木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
上久一色村とは山梨県南部にかつてあった村です。村からは雄大な富士山を望むことができ、富士五湖に数えられる本栖湖や精進湖、そして河口湖などの自然に恵まれた風光明媚な土地でした。人々は湖畔に集落をつくり、その美しい景色を利用した観光業を主な産業としていました。
しかし、私達が上九一色村と聞いて真っ先に連想するのは、オウム真理教事件のサティアンがあった村ということではないでしょうか。オウム真理教事件とは、1980年代後半~1990年台にかけて坂本弁護士一家殺人事件、松本サリン事件や地下鉄サリン事件などの無差別テロで多くの死者を出した事件のことです。
このオウム真理教事件の中で重量な位置をしめた上九一色村の概要、そしてオウム真理教との関係、さらにオウム真理教事件終結後に上九一色村はどうなったのかについてご紹介していきます。
上九一色村は明治時代の町村制の施行により1889年に制定された村です。村内には国道139号、国道358号、国道300号が通っており、さらに1973年に甲府精進湖有料道路が開通されました。非常に車での交通アクセスが便利な場所でもあります。
ただ、行政面では南側と北側で管轄が違っており、警察署や保健所などが分かれていました。そのため、同じ上九一色村でも、南側の住民と北側の住民の生活圏にはさまざまな違いがありました。
このことから2002年、村は住民アンケートをもとに周辺の市、町との合併に向けて協議をすすめます。最終的に、村内の北部の地区は甲府市と合併、南部の地区は富士河口湖町と合併されます。そして合併終了後、2006年2月、上九一色村という村は消滅しました。
オウム真理教が上九一色村に進出しはじめたのは1989年のことです。オウム真理教は、表向きには宗教による町おこしをしようと呼びかけ、上九一色村に介入していきます。
そのような見せかけの裏で、オウム真理教の信者達の宿泊施設や工場が次々と上九一色村に建設されていきます。このオウム真理教の宿泊施設や工場がサティアンとよばれているものです。次に、上九一色村にあったサティアンの概要や特徴、オウム真理教撤退後のサティアンはどうなったのかについてご紹介します。
1989年より上九一色村にはオウム真理教の拠点の場となったサティアンが建築されました。
上九一色村周辺に作られたサティアンは第1サティアンから第12サティアンまであり、各サティアンごとに役割が分担されていました。これらのサティアンに数百名のオウム真理教の信者とその子ども達が暮らしていました。
オウム真理教が作ったサティアンのなかでも、一番有名なのは第7サティアンではないでしょうか。このサティアンはサリンを作る目的で建設されました。松本サリン事件や地下鉄サリン事件に使用するサリンはここから持ち出されたものです。
その他のサティアンについては、下記の通りです。
・第1サティアン サティアンビル
・第2サティアン 元麻原家の住居であり後に麻原の愛人の住居。死体を隠蔽するための焼却装置もあった。
・第3サティアン 作業場、倉庫
・第4サティアン 教団のビデオやアニメを制作
・第5サティアン 教団の印刷物をつくる工場
・第6サティアン 麻原家住居
・第8サティアン パソコン組立工場
・第9、第11、第12サティアン 自動小銃密造に関わる工場
・第10サティアン 信者の住居
サティアンは信者達が作っており、機能性だけを重視した無機質な建物でした。とにかく、ただ工場や倉庫の目的さえ果たせればよいと考えていたとのことです。住居についても、なるべくたくさんの人が入れればよく、快適な居住空間を目指す気持ちなどはなかったそうです。
サティアンの多くは、安価に建築できるプレハブ小屋であり、住居につかっていたサティアンも倉庫や工場と同様の建築建物だったようです。幹部クラスであっても2畳程度の個室しか与えられておらず、麻原家の住居も農協倉庫のような建物だったと言われています。
オウム撤退後、1996年、第7サティアン以外のサティアンは取り壊されました。そして調査終了後、第7サティアンも取り壊されます。
1995年にサティアンショップとよばれるオウムの歌のカセットやTシャツなどのグッズを販売する施設が日本全国につくられ、かろうじてオウムの名を残したものの、昔あったオウムのサティアンは現在跡形もなく消え去っています。
オウム撤退後の上九一色村につくられたのが、富士ガリバー王国というテーマパークでした。この富士ガリバー王国はどのようなものだったのでしょうか。次にご紹介します。
オウム真理教の影響ですっかりイメージが悪くなった上九一色村に、新潟中央銀行が融資を申し出ました。そのプロジェクトを受けて作られたのが富士ガリバー王国です。
面積は370,000㎡、東京ドーム6個分という広大な敷地内には、おとぎ話の「ガリバー旅行記を」に登場する小人のリリパット国をイメージした園が広がり、4mものガリバーがシンボルとして設置されていました。
1997年にオープンした富士ガリバー王国は「北欧村」、「スカンジナビア広場」、「ボブスレーランド」、「バルーンワールド」、「ふれあい牧場」など美しくて皆が楽しめるスポットがつくられました。
さらに周辺にはゴルフ場や高級ホテルも建設され、これでイメージアップがはかれるものと上九一色村は期待をかけていました。
しかし、オウム真理教のイメージはなかなか消えず、客足は伸び悩みます。富士ガリバー王国が作られたのはサティアンがあった場所から3kmほど離れた場所でしたが、世間では「元サティアンのあった場所」というイメージが定着していました。
そのため、上九一色村にオープンしたテーマパークと聞いても、上九一色村の名前から人々はどうしてもオウムの起こした悲惨な事件を思い出してしまうこととなり、富士ガリバー王国へ遊びに行きたいという気持ちにはなれなかったようです。
しかも、近くには「富士急ハイランド」があり、そのことも来園客が伸びない理由となりました。さらに、1999年に経営者であった新潟中央銀行が経営破綻し、融資を打ち切られてしまいます。そして、2001年、富士ガリバー王国はたった4年で閉鎖する運命となりました。
富士ガリバー王国閉鎖後、しばらくの間園内は放置されたままでした。残られた建造物の間には雑草が生い茂り、一時期心霊スポットとして騒がれたようです。その後、2004年、富士ガリバー王国の跡地には新たに「ドッグ・ラン」がオープンしました。
しかし、この「ドッグ・ラン」も上手くいかず、1年後の2005年に閉鎖してしまいます。現在、富士ガリバー王国跡地に残っていた建造物は全て撤去され、「富士ヶ嶺公園」という静かで美しい公園となっています。この公園内にある、オウム真理教の信者リンチ殺人事件のために命を落とした人達の慰霊碑が、唯一当時の事件の面影を伝えているだけです。
周辺のゴルフ場やホテルは「富士クラッシック」として生まれ変わり、富士山のもとで休日を楽しめる場所となっています。
今回は、上九一色村の現在について、オウム真理教との関係性も含めてご紹介しました。オウム真理教のために悩まされた上九一色村でしたが、現在は存在していません。しかも、ここはは富士山の近くであり、非常に美しい景色に恵まれた土地であったにもかかわらず、オウム真理教の悪イメージのために、テーマパークとしての開発には苦戦したようです。今は、新しい形のリゾート地として、生まれ変わっています。今後、この土地に住む人々が静かに平和に暮らせるよう願っています。
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