松本知子と子供の現在!今でもオウム教団との関わりはある?

    オウム真理教の教祖である麻原彰晃(松本智津夫)の死刑が2018年7月に執行されました。その妻である松本知子は現在松本明香里に改名して暮らしています。松本知子は、教団の幹部の一員として事件に関与が疑われていました。現在も教団との関わりはあるのでしょうか。

    松本知子はどんな人?

    平成が幕を降ろそうとしている今、平成を振り返る上で、決して避けられない事件があります。松本サリン事件や地下鉄サリン事件など、多くの死者・負傷者を出した凶悪犯罪を起こした新興宗教団体「オウム真理教」を覚えているでしょうか。

    新興宗教団体「オウム真理教」の代表であった麻原彰晃こと松本智津夫と出会い、その人生に巻き込まれていく女性がいました。それが、麻原彰晃の妻である松本知子です。

    松本知子はどんな人物なのか?これまで、どんな人生を辿り、現在はどうしているのか?松本知子に焦点を当てて、調査しました。

    松本知子のプロフィール

    • 本名(ふりがな):松本知子(まつもとともこ)※現在は松本明香里(まつもとあかり)に改名
    • ホーリーネーム:マハーマーヤ正大師/ヤソーダラー正大師
    • 生年月日:1958年8月17日
    • 現在の年齢:60歳
    • 出身地:千葉県木更津市
    • 血液型:B型
    • 身長:不明
    • 体重:不明
    • 活動内容:1987年9月にオウム真理教へ入信。「薬剤師リンチ殺害事件」に関与したとして1995年に逮捕・起訴される。2002年10月15日出所。
    • 関係した事件:薬剤師リンチ殺害事件
    • 家族構成:夫(死没)・子供2男4女

    松本知子と麻原彰晃の出会い

    松本知子は、両親も祖母も教師という厳格な家庭の育ちます。中学校では、生徒会の副会長となり、進学校の千葉県立木更津高等学校に通います。しかし、大学受験に失敗し、浪人生として、代々木ゼミナール代々木本校に通い始めました。

    予備校の隣の席になった麻原彰晃と、電車の中でも遭遇します。麻原彰晃より、「結婚は、前世からの約束だった。」と口説かれます。松本知子は、初めは「前世の記憶なんてない。馬鹿みたい。」と全く相手にしませんでした。しかし、根強いアプローチに負け、交際が始まります。

    1978年に、第一子となる長女の妊娠が発覚しました。結婚には、松本知子の親が大反対します。しかし、二人は親の反対を押し切り、駆け落ち同然で入籍しました。

    松本知子の性格は?

    厳格な家庭で真面目に育ってきた松本知子の性格は、プライドが高く神経質だったといいます。また、子供達への愛情より、麻原彰晃への執着が強かったようです。

    オウム真理教の前身である「オウム神仙の会」の活動当時は、麻原彰晃は漢方薬局やヨガ教室を開いていた頃で、まだ宗教的な活動は目立っていませんでした。松本知子は三人の女の子を産んでおり、千葉県船橋市の小さい家での生活は、大変苦しいものだったそうです。

    麻原彰晃は薬事法違反で逮捕されたのをきっかけに、次第に宗教へのめり込んでいきます。修行と称して道場に入り浸るようになり、家に戻らなくなります。その一方で、松本知子は精神を病んでいきました。精神葛藤の末、神経症を患い、対人恐怖症・外出恐怖症・強迫精神症が酷くなっていきました。

    夫・麻原彰晃と松本知子の関係性は、次第にいびつなものとなっています。松本知子は、精神の不安定さが加速し、家の中で怒鳴ったり、夫婦喧嘩の末、家出をすることもありました。

    しかし、家を出るにも行く当てがなかったのか、家を出ると啖呵を切っても、家の中をウロウロするだけだったこともありました。また娘達は、母親よりも父親を慕っており、母親の家出に付いていく子供はいなかったそうです。

    この頃の松本知子は、精神が不安定な中で、妻や母親の役割を担える状況では、なかったのかもしれません。

    松本知子の子供は?

