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2024/02/16
himawari3232
財津一郎さんは「ピアノ売ってちょうだ~い」のセリフで有名なタケモトピアノに出演されている人物として多くの人から親しまれています。
タケモトピアノの印象が強い財津一郎さんですが、『3年B組金八先生』に出演する俳優であったり、吉本興業に入り芸人として活躍したり、またあるときは歌手としても活躍されるなど多様な才能に恵まれた人物で、幅広く活動されていました。
そんな財津一郎さんの姿は現在タケモトピアノのCM以外では見られないですよね。財津一郎さんは現在も芸能活動を続けられているのか調べてみました。また一部では病気にかかっているとの噂や死亡説も浮上しているようなので、その真相についてご紹介します。
お笑い芸人に歌手活動、そして俳優と、様々な分野で活躍している財津一郎さん。タケモトピアノのCMが有名ですが、最近はその姿をあまり見かけないという声があります。
現在の財津一郎さんについてご紹介する前に、まずは財津一郎さんの経歴を調べてみました。
財津一郎さんは、神武天皇の時代から続いている由緒正しい財津家に生まれました。父親は農林水産省に勤めており、財津一郎さんは三人兄弟の末っ子でした。
最初は家族で東京暮らしでしたが、父親が中国へ出征することをきっかけに、財津一家は郷里の熊本へ避難します。
当時財津一郎さんは10歳でしたが、戦時中で父親不在もあり、とても苦しく貧しい幼少時代を過ごしたそうです。
母親も体が弱く病気がちだった為、いつも家族の食べ物を得ることに苦労していました。財津さんは家族のために、いつも奔走していたそうです。
それから三年後、財津一族が所持していた阿曽の土地を守るため、財津一家は阿蘇郡黒川村へ移り住みます。
その為、財津さんは済々黌中学から阿蘇農業高等学校(現・熊本県立阿蘇中央高等学校)へ転校することになりました。
やがて戦争は終わりを迎えました。しかし大切な土地は、農地解放で手放すはめになりました。
地主と小作人が、突然立場が逆転したのです。そのことをきっかけに、財津一郎さんは壮絶ないじめを受け始めました。
いじめは日に日にひどくなっていきました。財津一郎さんは、木刀でいじめっ子と戦ったこともあるそうです。父親を早くになくし、学校では不条理ないじめを受ける日々。
財津一郎さんの悲しさや苦しさは、生半可なものではありませんでした。
そんな時、誰よりも心強い味方になってくれたのが、当時の農業高校の先生でした。
いじめに悩んでいた財津一郎さんと一緒に麦踏みをしながら、「今は勝負の時ではない。踏まれた麦ほど、豊かに実るものだ。今は耐えなさい」と励ましの言葉をかけたそうです。
先生のその教えは、これから先、何度も財津一郎さんの心強い味方になりました。つらい時にも負けない、歯を食いしばって耐える勇気をもらえた、と財津一郎さんは後に語っています。
壮絶な高校時代を過ごした財津一郎さんですが、この頃彼が熱中したものがあります。それはなんと、水球です!
