木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
ネグレクトとは、無視をする、ないがしろにするといった意味があります。日本では育児放棄を意味する言葉として使われています。大阪で、2児が餓死をしたという有名な事件がありました。
いわゆるネグレクト事件ですが、この事件について見ていきましょう。どんなに痛ましい事件だったかを知ることも大切なのです。
ネグレクト事件には被害者がいます。さて、一体誰が被害者となったのでしょうか。その詳細について伝えます。
大阪2児餓死事件、通称ネグレクト事件の被害者は、当時3歳だった女児・桜子ちゃんとその弟で1歳9か月だった男児・楓(そう)ちゃんの姉と弟です。発見時、既に2人の遺体は腐乱しており一部は白骨化していたとされます。
ここでは、大阪2児餓死事件の犯人である下村早苗がどういった人なのかについて、迫っていきます。事件の詳細を紐解いていく前に、犯人の人となりを見ていきましょう。
下村早苗は、大阪2児餓死事件の被疑者です。2人の実子を餓死させ死体遺棄をしたとして逮捕されました。逮捕当時、彼女は23歳でした。現在、下村早苗は服役中であり苗字を中村に変更しています。
服役中の下村早苗が同室だった女性と仲良くなり、その女性が出所後も文通等で交流をしていたのです。その女性は、女性の夫と共に下村早苗を養子とすることを決めたのでした。それによって、下村早苗から中村早苗へと変更しているのです。
事件後も、実父からは放任され続け下村早苗の身元の引き受けを拒否されたとされています。事件当時は、SNSのmixiが特定されその内容も公となりました。現在はmixiは閉鎖されてしまい、見ることはできません。
下村早苗は、三重県四日市市に生まれました。3人姉妹の長女だったのです。彼女が小学1年生の時に両親は離婚し、彼女と2人の妹達は父親に引き取られました。ただ、下村早苗はそれより前から母親に育児放棄されていたとされています。
正式に両親が離婚後も、父親と暮らすも父親が高校ラグビーの監督として有名であり、その仕事が忙しく、下村早苗が小学校3年生の頃に再婚しました。ところが、再婚相手の女性には実子がいて下村早苗達と明らかに差別していました。
後にまた父親は離婚しますが、それから父親はますますラグビーにのめり込み、家庭は疎かになったのです。中学校に入り、その頃には下村早苗は非行に走り家でを繰り返しますが父親が有名な指導者としてニュースに取り上げられ、その際に福澤朗に家に帰ることを促されたことがありました。
下村早苗は、東京の専修学校を卒業後に地元の日本料理店に就職しました。その店舗で大学生と出会い、2006年に19歳で子供を妊娠し結婚したのです。このお腹にいた子とその後に生まれる子供が、被害者となった2児です。
その結婚相手は、羽木直樹(もしくは羽根直樹の説も)といい、株式会社デンソーにおいて契約社員として働いていたとされています。しかし、難関とされる社員登用試験に合格し正社員になり働いていたという話もあります。下村早苗も、このことをブログで喜んでいたのでした。
下村早苗は、2007年5月に20歳になったすぐ後に長女・桜子ちゃんを出産しました。この子が、大阪2児餓死事件の被害者の1人です。初めのうちは夫婦仲も良く子育ても行政の子育て支援を受けたり近所にいる夫の親のサポートを借りて“理想”とまでいわれるほどの育児をしていました。
そのころについて、下村早苗は育児に対し何も悩みはなかったと振り返っています。本当は、普通に育児をこなしていたのであろうと推測されます。何かが転機となり、歯車が狂い幼い命を奪ってしまう結果を生んでしまったのかもしれません。
その後の2008年10月には、長男の楓ちゃんを出産しました。この楓ちゃんも、後に犠牲となっています。母親の身勝手さにより、1歳9か月という短い生涯を終えることとなってしまったのです。
しかし、楓ちゃんを出産した後から下村早苗に変化が現れます。他の男性と浮気をしたことと生活費が足りなくなり消費者金融から借金もしたのです。初めのうちは特段夫婦仲が悪いというわけでもなかったのですが、夫婦の間には溝が深くなり離婚をしてしまいます。
2009年の5月に、下村早苗は2人の子供を抱え家を出ました。慰謝料も養育費もなかったとされています。噂では、下村早苗よりも先に夫の方が浮気をしていたという話もあります。下村早苗は借金をしていたのですが、それでも構わずに夫はクラブで遊び高級外車を乗り回していたとされているのです。
そして離婚の際には、2児の親権についてどちらとも押し付け合って、結局は仕方なくといった感じで下村早苗が引き取ったという話もあります。離婚した元夫は、事件当時は実家に暮らしていて事件については何も語っていません。下村早苗と離婚してからは何人もの女性と遊んでいたようですが、現在は再婚し新たに家庭を持っているとされています。