    松本知子は、夫・麻原彰晃との間に4女5男の子供を授かりました。子は親を選べないと言いますが、まさに生まれながらにして、激動の人生を辿ることとなります。父親と母親が逮捕され、一家離散となった松本家。

    麻原彰晃と、松本知子の子供として生まれた子供達の生きてきた道は、どのような人生だったのでしょうか。子供達のこれまでの成長に、焦点を当ててみました。

    長女(松本美和)

    1978年生まれ。ホーリーネームは、ドゥルガー。教団内での地位は、正悟師で下から数えて3番目と、血族内では地位が低いようです。役職は、流通監視省大臣で食事や衣類の管理をする担当者のようです。

    長女でありながら、オウム真理教内で地位が低かった理由について、母親である松本知子が、長女を毛嫌いしており、全く関心がなかったとの噂があります。また、本人も兄妹間で冷遇されていたことを証言していました。

    長女は、オウム真理教が解散あとには、教団には関わらずに、弟子達と全国を点々としていたそう。しかし、当時から重い精神疾患を患っていたこともあり、結局は1人で車中生活をしていました。仕事もなく、住む場所もなかったようです。

    2000年4月には、交通事故を起こした際、車中に立てこもり、ナイフを所持していたことから、銃刀法違反で逮捕されます。翌年2001年1月には、スーパーで2万2千円相当の食料品を万引きし再度逮捕されました。

    それ以降は、何も報道はありませんが、オウム真理教とは完全に関りがない生活をしており、関東に1人暮らしをしているとの噂があります。

    次女 松本宇未

    1981年生まれ。ホーリーネームは、カーリー。父親には、カーリーちゃんと呼ばれ、愛されていたようです。しかし、教団内での地位や、役職については、明らかになっておりません。

    現在は、SNSにて自身で情報発信を行っています。松本未宇という名前は、SNSで自身が名乗っている偽名であり、本名ではありません。イラストが得意なようで、自身のブログでは、姉弟のエピソードを漫画にして紹介されています。

    特に三女との絆は深いようで、三女と共に2000年に弟(長男)を長女の元から誘拐しようとし、逮捕され保護観察処分となったとの報道がありました。これが原因ともなり、次女は、三女派との報道もありました。現在、三女と弟(長男)とは連絡を取り合っているようです。

    三女 松本麗華

    1983年生まれ。ホーリーネームは、アジタナーター・ウマー・パールヴァティー・アーチャリー。父親からは「遊びの女神」と呼ばれていたとのこと。麻原彰晃とは、一緒にエジプトやインドにも訪れています。麻原彰晃の愛情を、一番強く深く受けていたのではないでしょうか。

    オウム真理教の中では、若干11歳で正大師という地位を与えられます。この地位は、母親である松本知子や、麻原彰晃の第一の愛人であった石井久子と同じとなります。役職は法皇官房長官を就任しました。報道が過熱した当時、取材陣に対して生意気な態度が、よく話題になっていました。

    松本麗華に関した報道も多く出回り、麻原彰晃の子供達の中で、一番世間に名前と顔を認識されていました。彼女は両親逮捕された当時、小学生でしたが、それまでも小学校に通ったことがなかったそうです。義務教育を受けられない環境下だったのは、衝撃的です。

    両親の逮捕後に、しばらくは教団内に留まります。教団の大人達に祭り上げられ、教団から出て行く人間を食い止める為、観念崩壊セミナーを主催。最初は、遊び半分でやっていた内容が過激化し、多くの重傷者を出す事態となります。自身も精神を病み、次第に教団と一線を置くようになりました。

    最近では、テレビでのインタビューで、本名・顔出しで答えてるなど話題になりましたね。SNSにて活発に意見や情報発信を行っています。また、次女とも結びつきが強いようで、次女のSNSにはよく名前が上がります。