しかし歌を歌う楽しさや映画の魅力に目覚め、水球は続けませんでした。財津さんは水球の高い実力の持ち主で、そのまま続けていたら全国大会に出ていた可能性もあったそうです。
高校卒業後、財津一郎さんは受験の為に上京します。映画の世界に魅了され、早大文学部演劇学科を目指しましたが、残念ながら受験に失敗してしまいます。
そして、財津一郎さんは帝劇ミュージカルの研究生になります。
また、バイトで生活費を稼ぎながら、榎本健一映画演劇研究所(エノケン)に入り、本格的に演技の勉強を始めました。
財津一郎さんが尊敬する仲代達也さんに出会い、それを機に財津肇メ(ざいつ・はじめ)の芸名で石井均一座に入門します。奥さんとの出会いは、この一座でした。
色々なジャンルで活躍してきた財津一郎さん。彼が、実は亡くなっているのではないか?という噂が、巷では流れていました。
2019年現在、確かに財津一郎さんの活動はあまり知られていません。果たして死亡説は事実なのか、検索してみました。
財津一郎さんは、61歳の時に脳内出血で倒れてしまい、緊急手術を受けていたことがわかりました。このことが理由で、芸能活動をしばらくお休みしています。この活動休止期間と脳内出血で倒れたということが、財津一郎さん死亡説につながってしまったのかもしれません。
財津一郎さんは、一世風靡した持ちネタ「厳し~いッ!」や「~してちょうだい!」や、タケモトピアノのCMで大変有名な方です。もし亡くなっていたのなら、すぐにマスコミが取り上げ、トップニュースを飾っていたでしょう。
今までそういった情報が取りざたされていないことから、死亡説はデマであった事が分かります。
財津一郎さんを最近テレビで見かけなかった理由は、脳内出血の手術を行ったことにより、芸能活動からしばらく離れていた為でした。
脳内出血は、脳の血管が破れて出血し、脳内を圧迫してしまう恐ろしい病気です。最悪、死んでしまうこともあります。大きな病気でしたが手術は成功し、財津一郎さんは一命をとりとめます。
脳内出血で倒れた後一命を取り戻しましたが、左半身に麻痺が残ってしまいました。そこで、演技に支障が出ないよう、財津一郎さんはリハビリを行いました。
そこからわずか三か月という驚くべきスピードで、財津一郎さんは芸能界に復帰します。脳内出血の後遺症は簡単に克服できるものではありません。しかし、短期間で復帰するまでに回復したのはは、財津一郎さんのたゆまない努力あってのことです。
役者人生をここで終わらせないという、財津一郎さんの思いの強さもあったのでしょう。
財津一郎さんの右脳には、脳を固定する為の数多くの「びょう」が今もあるそうです。財津一郎さんが、大きな手術をした証です。
財津一郎さんは手術後、「頭にピリピリと感じる時がある。『そろそろお迎えがきたか?』と不安になってしまう」と話しています。また、もっともっと長生きをする為に、50歳から始めたゴルフについても触れました。
健康の為に続けているゴルフを、財津一郎さんは「生きている証」とコメントしました。更に「もっと腕前を磨きたい。目標は、18ホール全てやりぬくこと」とゴルフについて話しています。
今現在は、財津一郎さんは85歳と高齢ですので、ゴルフをやっているかは定かではありません。健康法の一つで、今は足踏みマッサージを行っているという情報がありました。年齢を重ねて、様々な健康法を使用しているのでしょう。
財津一郎さんは芸能界に復帰してから、NHK連続テレビ小説など、さまざまな作品に出演されています。財津一郎さんが76歳の時には、「ふたたび swing me again」という映画に出演しました。この作品について、「自己変革をさせてくれた映画だ」と財津一郎さんはコメントしています。
「ふたたび swing me again」は、ジャズを中心に繰り広げられる、祖父、父、孫の三代に渡る苦悩と再生のストーリー。財津一郎さんは劇中で、50年前に友人と約束したことを守る為、孫と旅に出る祖父(ハンセン病の元トランペット奏者)を演じています。
この映画では、財津一郎さんは監督に存在感の重さを求められました。ただそこにいるだけで、存在している、と感じられるしっかりとした存在感。それは、財津一郎さんが演じる中での長年の課題だったといいます。
今までの個性的な演じ方を封じられた財津一郎さんは、この映画のキャラを演じる事で、長年の壁に真っ向から取り掛かることになります。
更に財津一郎さんを悩ませたのが、トランペットの演奏シーンです。元トランペット奏者を演じるということで、撮影に向けて、財津一郎さんはトランペットを猛練習しました。ところが、「どんなに練習しても、音がうまく出ない」と、ここでも壁に突き当たることになります。
