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オリンピックの女子マラソンで活躍したまきいずみ!その死因とは

オリンピックの女子マラソンランナーとして活躍していたまきいずみ。社会人のワコールで活躍していました。駅伝ランナーからマラソンへ転向してオリンピックにも2大会出場しています。そのまきいずみが亡くなったという報道がありました。今回はその死因についてまとめてみます。

女子駅伝やマラソンで活躍したまきいずみ

2018年10月18日オリンピックに連続出場したことのあるまきいずみの死亡が伝えられます。まきいずみは、ワコールで社会人女子駅伝のエースとして活躍していました。

今回はその、まきいずみが亡くなった原因や、まきいずみの成績について見ていきたいと思います。

まきいずみの出身地と高校はどこ?

社会人の女子駅伝で、ワコールチームのエースとして活躍していたまきいずみ。世界陸上の日本代表やオリンピックのマラソン代表としても活躍していました。

その、まきいずみの出身地や卒業した高校はどこなんでしょうか。

まきいずみプロフィール

名前:真木和 (まきいずみ)
出生地:愛媛県今治市
生年月日:1968年12月10日
高 校:愛媛県立今治北高等学校
職 業:ワコールからFRA藤田ランニングアカデミー

まきいずみは高校から陸上を始めた

ワコールで駅伝選手として活躍していたまきいずみ。その陸上生活は意外にも遅い始まりだったようです。陸上を始めたのは、今治北高等学校に入学してからと言うことです。

高校の陸上部でめきめきと頭角を現します。詳しい成績などは判りませんが、今治北高校を卒業してから、駅伝で活躍するワコールに入社しました。

それは1987年の事です。

まきいずみはワコール女子陸上部のエースだったの?

ワコールの女子陸上部でエースとして活躍していたまきいずみ。駅伝でエースとして活躍したり、トラックでも良い記録を出したりしています。

そのワコールでの活躍などを見てみましょう。

まきいずみはワコール陸上部の初代部員

ワコール女子陸上部が創部されたのは1986年の事です。1987年に発足したばかりの陸上部に、まきいずみは新入部員として入部します。

トラック競技でスピードを鍛えながら、駅伝のエースとしても活躍します。

ワコールは女子駅伝で、1989年から1992年まで4連覇を果たしており、まきいずみはその注力メンバーとして活躍しました。

まきいずみは世界陸上東京大会の代表として

駅伝やトラック競技で活躍していたまきいずみ。1991年に世界陸上東京大会の日本代表に選ばれます。松野明美は五十嵐美紀そうそうたるメンバーの中で、初選出だったのです。

初選手なのにまきいずみは、五十嵐美紀とともに10000メートルで決勝まで進出しました。しかし、世界はそれほど甘くなく、まきいずみは全体で20位という成績におわるのです。

まきいずみは日本記録を持っていたの?

ワコール女子陸上部のエースとして活躍していたまきいずみ。世界陸上の日本代表として10000メートルに選ばれます。決勝まで残るのですが、20位という成績だったのです。

その後、まきいずみのひとつの勲章が生まれるのです。

10000メートルの日本記録をまきいずみは破った

1991年の世界陸上東京大会を経て、まきいずみはスピードが大切だと言うことを実感します。その練習の成果が表れたのが、1992年の兵庫陸上カーニバルでした。

それまで10000メートルの日本記録は、松野明美が持っていたのですが、その記録を破り31分41秒38の日本記録を樹立します。

その後、日本陸上選手権にも優勝したのでバルセロナオリンピックの10000メートル代表になりました。

まきいずみは初めてのオリンピックへと

この年10000メートルの日本記録を更新したまきいずみ。日本代表としてバルセロナオリンピックに出場することになります。その代表には、前年度に行われた世界陸上東京大会の時に一緒だった、五十嵐美紀も選ばれました。

世界陸上の惨敗を経験にして、決勝では五十嵐美紀と共に前半から積極的なレースをします。8位入賞も夢ではないと思われたのですが、後半に失速するまきいずみ。結果的には12位に終わってしまいます。

まきいずみがマラソンへ転向したのはなぜ?