    四女 松本聡香

    1989年生まれ。ホーリーネームは、不明。本名も不明で、松本聡香は仮名となっています。富士宮市に建てられた教団施設で生まれました。その為か、生まれながらに神秘的な力を授かっているとされ、地位は麻原彰晃に次ぐ高さの正報師でした。寵愛を受けていた三女よりも地位は高かったようです。

    また、役職もあり謀報省の大臣まで与えられていました。役職については、あまりにも幼い年齢だった為、実質には井上嘉浩が取り仕切っていました。何にせよ、オウム真理教の希望を一身に背負っていたのでしょう。

    その後、両親の逮捕後に一家離散し、学校から入学拒否を受けたり、学校に通うようになっても、同級生からは暴言や暴力などのイジメに合い、教師からも差別的発言を受けていました。また、住んでいた地域住民からも、退居を要求されるなどの被害に合っています。

    事件後にしばらくしてから、姉弟と一緒に生活していた時期や、松本知子が出所後には、母親と暮らしていた時期もあったようですが、教団との影がちらつく生活に嫌気がさし、家出を度々行ったそうです。その後、ジャーナリストである江川紹子さんが未成年後見人となり、家族とは完全に縁を切ることになります。

    しかし、江川紹子さんの力を借り、家族や教団との関係を断ち切りたいと望んでいながら、教団関係者との接触を行いました。何度か接触があり、新しい教団の立ち上げまで話が進んだこともあり、次第に教団の人達と過ごすことが多くなりました。

    以降、松本聡香は江川紹子さんの元を去り、江川紹子さんは後見人制度を辞退しています。今度は、教団関係者とも上手くいかなくなり、三女に連絡を取り身を寄せるも、また上手くいかずに、1人でネットカフェで寝泊まりをしたり、ホームレスの経験もしたようです。現在は、1人で生活しているようです。

    長男(名前不明)

    1992年生まれ。ホーリーネームは鏡暉リンポチェ猊下。初めての男児誕生となり、後継者としての称号である皇子・猊下を与えられます。麻原彰晃が逮捕された後、1996年6月に一度、教祖という立場になったようです。

    しかし、血族だけという理由で崇められることが無くなり、教団施設から離れた場所で生活することとなります。しかし転居先では、学校への入学が許可されないなど、とても大変な思いをされていたようです。やっと、入学を許可してくれた学校が見つかりますが、多くの報道陣が学校に集まり、騒動となりました。

    2014年には、アーフレに対して、自身の名前と写真を教団活動に使用されたとのことで、訴えを起こしましたが、敗訴となっています。その理由が、教団内で教祖クラスしか参加できない儀式に、長男が参加していた事実があるとのことでした。

    また、2018年にはテレビ東京の番組内にて、自身がまだ教団と繋がりがあり、教団の次期トップと表現されたとして裁判を起こしましたが、全面棄却されています。度々、裁判を起こしては、オウム真理教に関する団体に対して、自身の関りが無いことを主張しています。

    次男(名前不明)

    1994年生まれ。ホーリーネームは璽暉リンポチェ猊下。長男と一緒に、1996年6月に教祖という立場になります。しかし兄と同じく、教団から出て行くこととなり、茨木県に移り住むことになりました。小学校は、1年生は1カ月しか通えずに、2年生からスタートとなりました。

    現在は、母親の松本知子に一番近い家族のようで、一緒に生活をしていたとの噂もありました。

    麻原彰晃について

    松本知子と結婚した後、オウム真理教を生み、恐ろしい教団へと成長させていったのは、麻原彰晃こと松本智津夫です。

    なぜ、麻原彰晃はそこまで多くの人を引き付けることができたのか?どんな人間で、どんな人生だったのでしょうか?その人生を振り返りながら、妻・松本知子との関係性の変化について調べてみました。