「このままでは、せっかくの良い作品を駄目にしてしまう」と、財津一郎さんは一度出演を断念したことがあったそうです。その窮地を救ったのが、ジャズ映画「5つの銅貨」と「情熱の狂想曲」です。
財津一郎さんは、この映画でダニー・ケイやカーク・ダグラスといった名俳優も、現実には演奏は不可能であったということが頭に浮かんだのです。
「実際には吹けないとしても、役者なら真に迫った演技をすることで、突破口が見いだせる」と、財津一郎さんは閃きました。そして、実際のトランペット演奏を受け持った演者、原朋直さんの演奏している動きや立ち振る舞いを、しっかりと目に焼き付け、体で覚えました。
首筋や腕を痛めながらも、財津さんは体でトランペット演奏を表現してみせたのです。財津さんの、役者としての魂が感じられます。この映画に出演したことで、財津さんは長年の課題がクリアでき、本当に嬉しく、また誇りに思えたでしょう。
財津一郎の病気後の出演作品『ふたたび swing me again』
財津一郎さんはこの作品への出演を最後に俳優活動はされていないようです。もし、財津一郎さんの一番最近の姿が見たいという方はチェックしてみてください。とはいえ、9年も前の作品になってしまうので、現在の姿とは程遠いかもしれません。
財津一郎さんは『ふたたび swing me again』出演後、残念ながら出演作品などはなく、芸能活動を休止している状態です。
ご本人や事務所から芸能界引退との発表はされていないので、完全に引退したという訳ではないため、年齢的には厳しいかもしれませんが芸能界に復帰する可能性はゼロではないようです。
俳優を目指して様々な活動を始めた財津一郎さんでしたが、なかなか順風満帆とはいかなかったようです。「30歳になるまでは、砂を噛む思いで頑張ろう」と心に決め、財津一郎さんはどんな辛い仕事も真面目にこなしました。
不況の波に飲まれ、財津一郎さんが所属する劇団がどんどんつぶれてしまうこともありました。そんな中でも財津一郎さんは、「辛い思いをすればしただけ、味わいがある顔立ちになれる」と、歯を食いしばって俳優活動を続けました。
そして新宿の劇団で舞台に参加するも、やはり不況の為か、劇団は解散してしまいます。
そこで気持ちを新たに活動を始めようと一念発起し、財津一郎さんは活動の場所を東京から大阪へ移します。1962年に吉本興行に入り、その二年後には吉本新喜劇に加わりました。
当時の吉本興行の林社長が、芸名について財津さんにアドバイスをしました。「(吉本では)大衆的な名前でいかなあかん。本名(財津永栄)は堅苦しい。一郎と言えば河野一郎、有島一郎。みんな大物や」という理由から、財津さんは財津一郎という芸名に改名しました。
俳優、そしてコメディアン財津一郎がここで誕生しました。
財津一郎さんの持ちネタといえば有名なのが、「~してちょうだい!」です。このギャグはタケモトピアノのCMにも使われていますね。独特なギャグが大衆に大うけしました。
もう一つ人気があるギャグは、頭の後ろに手を回して逆側の耳を引っ張り上げ、「ひっじょうに厳し~っ!」と叫ぶものです。奇抜な動きと個性的なセリフは、たちまち周りを笑いの渦に巻き込みました。
財津一郎さんは吉本新喜劇の座長を務めていたこともあるなど、コメディアンとしてのセンスも高いと評価されていたようです。
財津一郎さんの持ちギャグである「ひっじょーに、きびしーいっ」は、吉本新喜劇で使われたことでブレイクし、現在もとんねるずの石橋貴明さんが披露するなど伝説のギャグとして継承されているようです。
この「ひっじょーに、きびしーいっ」という言葉はあるセリフだったそうで、演技中にアドリブで奇声を発しながら言ったところでウケがよかったためギャグとして披露するようになったそうです。
↑《15分連続再生》赤ちゃん泣き止み動画セット
財津一郎さん出演のタケモトピアノのCMですが、なんとこのCMが流れると、赤ちゃんが泣き止むと話題になった事があります。某バラエティー番組では、この話について細かく検証しています。
なぜタケモトピアノのCMで泣き止むのでしょうか?財津一郎さんの声を調べた所、440ヘルツ周辺の音域である事が分かりました。赤ちゃんは、440ヘルツの音を耳にすると泣き止む習性があるようです。
それは、赤ちゃんが生まれた時に上げる泣き声が440ヘルツだからでは、という一説があります。赤ちゃんの産声が440ヘルツというのは、全世界の哺乳類全てに共通することです。