ここで、大阪2児餓死事件いわゆるネグレクト事件の詳細について迫っていきます。この事件は一体どういった経緯で発生してしまったのでしょうか。真相に迫るために、細かく見ていきましょう。
離婚をした時には、実父とも関係が悪く実母も他に家庭を持っていました。実母は精神不安定であり子供を預けられる状態でもなかったとされています。そうして下村早苗は名古屋へと向かいキャバクラで働き始めました。
そのころ、元夫や実父には連絡をしていたものの、助けてはくれず拒否されてしまいます。行政に助けを求めるも、下村早苗はここでも助けてはくれないと悟ったのです。それから2010年に名古屋から大阪へと移り、風俗店の近くに託児所があったためそこに2児を預けようとするも、スタッフの子供への対応を不信に思い、こうしたところに預けるなら家に寝かせておいておいた方がまだ良いと感じたとされています。
下村早苗はそれから風俗店で働くようになり、ホスト通いもするようになりました。ホストと恋仲になり、その相手の家に入り浸るようになって子供の待つ家にはコンビニのパンやおにぎりといった食料を置いて再び家を出るといった生活をするようになったのです。そうして、子供をお風呂に入れることもおむつを替えることもしなくなりました。
2010年6月9日頃に、下村早苗は居間のドアに粘着テープを貼り玄関には鍵をかけ、自宅に子供達を閉じ込めて放置しました。食料のみをおいて出ていく下村早苗に、子供達は「バイバイ」と手を振り見送っていたとされています。
それから下村早苗は地元に帰り友達と遊んだり妹と会い、新しい恋人と会ったりして過ごしました。その様子をSNSにアップしたり、知人には誕生日祝いのメールもしています。下村早苗は、自宅に引っ越してきてから半年の間1度としてゴミを捨てていなかったとされています。
自宅に放置された子供達は、その後餓死してしまいました。7月29日に勤務先の上司に『異臭がする』と連絡を受け、下村早苗は50日ぶりに自宅へと戻ります。するとそこには、既に亡くなっている子供達がいたのです。
上司には『子供達を放って地元に帰った。怖くて帰らなかった。それから1か月ぶりくらいに帰ったら、こうなっているのは当然の結果』という旨をメールで話しています。
それでも下村早苗は、警察に通報することもなくまた交際相手と遊び続け、その晩もホテルに宿泊しています。そしてその翌日に、逮捕となったのです。我が子に惨いことをしたということに対し、現実逃避をしようとしたのでしょうか。
通常なら、この状況であれば遊び続けるなどできないはずです。下村早苗は、もうどうしようもないと思い、遊びに逃げたのかもしれません。
事件というのは、発覚はするものです。では、下村早苗が起こした大阪2児餓死事件はどの様にして発覚したのでしょうか。その点について見ていきましょう。
2010年7月30日の未明に、"マンションの一室から異臭がする"と下村早苗の職場の上司が通報したことから、事件が発覚したという話もあります。その通報を受けて、警察官が駆け付けて2児は変わり果てた姿で発見されたのです。
そうして、下村早苗は死体遺棄容疑で逮捕されました。ただ、遺体が発見されるまでの間に、児童相談所に“子供の泣き声がする”という通報が何度かあったものの、ネグレクトをされているということを知られずにいたのです。
こうして、誰にも知られることなく幼い桜子ちゃんと楓ちゃんは息絶えていったのでした。亡くなって1か月ほども経ってから、ようやっと2人は発見されたということです。
亡くなった桜子ちゃんと楓ちゃんの2児は発見されるわけですが、発見時にはどういった状況だったのでしょうか。その悲しい現場について見ていきます。
2児は6畳の居間で発見され、コンビニ弁当の空いた容器や生ごみ、おむつなどといった段ボール10箱に相当するほどの量のごみが、山のように積まれていてその隙間に姉と弟は寄り添うようにして倒れていたとされています。
2児の胃は空になっていて、何も食料がなくなっていたということがわかるでしょう。発見当時は、冷蔵庫に何もなかったのです。トイレにさえ行くことができなかったことから、遺体には排せつ物が付いていました。
2児は、発見時死後1か月から2か月ほど経っていると推定されています。そして、最初は死因は分からないとされていたものの、外傷が見られず胃の中には何も残っていなかったこともあり、餓死であると判断されたのです。
調査では、大体50日間もの間何も口にしていなかったものと推測されています。ベランダに放置されていたゴミには、ファストフードやお菓子を食べた形跡も見つかっていて、普段からこうしたものを与えられていたものと考えられるでしょう。