    麻原彰晃の生い立ち

    1955年3月2日に、熊本県八代市にて9人兄弟の第7子として生まれました。生まれつき、緑内障を患っており、左目は見えずませんでしたが、右目は1.0の視力がありました。兄二人と一緒に、全寮制の盲学校に入れられます。このことが、麻原彰晃にとって親に捨てられた記憶となっています。

    麻原彰晃は片目が見えていたので、盲学校では態度が大きく、恐喝や暴力事件も起こしています。また、当時から人の上に立ちたいとの思いがあったようで、児童会長や生徒会長、寮長などに立候補するも、ことごとく落選します。

    高校後の進路については、医者になりたいと志しますが、視覚障害者は医師免許が取れないとのことで大学は諦め、高等部専攻科へ進み、鍼灸師の免許を取得しています。1975年に盲学校を卒業時、東京大学の受験を目指して上京しましたが、すぐに地元の熊本へ戻っています。

    再度1978年に、東京大学の受験をする為、上京しました。代々木ゼミナールに入学。そして、妻である松本知子と出会っています。結局は東京大学の受験を諦め、妻と共に鍼灸院や漢方薬局を開業するも、失敗します。また当時は、保険費の不正請求や薬事法違反などで、逮捕されています。

    鍼灸でも漢方でも、人が助けられないと思い、次第に宗教思考に傾いていきました。1982年は、経営塾などを開いていた西方祥雲に弟子入りを志願したり、阿含宗に入退するなど、かなり迷走します。しかし、1983年に超能力開発を行う学習塾を開講します。
    これが、オウム真理教の前身となっています。

    自身もその世界に没頭し、妻である松本知子との間に距離ができるようになっていきました。その反面、学習塾が新興宗教団体へと変貌を遂げる中、順調に信者は増えていきましす。雑誌でも取り上げられたり、テレビ番組にも出演するなどして、オウム真理教の社会的知名度を上げていきました。

    麻原彰晃と地下鉄サリン事件

    教団のトップだった麻原彰晃は、日本転覆や世界征服を目論み、頭脳明晰な信者達に、教団内で多種多様な兵器を開発させます。そして、サリンに注目をし、サリン製造を指示しました。まずは、実験台として松本サリン事件を起こし、死者7名を出しました。

    地下鉄サリン事件に関しては、教団へ強制捜査が入るのを制止する為に、実行されたと、実行犯だった信者の証言が得られています。ポツリヌストキシンの製造も行っていますが、散布実験に失敗しており、確実性を狙いサリンを使用することを決定しました。

    麻原彰晃の指揮のもと、1995年3月20日午前8時頃のラッシュ時に、地下鉄の丸ノ内線・日比谷線・千代田線に、神経ガス・サリンの液体が入ったビニール袋を持った信者が乗車し、ビニール袋を傘の先で破裂させ散布しました。乗客・駅員のうち、死者13名・負傷者6300名を出し、最悪の事態を招くこととなりました。

    このことは、世界中を震撼させるニュースとなりました。同時多発テロが初めて起こった事件であるともいわれています。この事件に関与し、逮捕されたオウム真理教の信者は40名となります。

    麻原彰晃の逮捕から死刑執行まで

    麻原彰晃が逮捕されたのは、1995年5月16日に、山梨県西八代郡上九一色村の教団施設内にて潜伏している所を、逮捕されました。麻原彰晃は裁判中に、「死刑になっても構わない」「早く死刑を執行しろ」と大声で訴える場面もありました。

    しかし、2002年2月25日の公判をもって、麻原彰晃は一切何も話さなくなりました。以降は、糞尿をたれ流したり、奇声を発したり、裁判中であってもマスターベーションを行うなど、異常行動がみられるようになりました。

    しかし、面会を行った人物は、この見解についても、詐病であり精神異常なフリをしているだけとの見解が強くあり、裁判でもあまり論点にはなっていません。

    1998年2月に39.8度の高熱をだして以降は、異常な言動もなくなり、車いす生活となっています。死刑判決が確定後も、衰弱の一途を辿りました。2018年7月6日に死刑執行となりました。