その事から、赤ちゃんはタケモトピアノのCM、厳密にいえば財津一郎さんの声を聞くと泣き止むという事が分かりました。財津一郎さんは特徴的な声ですが、その声は他の人にはないスペシャルなものだったのです。
↑財津一郎出演TVCM 1970~1980年代の動画
素晴らしい声の持ち主である事が分かった財津一郎さん。彼は、俳優やコメディアンのみならず歌手としても活動をしていました。財津一郎さんは、どのような歌を歌っていたのでしょうか?さっそく、検索してみました。
また、1996~1997年に放送された旅バラエティー番組『メトロポリタンジャーニー』では、財津一郎さんが番組のナレーターを担当しています。稀代な声をお持ちの財津一郎さん。彼が、様々な分野で活躍しているのもうなずけますね。
↑「喜劇バカ一代」財津一郎 俳優の動画
歌手としての活躍はもちろん、俳優としても数々の作品に出られています。財津一郎さん出演で特に注目度の高かった作品を、いくつか紹介させて頂きます。
↑喜劇 てなもんや三度笠~掛川の馬泥棒~の動画
1996年~1968年:てなもんや三度笠
1979年~1980年第1シリーズ:3年B組金八先生
1988年:大河ドラマ(NHK) 武田信玄
1996年:大河ドラマ(NHK)秀吉
2000年:大河ドラマ(NHK)葵 徳川三代
「てなもんや三度笠」は、藤田まことさん主演の時代劇風コメディー番組です。当初、財津一郎さんは浪人の蛇口一角(へびぐちいっかく)役で出演しました。刀をなめまわしたり、奇声を上げておかしな動きをとるなどの奇抜な演技が大衆の人気を集めました。
財津一郎さんは、「~してちょうだいっ!!」「非常に厳し~い!!」などと、劇中では素っ頓狂な声を上げて、奇人変人な演技をしました。その時は本人は笑いをとるつもりで言ったわけではなかったそうですが、これが世間で大ブレークしたのです。
そのあまりの人気ぶりに、財津一郎さんは桜富士夫と名前を変えて、写真家の役でレギュラーとして番組に出演するようになります。財津一郎さんの個性的な行動は、全てアドリブだったとか。ここでの経験が、財津一郎さんの芸の持ち味の原点となったようです。
ここで生まれたギャグは、今もなお、たくさんの人々に愛されています。
↑3年B組金八先生 (第1シリーズ) 第01話 の動画
金八先生では、英語の教科担任・左右田先生役を務めました。ここでは、財津一郎さんが持つおとぼけな雰囲気を上手に活用して、ボケ風味のある教師役をこなしています。
財津一郎さんは、目をみはるような華やかな役ではなく、渋みのある落ち着いた役どころが多かったようです。
苦労を重ねれば重ねるほど、役柄に厚みが出ると、努力を重ねてきた財津一郎さん。結果、ご本人の温かみや重厚さがにじみ出る、素晴らしい演技で大衆を魅了しました。
ここで紹介した作品は、わずか一部です。実際は、財津一郎さんは非常に膨大な量の作品に出演していらっしゃいます。それこそ、ここには記載しきれないほどの数でした。興味のある方は、調べてみてはいかがでしょうか?
「ふたたび swing me again」では、元トランペット演者として迫真の演技を見せてくれた財津一郎さん。劇中では孫との絆を取り戻す祖父を演じていますが、実際の財津一郎さんのご家族は、何をしていらっしゃるのでしょうか?
奥様の名前やお子さんのことなど、財津一郎さんのプライベートが気になる方は多いですよね。さっそく、調べてみました。
財津一郎さんの奥様ですが、名前は非公開でした。細かい情報は分りませんでしたが、噂によると、一般人ではないかと言われています。
いつ頃結婚されたのかも、情報は公開されていませんでした。二人の出会いですが、上でも少し触れた通り、石井均一座で知り合われたということです。また、財津一郎さんが大阪に移動された時には、すでにお子さんがいらしたようです。
ですので、1961年には結婚されていた、と予想されます。あくまでも予想にすぎません。
大阪時代は、財津一郎さんは奥様、お子さんと家族でお寺にお世話になっていたようです。この頃、食べ物を得るのにも非常に苦しかった、と財津一郎さんは話しています。どんなに極貧生活でも、奥様は財津一郎さんを蔭から長らく支えてきてくれたのでしょう。
気になる財津一郎さんの奥様の画像ですが、やはり公開されていませんでした。一般人の場合、やはり大っぴらに公開できませんからね。奥様の情報はあまりわかりませんでしたが、少なくとも内助の功を努める、とても素晴らしい女性ではないでしょうか。
次に、財津一郎さんのお子さんですが、息子さんが一人いると言われています(正確にいうと、一人と確定してはいないようです)。名前は、財津功さん。生年月日は、1961年8月22日生まれです。
