸部四郎さん。
この項ではそんな岸部四郎さんの経歴や芸能活動の流れを細かく触れていきましょう。
岸部四郎さんは地元の中学校を卒業後に京都の印刷会社に就職されます。故に最終学歴は中卒です。しかし印刷会社の社員としては長続きせず、早々に退職。先にザ・タイガースのメンバーであった兄である岸部一徳さんを頼って、1967年にザ・タイガースのバンドボーイとして活動されることになりました。バンドボーイというのは、バンドにおける雑用係のようなもので、舞台で音楽を演奏するメンバーではありません。
1年ほどザ・タイガースのバンドボーイとして活動された後に、1968年にアメリカ・ロサンゼルスに「ミュージックライフ」の音楽特派委員として渡米。この留学にはザ・タイガースのメンバーとそれを支える渡辺プロダクションの後ろ盾があってこそだったため、当時から期待されていたことが伺えますね。
音楽特派委員に任命されてから1年後、1969年、ザ・タイガースの高橋かつみさんが脱退したことを理由に、岸部一徳さんからアメリカから呼び戻され、ザ・タイガースの後釜メンバーとしてメンバー入りすることになりました。ザ・タイガースの解散が1971年年始ですので、岸部四郎さんはザ・タイガースのメンバーとしては2年未満の活動期間でした。
岸部四郎さんと言えばトレードマークはやっぱりメガネですよね。お写真を見ても分かる通りに、若い時代からメガネを掛けていらっしゃいます。この時代はアイドルに眼鏡はご法度であり、タブーとされていましたので型破りであったことがわかります。
しかし岸部四郎さんの軽快なトーク力とキャラクターはファンにも好意的に受け入れられ、解散前から単独でテレビ出演が舞い込むなど、ザ・タイガース末期のメンバー入りではありますがしっかりと足跡を残していらっしゃいます。
グループサウンズブームの終焉が見えた1970年。以前から方向性や音楽性の違いなどで「ザ・タイガース」は幾度となく解散危機を報じられていましたが、遂に同年の年末に解散を表明。1971年の武道館ライブを以って、有終の美を飾る事となりました。
先に記述しましたとおりに、ザ・タイガース時代からピンでの出演も多く人気があった岸部四郎さんは、渡辺プロ所属のタレントとして大物歌手のステージなどの司会や、青春ドラマの俳優として仕事が舞い込むなど順風満帆な芸能生活は続きます。後年、御本人もよくネタにされていますが、1978年ドラマの「西遊記の沙悟浄」を演じたことは有名ですよね。
また1984年から伝説のワイドショー「ルックルックこんにちは」に、沢田亜矢子さんの後任として司会にも任命され、1998年に自己破産で降板するまで14年弱もの間、司会を務めています。岸部四郎さんは長きに渡りお昼の顔だったのです。
肉体的にも精神的にも体調面に不安を抱える岸部四郎さんは、体が思うように動かず、要介護者であり車椅子生活は継続されています。そんな状況ですのでメディアに出演することは滅多にない存在となってしまいました。現在の岸部四郎さんの活動はどうなっているのでしょうか?
岸部四郎さんは2012年に「ミヤネ屋」に出演し、現在は老人ホームで暮らしているとご自身で語っています。最愛の妻を亡くしたことと、最初の妻との子供との交流もあるとは明言されておらず、天涯孤独。同年に大腿骨を骨折し、ますます悪化した自由が効かない身体での車椅子生活のため、やむを得ない選択だったのかもしれませんね。
うつ病からは立ち直っているようで、前向きに復帰を考えているとこの時も希望を語られていますが、今までの病歴や体調面から、昔のような最前線での活躍はかなり厳しいようですね。弱った姿を昔の空気で茶化すように報道したことで、ミヤネ屋には一定の批判が集まりました。
弱々しい姿が話題になった翌年の2013年1月。沢田健一さんが自身の正月ライブイベントで、「オリジナルメンバーのタイガース復活」と宣言。同年12月、宣言通りにオリジナルメンバーが集い、全国8会場でのライブツアーがスタート。動員は10万人ものぼり、今尚タイガース人気を知らしめる事となりました。
体調面で不安がある岸部四郎さんは、最終日の12月27日のみ車椅子で出演。体調不良ながらも、岸部四郎さんはビートルズの「イエスタディ」を歌っています。岸部四郎さんのここまでの病歴や変わり果てた姿から、メンバーもファンも息を呑んでその姿を見守っていましたが、無事に歌いきりました。
現在も岸部四郎さんはお兄さんである岸部一徳さんに支えられながら生活をしています。費用なども全て岸部一徳さんが出しているそうで、その背景には岸部一徳さんの公開があるそうです。「自分が芸能界に引き入れなければ、自己破産を始めとして数々の苦難の目」に合わせることはなかったと、贖罪の気持ちも強いと言われています。
しかし岸部四郎さんは自己責任が多いとは言え、その道程は他人に騙されたことなども多く、沢山のトラブルに巻き込まれながらも、何度も這い上がっています。病気にも屈せず、時には自虐し、最愛の人を失いながらも鬱を乗り越えているんです。タイガースのライブに体調を押して出演されていることからも、きっとご自身が歩んだ過去に後悔はないのでしょう。
ここ数年はまたメディアへの露出が無くなっていて岸部四郎さんの体調の不安が一部で囁かれています。しかしきっと、これまでのように不死鳥のように復活をしてくれることでしょう! これからも岸部四郎さんを応援していきましょうね!
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【この記事は2020/03/10に更新されました。】