    死刑反対派の意見も

    地下鉄サリン事件で、実際に死刑判決を受けたのは、麻原彰晃を含む合計13名でした。平成30年7月6日に、麻原彰晃を含む7名に刑が執行され、同年7月26日に他6名も刑が執行されました。これは、戦後最大の死刑執行人数になります。

    地下鉄サリン事件で犯した罪の重さや、被害に遭われた家族の思いを考えれば、死刑判決は妥当でありという声は勿論多くありました。しかし、その一方でこの死刑執行に対して、疑問を呈する人や死刑反対派の意見もありました。

    その理由に、麻原彰晃の口から真実が何も語られていないということです。また、麻原彰晃が死刑執行時に衰弱状態であったことから、法律違反ではないかと見解を示した弁護士もいました。一斉に13名の死刑執行が行われたことにも、疑問を呈している人もおり、政治的な働きかけがあったとの見解を示す人もいます。

    麻原彰晃の女性関係は?

    麻原彰晃が教団内に多くの愛人がいたのは、有名な話です。妻である松本知子がいながら、平気で愛人を囲い、肉体関係も修行と称していた恐ろしい男です。

    愛人達と、正妻であった松本知子との関係性についても調べてみました。

    麻原彰晃と石井久子の関係

    石井久子は、麻原彰晃にとって初めての愛人となります。最初は、会社の同僚に誘われて、超能力学習塾に入会しました。それ以降、徐々にのめり込んでいき、オウム神仙の会に変化していき、出家制度ができると、会社勤めを辞め、出家しました。

    妻である松本知子よりも早くに、オウム真理教へ入会しています。オウム真理教の土台を、麻原彰晃と共に築いていき、教団内で麻原彰晃の身の回りの世話をしていたのが、石井久子でした。

    教団管理番号な00001番で、かなり早い段階で正大師となっています。また教団内での役職は、金銭の管理を任される大蔵省大臣でした。それだけ、麻原彰晃にとって、石井久子に絶大なる信頼を置いていたのでしょう。

    見た目も、大変美しい女性でした。オウム真理教の広告塔となり、メディアへの露出も多く、綺麗な女性であることから、注目度も高く、オウム真理教が社会的な知名度を上げていく一旦を担っていました。

    しかし、この関係を正妻である松本知子は、勿論知っていました。度々、松本知子は麻原彰晃と石井久子との関係に対し、怒りを表しては、麻原彰晃を殴ったり、包丁を振り回すなど暴れることもありました。松本知子は、石井久子とも度々喧嘩を起こしています。

    石井久子も麻原彰晃との間に、3人の子供を産んでいます。3人とも私生児として届けを出しています。松本知子が松本智津夫の妻であり、石井久子は麻原彰晃の妻だったといえるのかもしれません。

    石井久子も様々な事件に関与しており、服役していました。出所後には、やはり精神を病んでいた姿を目撃されています。現在は、父親と一緒に生活しているようです。

    麻原彰晃は複数の女性と関係を持っていた

    麻原彰晃は大の女好きであり、本人にもその自覚があったと信者は証言しています。教団内での愛人の数は、100人を超えるとされていました。その女性達は、ダーキニーといわれており、ホーリーネームにも使われています。

    その女性達は、富士山総本部の第1サティアンと旧上九一色村の第2サティアンに囲っていたようです。肉単関係のことを左道タントライニシエーションと呼ばれており、修行の一環としていました。

    入信時に写真選考を行い、麻原彰晃のタイプの女性は、面接を受けて、ダーギニーに入り、麻原彰晃との肉体関係を持つこととなります。麻原彰晃は、黒髪のロングヘアーを好んでおり、処女であることがダーギニーに入る条件とされていました。妻である松本知子も、愛人の石井久子も、黒髪のロングヘアーでした。