財津功さんは、日本テレビに勤めています。今までたくさんの番組のプロデュースをしており、中には「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」などの有名な番組も手掛けています。大変優秀な方であることがうかがえますね。
財津功さんの画像が気になる方が多いでしょうが、残念ながら、彼の画像は公開されていませんでした。タレントさんとは違って、番組を蔭から支える立場ですからね。堂々と公開していないのは、うなずけます。
財津功さんがADだった頃、ものすごく冷や汗をかくような失敗をした経験があるそうです。AD時代に、けっこうな空き時間ができた財津功さんは、その時間を使って映画を見ようとしました。
財津功さんが気軽な気持ちで見始めたのは、「クレイジーキャッツの映画六本立て」という映画でした。一本だけ見たら、すぐに仕事に戻ろうと思っていたそうです。しかし、映画が予想以上に素晴らしく、財津功さんは、なんと仕事のことを忘れて六本全て続けて見てしまったのです。
財津功さんが我に返ったのは、映画を見終わった後でした。慌てて仕事に駆けつけるも、時すでに遅し。財津功さんは、先輩たちにしこたま怒られたそうです。
まさに冷や汗をかいてしまった財津功さんですが、この映画を見て本当に良かったと、後に語っています。財津功さんは、この映画から「苦しい時こそ笑え」ということを学んだそうです。この言葉は、様々な場面で財津功さんを救ってくれたとか。
その頃の事を、財津功さんはテレビ番組で熱く語っていました。そんな財津功さんですが、現在は、総合演出家として活躍されているそうです。数々の有名な番組をプロデュースしてきた財津功さん。今も、面白い番組を作るために奔走しています。
↑財津和夫・青春の影の動画
ご家族と固い絆で結ばれている、財津一郎さん。そんな財津さんには、なんと他にも縁で結ばれている有名人の人がいるようなのです。それは、歌手の財津和夫さん!苗字は同じですが、果たしてこれは事実なのでしょうか?さっそく、検索してみました。
↑財津和夫:サボテンの花「一つ屋根の下」の動画
財津和夫さんは、福岡県出身で1948年2月19日生まれのミュージシャンです。グループ「チューリップ」で主に活動しています。大ヒットドラマ「一つ屋根の下」の主題歌、「サボテンの花」で有名ですね。他にも、たくさんの名曲を生み出しています。
財津一郎さんとの共通点は、苗字、出身地、歌手活動の三点あります。
調べた所、財津一郎さんと財津和夫さんは、本当に親戚でした!某番組で、財津和夫さんが出た時、彼のルーツを調べた所、なんと財津一郎さん(本名・財津永栄)と同じことが明らかになったのです。
それは、財津和夫さんの祖父・緒方民平さんの恩師が亡くなったことから始まりました。その先生は、緒方民平さんが小学校へ通えるように尽力してくれた、まさに恩人だったそうです。
先生の跡取りも死去したことを知った民平さんは、恩師の為に、次男の緒方國平さん(和夫さんの父親)に跡を継がせることを決意しました。そうして、緒方國平さんは財津姓を名乗ることになったのです。
これは財津和夫さんも知らなかったそうで、番組内で「何かつながりがあるのでは?と、半分冗談で言っていたことは何度もあるんですが、まさか本当だったとは…」と、驚きを隠せない様子でした。
財津和夫さんは、番組内で、元々財津一郎さんのファンだったと告白しました。「びっくりしましたし、本当に嬉しいです。まさか財津一郎さんとつながりがあるなんて」と、驚きつつも嬉しさに顔をほころばせました。
この話がネットニュースなどで流れると、「すごい!」「ネタではなく、本当の話だったんだ」「本当に!?」など、次々と驚きの声が上がりました。事実は小説より奇なりとはいいますが、本当に不思議な縁ですね。
財津一郎さんは、85歳という高齢の為か、今現在は俳優活動はしていらっしゃらない様子です。しかし、タケモトピアノのCMでは、今も変わらず、財津一郎さんの朗らかな姿が拝見できます。
これから財津一郎さんの新しい俳優活動を見ることは難しいかもしれませんが、タケモトピアノのCMは、今も昔も変わらず、たくさんの人々に愛され続けるでしょう。
また芸能界を引退したのではなく活動休止状態なので、近い将来体調が万全になった時にテレビなどでまた元気な姿を見る日が来るかもしれませんね!
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