大阪2児餓死事件以外にも、育児放棄による悲しい事件が数々起こってしまっています。あってはいけないはずの事件ではありますが、他にはどういった事件がこれまでに起きているのかを、見ていきましょう。
苫小牧幼児死体遺棄事件は、北海道苫小牧市において起きた幼児遺棄殺人事件です。山崎愛美被告(当時21歳)が、当時1歳だった三男を自宅に放置し死亡させました。山崎愛美被告は、殺人や死体遺棄などの罪に問われたのです。
山崎愛美は、2006年10月の末頃から1か月ほど玄関に鍵がかけられた自宅(集合住宅)に、長男と三男を放置しました。その間には水も与えることなく、三男は悲惨にも亡くなり長男においても重度の衰弱状態となっていたとされています。
山崎愛美は12月の初め頃に自宅に戻りますが、三男の遺体を苫小牧市に住むその頃の交際相手の家にある物置に放置したのです。山崎愛美はスナックに勤務しつつ2児を育てていたものの、男性と付き合うのに邪魔になることや世話をすることが面倒になり、自宅に放置して死なせようと決めたとされています。山崎愛美には、懲役15年の判決が言い渡されました。
厚木白骨死体事件は、2014年5月30日に神奈川県厚木市でアパートの1室において死亡当時5歳の斎藤理玖(りく)くんの白骨化した遺体が発見されたという事件です。遺体は身長が1メートルほどであり、性別が判別できないほど白骨化が進んだ状態だったとされています。
理玖くんは、2006年10月から2007年1月の間に衰弱により死亡したと見られています。要するに、発見されるまでに相当な期間が空いていたということです。トラック運転手をしている父親の斎藤幸裕容疑者が保護責任者遺棄致死の容疑で逮捕されました。
斎藤容疑者は、2001年5月に当時の妻と共に転居してきました。そのすぐ後で理玖くんが誕生しましたが、2005年に斎藤容疑者のDVが原因で妻は出て行ってしまいます。すると、斎藤容疑者は他の女性との交際をスタートさせ、理玖くんへのネグレクトが始まったと見られているのです。斎藤容疑者が、亡くなる前に生きている理玖くんを見たのは、理玖くんが亡くなる1週間ほど前だったとされています。
大阪府茨木市では、2014年6月に父親から『娘が息をしていない』と通報があり事件が発覚しました。3歳の女児が遺体で発見されましたが、その父親は血縁関係ではなく再婚した母親の連れ子でした。
女児の体重は平均の半分ほどしかなく、骨が浮いているほどに痩せていたのです。しかも、体内からは玉ねぎの皮やアルミ箔、ろうそくなどが見つかりました。食べるものがなく、何とか生きようとして食べたものと考えられます。
以前より、近隣住民には女児が真冬に裸足で外に立っている姿や、ベランダの手すりにテープで手を固定されている姿が目撃されていたのでした。日常的に虐待されていたのでしょう。
ネグレクトの事件が、どうして起こってしまうのかについて考察してみましょう。一体どういったことが要因となるのか、それが分かっていれば事件が起こるのを少しでも防げるのではないでしょうか。
今回のメインテーマである大阪2児餓死事件の加害者である下村早苗の場合もそうですが、虐待で事件となるケースでは自分が幼少期に虐待を受けていたという場合も多いかもしれません。
それは、自分が虐待を受けていたことで親から愛されることを知らずに、自分も親になった時に自分の子供をどの様に愛すれば良いのかが分からないというパターンが多いように見受けられます。これも負の連鎖と言えるでしょう。
通常の家庭で愛情を受けて育てば、虐待というものの実態を知らずに済むでしょうし、大人になっても自身の子供にも自身が受けたような愛情を注げますし、虐待をすることはないかもしれないと考えられます。やはり、自身がどういった家庭環境で育ったかがカギを握るということです。
育児をしていれば、悩みもあるでしょうし助けて欲しくなることもあります。まして、下村早苗の場合は年若い母親なのです。前述していてもいますが、下村早苗も育児についてSOSを送らなかったわけではありませんでした。
離婚した前の夫や実父にも連絡をしていたものの、下村早苗が具合が悪くても助けてはくれなかったのです。長男である楓ちゃんの誕生日にも、誰からもお祝いのメールは来なかったともされています。
泣きながら市役所に相談すると児童相談所の電話番号を教えられたものの、それでも頼りにはなりませんでした。それっきり、行政を頼りにはしなくなったのです。他の虐待事件でも、もっと行政や児童相談所がきちんと介入していれば、と思われる事件が多いかもしれません。そうすれば、虐待によって命を落とす子供もいなくなると考えられます。
下村早苗の場合もそうですが、1人で子供を抱えて孤独にあえいでいる時に、異性などとの出会いがあるとその相手にのめり込み、子供の存在が邪魔であったり疎ましく思えてきてしまうという事例も、他にもあるかもしれません。