    多くの愛人を囲っていた麻原彰晃は、「妻(松本知子)にバレたら殺される」と言っていたようですが、松本彰晃が愛人たちと性交渉を行っている間、部屋の外で松本知子はその前を右往左往としていた様子が目撃されており、松本知子は、事実を認知していたようです。

    松本知子とオウム真理教の関係

    松本知子は、オウム真理教に入信して以降、オウム真理教を麻原彰晃と一緒に牛耳るようになっていきます。松本知子が、オウム真理教内でどのような立場だったのか調べてみました。

    幹部として麻原彰晃の補佐

    松本知子がオウム真理教に入所したのは、比較的遅く1987年9月に入信します。この頃、超能力学習塾が順調に成長し、信者が増えたことで、生活も経済的に楽になってきました。また、麻原彰晃は、信者から尊師と呼ばれるようになり、松本知子も次第に洗脳されていったのかもしれません。

    松本知子は、オウム真理教へ入信後、教団を大きくしていくことに尽力していきます。翌年1988年には、静岡県富士宮市に家族で移住をしており、地位が大師から、1989年10月に正悟師、1991年6月には、石井久子・次女(松本麗華)に続き、正大師になりました。

    出版事業を行っていた株式会社オウムの社長を務め、教団内での役職は、出版物の管理を行う郵政省の大臣となりました。

    一見順調になり始めたように見えた夫婦関係ですが、麻原彰晃の女性関係に悩み、再度精神が崩れていくこととなります。

    教団幹部の前で、尊師と崇められている麻原彰晃に、暴言を吐いたり、暴力を振るうこともありました。また、麻原彰晃に可愛がられていた女性信者と喧嘩をしたり、他の幹部信者に恫喝をするなどし、非常に厄介者扱いをされていきます。

    松本知子の逮捕から出所まで

    そんな中で起こった事件が、1994年1月30日に「薬剤師リンチ殺人事件」です。元信者とその家族が、オウム真理教の富士山総本部にいた女性を救出しようとし、元信者2名が内部へ侵入しました。そこを、信者に取り押さえられてしまい、侵入した1人を、もう1人に殺させるという、非常に極悪で残忍な事件が起こりました。

    この事件は、オウム真理教が起こした殺人事件で、唯一麻原彰晃が立ち会った殺人事件とされています。しかし、この事件が起こった時に、侵入した2名をどうするか、麻原彰晃を含めた、教団の幹部で話し合いが行われました。その時に、松本知子が発言をしたか、していないかが裁判での争点となりました。

    松本知子は当時、妊娠していましたが、精神状態が不安定だった為、独居房に入れられていたそうです。しかし、その話し合いの時にだけ出されて、話し合いが済むと直ぐに独居房に監修されたそうです。

    なぜ、松本知子を立ち会わせたのかについて、弁護側は「松本知子が教団から出て行くことがあれば、麻原彰晃は自分の妻の精神コントロールもできないと、威厳を失ってしまうことを恐れ、自分の権力を松本知子に見せつけ、恐怖を植え付けようとしたのではないか。」と弁護しました。

    裁判では、その話し合いの場で、全く発言をしていないことを主張していたが、その話し合いにいた、幹部信者の杉本繁郎や井上嘉浩の証言により、検察側は松本知子の主張に反論。最高裁にて、遺族への謝罪と賠償を理由とし、懲役6年の実刑判決となりました。

    和歌山刑務所で刑期を終えて、出所しました。また、出所後には、家庭裁判所へ申し立てを行い、松本知子から松本明香里(まつもとあかり)へ改名を行っています。

    松本知子とアレフ

    松本知子は、出所後にオウム真理教団体とは一切関りを持っていないと見られていました。オウム真理教は、2000年2月に破産が原因となり、教団自体が消滅しました。それと同じくして、信者達も新しい宗教団体を創設し、アレフ・光の輪・山田らの会と別れていきました。

    2006年にアレフの信者が起こした事件で、アレフに家宅捜索が入った際に、アレフから絵画使用料として月々40万円が支払われていたことが発覚します。それは、2002年12月から開始されていたようで、アレフ側も認めています。実際に、その内容ははっきりしなかったようです。

    2007年の報道によると、元教団信者より住居提供や1000万円もの生活資金提供を受けており、かなり裕福な生活をしていたようです。これらのことから、まだ教団との繋がりが非常に深いとみられるようになりました。

    松本知子の子供たちの現在

    松本知子の子供は、紹介したように6人の子供達がいます。親によって、幼いながらに人生を奔走し、生き抜いてきた子供達。父親の次に、松本知子も逮捕された後、大変な苦労もあったと思います。現在どうしているのか、調べてみました。

    三女の進学先

    教団内で生活をしていた時も、小学校には通っていませんでした。オウム真理教に最後まで取り残されていた松本麗華は、身の回りの世話をしてくれていた女性信者と共に、福島県に移り住みました。

    当時、中学校2年生の松本麗華を受け入れてもらえる学校を探しますが、学習判断テストで小学校5年生のレベルでしかありませんでした。また、どこの学校も受け入れを拒否されてしまいます。通信制で勉強を始めることとなります。

    かなりの努力家であり、頭もよかった為、日出高校の通信制を受けた後、2004年3月に和光大学に合格しました。しかし、ここでも入学拒否をされます。和光大学を提訴し、大学は40万円の慰謝料の支払命令を受けています。

    後に、2004年に文教大学人間科学部臨床心理学科に合格し、入学ができました。大学では、心理学を学びます。2008年に卒業。現在、日本産業カウンセラー協会や日本人間性心理学会に所属しており、講演会などの活動を行っています。

    次男の進学先

    偏差値の高い難関中学校である、春日部共栄中学校を受験し、合格しました。しかし、ここでも入学を拒否され、損害賠償請求を起こしました。裁判の判決や、中学校の進学についての情報はありませんでした。しかし、大学まで進学をされたようです。

    麻原彰晃の子供の出版物

    麻原彰晃と松本知子の子供達の中でも、三女と四女は共に、著書を刊行しています。それぞれ、自分達が育ってきた環境から見た父・麻原彰晃と、母・松本知子、そしてオウム真理教について語られている内容となっています。

    また、この二人の著書の内容が、相反する見解を示していることも、特徴的でした。互いが、互いの内容を否定する発言もあり、世間の注目を再度集めることとなりました。

    三女 松本麗華の出版物

    2013年にはSNSを開始しており、2015年に著書「止まった時計 麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記」が出版されまたした。実名と顔出しをしてメディアのインタビューに答えるなど、一時は大変話題となりました。

    本が出版されたのは、地下鉄サリン事件から20年目の日でした。著書の内容では、松本麗華は、麻原彰晃を「大好きな父」と表現されていたことに対して、世間からかなりのバッシングをうけました。

    彼女にとって、父親は優しくて、偉大な存在だったことをストレートに伝えた内容だった為、批判が集中します。また、内容に「謝罪」がないとのことも焦点となりました。

    四女 松本聡香の出版物

    三女よりも早くに、四女も本を出版していました。2010年にペンネームを松本聡香として、著書「私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか~地下鉄サリン事件から15年目の真実~」を刊行しています。

    著書の中で、父親である麻原彰晃やオウム真理教に対して、強く批判をしていることでも話題となりました。父親から受けた虐待の記憶や、教団施設での異様な生活が記載されています。また、教団解体後の壮絶なる生活なども語られていました。

    麻原彰晃の遺骨はどうなっているのか?