その相手との付き合いに、子供が邪魔になってしまうのです。“この子がいなければもっと遊べるのに”と思ってしまうのでしょう。恋などをしてはいけないというわけではありません。
恋をしたとしても、自分が母親なり父親であるという自覚をしっかり持たなくてはいけないのではないかと考えられます。第一番に優先されるべきなのは、子供であるはずなのです。
最後に、下村早苗の起こした大阪2児餓死事件の裁判について迫っていきます。どの様に裁判が行われ、判決が出たのでしょうか。その経緯を見ていきましょう。
下村早苗は、逮捕後に5か月間ほど鑑定留置の期間中に精神鑑定を受けました。その際に刑事責任能力に問題はないと見なされたため、大阪地検に殺人罪として起訴されたのです。また、死体遺棄容疑については不起訴処分となっています。
検察側については、下村早苗が最後に家を後にした際に冷蔵庫に食べ物がなかった点や、2人の子供が衰弱しているのを自身が見ていた点から、下村早苗には殺意があったものとして無期懲役を求刑しました。
下村早苗の弁護側については、下村被告自身も幼少期に虐待を受けたということが影響していたとして、子供への殺意はないものとし保護責任者遺棄致死罪程度に留まるとしたのです。下村早苗は、「今でも子供を愛している」と語ったとされています。それでも、下村早苗のしたことはネグレクトでも度を越しており、殺人罪に問われました。
下村早苗は、2012年3月16日に『未必の殺意』があったものと認め、大阪地裁に懲役30年の実刑判決を受けました。2012年12月5日にも、大阪高裁でも命の危険もある状況において、放置すれば亡くなってしまうと分かったはずということで、一審判決を支持して下村被告側の控訴は棄却されたのです。
この裁判は最高裁まで争われて、2013年3月に懲役30年が確定しました。それからは、事件の起きたマンションでは毎月1回住人の交流会がもたれています。これは、この痛ましい事件を風化させないようにということでしょう。
下村早苗は、逮捕後に行われた取り調べや弁護士との接見において大事な記憶やその当時の自身の気持ちを覚えていないだとかあいまいだと話したとされています。これを弁護側は重くみて、裁判において下村早苗の精神鑑定を申請したのです。
精神鑑定をしてみると、酷くはないものの解離性障害があったと診断されました。この診断は、事件を解明するにあたりカギとなるものです。解離性障害は多重人格でもあり、子供のころに現実から目を背けたくなるほどの虐待を受けたことで起きます。
その虐待を受けた現実から自身を守ろうとして、他の人格が生まれ元の自分の苦痛を新たな人格が引き受けるのです。現実感がなかったり記憶障害が起きることがあるのが特徴となっています。もし下村早苗にもこうした症状が実際にあったとすれば、これがネグレクト事件を誘発したのかもしれません。
下村早苗の大阪2児餓死事件は映画化もされています。2013年公開の『子宮に沈める』という作品です。大阪2児餓死事件をリアルに描いていて、事件の凄さが浮き彫りになっているでしょう。
この事件の他にも、苫小牧幼児死体遺棄事件も基になっているようだという意見もあります。幼い子供達が亡くなった事件の悲惨さを胸に刻むためにも、一度鑑賞してみるのも一案かもしれません。ぜひ、世の中の親御さんに観ていただきたいような映画となっているのです。
監督や脚本は『終わらない青』や『体温』の緒方貴臣が務めました。社会問題でもある、ネグレクトをテーマとしていてどうして育児放棄をすることになったのか、それまでの母親の心理について描いています。同映画は、不定期により現在も上映していますので、足を運ぶのも選択肢です。
下村早苗の起こした大阪2児餓死事件によって、幼い2人の可愛い子供の命が奪われました。彼らはどんなにひもじくても、母親の帰りを待っていたのかもしれません。下村早苗自身も、子供の頃にネグレクトをされた経験がありました。その辛い気持ちは誰よりも分かるはずなのです。
しかし、ネグレクトをした人は自身の子供にもネグレクトをしてしまうことがあります。あってはならないことですが、こうした事件は繰り返されているのです。自身の育った環境に難があったとしても、生まれてきた自身の子には何の関わりもないことではないでしょうか。
子供を疎ましく思ったり、育児に悩むことがあっても親になったからには責任を果たさなければいけません。どうにもならなくなったらきちんと助けを求め、1人で抱え込まないことが大事でしょう。今回の事件にしても、助けを求めても頼りにならなかったというのは、行政や機関の問題もあるのかもしれません。
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ネグレクト事件とは、2010年に発生した大阪2児餓死事件のことを指します。大阪市西区のマンションにおいて母親の育児放棄により子供が餓死した事件です。