    麻原彰晃こと松本智津夫の死刑が執行されたのは、2018年7月6日でした。死刑執行後にニュース速報が流れ、特別報道番組が放送されたのも、記憶が新しいことでしょう。死刑執行後、東京拘置所前には、報道陣が詰めかけ、松本知子ら家族の誰が遺体を引き取りに来るのかと、注目されました。

    しかし、現在でも遺骨の引き取りは、行われていません。なぜ、遺骨の引き取りが行われていないのか?松本知子ら家族は、引き取りを希望しているのか調べてみました。

    麻原彰晃との面会

    当初繰り返し、麻原彰晃の元へ面会に行っていたのは、次女や三女でした。しかしながら、東京拘置所では、麻原彰晃が面会を拒否しているとし、面会ができなかったそう。しかし、麻原彰晃は1998年に高熱を出してから、急速に衰弱していったようで、面会時にも車椅子に座っており、言葉も発しませんでした。

    しかしながら、四女が面会にいった時には、面会ができたようで、短いながら言葉のやり取りを交わしたことを証言しています。四女は、このことから、麻原彰晃は詐病を偽っていたと確信したようでした。

    次女・三女と四女の対立

    三女と四女が刊行した本の内容も、対極でしたが、それぞれインタビューやSNSで発信する家族への思いが異なり、意見が真っ向から対立しています。

    家族の中で、特に次女と三女は結び付きが強く、二人とも父親を深く愛していたという印象を受けました。三女は、母親の松本知子に対しても、母親を支えなければいけないと思っていたそうですが、2017年に母親から縁を切られたことを、SNSに書き込んでいます。

    四女は父親だけではなく、母親の松本知子に対しても、強い憎しみを抱いており、2017年11月には、家庭裁判所に両親に対して推定相続人の廃除を申請し、認められています。また、松本知子には対して「産んでもらった恩はあるが、育ててもらった恩はない」と発言しており、家族の溝を感じます。

    麻原彰晃は遺体の引き取りに四女を指名した

    2018年7月6日、麻原彰晃が死刑執行される前に、警務官が遺体の引き取りは誰を希望するのかを聞かれた際に、四女を指名したとのことだったが、四女は遺体の引き取りを拒否します。また、このことが原因で、自身が教団関係者に狙われるのではないかと、危惧していました。

    ところが、ここで妻である松本知子と、次女・三女・長男・次男の5名が連名で遺体を引き渡しの要求書を提出しましたが、要望は受け入れられませんでした。

    遺体は、府中市内の斎場で火葬され、現在も東京拘置所に安置されています。四女は、今後、遺骨が教団で使用されたり、神化されることがないようにと、海に散骨したい思いを語っていました。

    松本知子と松本麗華(三女)との現在の関係性

    麻原彰晃が死刑執行前に、刑務官とのやり取りができる精神状態ではなく、警察側の虚偽であると、松本知子らは、主張しています。確かに、麻原彰晃と面会をして、全く話さずに、年老いて衰弱した状態を見ている家族は、信じられないのかもしれません。

    松本知子は、現在もアレフより資金援助を受けており、母親に一番近い存在とされている次男が成人した当初、アレフの教祖になる話まで出ていたようです。それを阻止しようとしたのが、松本麗華だったとの噂もありました。

    松本麗華についても、母親である松本知子に縁を切られたと発言していたにも関わらず、急に家族一致団結したのは、疑問となります。現在、公安が松本麗華をアレフの現職幹部として主張しており、それを取り下げるよう裁判を起こしています。この家族には未だ教団の影がちらついているように感じます。

    麻原彰晃の妻である松本知子としての人生

    松本知子は、麻原彰晃こと松本智津夫に出会い、結婚を決めた頃には、予想もしていなかったであろう壮絶な人生を歩んできました。

    しかし、松本知子は、まだ60代に入ったばかりです。麻原彰晃の遺骨の引き取りを巡り、ここで次女・三女・長男・次男との絆が戻ったのか、それが家族にとって良い方向に進めば良いですが、新たな負の連鎖が生まれないことを願うばかりです。

    また、血を分けた家族であるのなら、家族で争うことは辞めてもいいのではないでしょうか。夫・松本智津夫への思いも理解はできますが、世界中を震撼させた犯罪の重さを、その犠牲になった人達の無念を、今一度考えていただきたいと思います。

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