10000メートルで日本記録を更新したまきいずみ。バルセロナオリンピックでは、10000メートルで日本代表となりました。しかし、思うような成績が残せませんでした。

オリンピックが終わったあと、まきいずみはマラソンに転向をするのです。それはなぜだったのでしょう。

まきいずみは10000メートルでは世界に勝てない

まきいずみが10000メートルからマラソンへと転向します。それは、ワコールの監督である、藤田信之の助言によるものでした。

「世界で勝つためにはスピードではダメだ、マラソンのような持久力が大切だ!」ということで、世界で勝つにはマラソンしかないという判断をしたのでした。

マラソンに転向したまきいずみは優勝するも…

1995年に札幌国際ハーフマラソンで優勝をします。しかしレース後にドーピング違反のために失格となります。まきいずみ自身、どうしてドーピングに引っかかったのか謎だと言うことなのです。

その翌年の1996年に、東京シティーハーフマラソンで当時の日本最高記録1時間8分18秒でゴールして、汚名を返上するのです。

オリンピック最終選考レース、名古屋国際女子マラソンに満を持してエントリーをするのでした。

初マラソンでまきいずみは優勝するの?

トラック競技の10000メートルからマラソンに転向したまきいずみ。オリンピック選考会である名古屋国際マラソンへ向けて、着々とトレーニングを重ねていきます。

まきいずみは最終選考レースで優勝する

まきいずみの初めてのマラソンは名古屋国際女子マラソンでした。初めての42.195㎞なのですが、前半から落ち着いたレース運びをします。30㎞過ぎたあたりでまきいずみは、先頭集団から抜け出しトップに立ったのです。

そのままゴールテープを切るのですが、2時間27分32秒と言う好タイムでした。この優勝でアトランタオリンピックのマラソン代表に選ばれるのです。

まきいずみは脚のケガをかかえていた

名古屋国際マラソンで優勝したまきいずみ。2大会連続のオリンピック出場を手に入れたのです。しかし、その代償はあまりにも大きいものでした。名古屋マラソンの前日の練習で脚をケガしていたのです。

名古屋マラソンでは、ケガの痛みは感じられなかったのですが、レース後にはケガが悪化しました。充分な練習ができないままアトランタオリンピックを迎えるのです。

しかし、満足なレースはできないまま、まきいずみのアトランタオリンピックは終わります。結果は12位でした。世界での12位なのですが、優勝するためにマラソンに転向したまきいずみにとっては、満足のいかない結果だったのでしょう。

まきいずみの引退した原因とその後は?

2大会連続でのオリンピック出場という名誉を勝ち取ったまきいずみ。アトランタオリンピック後は、なかなか思うような成績が残せませんでした。

スポーツ選手が決断しなければならない瞬間が訪れるのです。

引退の原因は脚のケガ

アトランタオリンピックの選考レースである名古屋国際女子マラソンで優勝したまきいずみ。2大会連続オリンピック出場を手に入れたのですが、その代償があまりにも大きいものでした。

脚のケガを押して名古屋で優勝したのですが、オリンピック後にそのケガが悪化します。全盛期のような輝きを取り戻せないまきいずみは、引退を決意すると同時に、ワコールも退社するのです。

まきいずみと一緒に退社したメンバーの中には、後にオリンピックの女子マラソンで金メダルを取る、野口みずきも含まれているのです。野口みずきは、まきいずみに憧れてワコールに入社したと言われています。

引退したまきいずみを救ったのは元ワコールの監督

まきいずみがワコールを退社すると同時に、監督である藤田信之も解任されました。グローバリー陸上部の監督になっていた藤田信之は、1999年にまきいずみをコーチに迎えます。そこには、まきいずみに憧れている野口みずきもいたのです。

グローバリー陸上部でコーチをしていたまきいずみ。2003年に関西テレビ局員の山岡重行と結婚し、一児の母となり幸せな結婚生活を送ります。

幸せなまきいずみに突然の不幸が

グローバリー陸上部のコーチを結婚のために辞めたまきいずみ。最愛の夫との間に、一男を授かり幸せな生活を送っていました。

しかし、その幸せな生活に魔の手が迫ってくるのです。

まきいずみに乳がんが見つかる

2003年に最愛の夫と結婚したまきいずみ。その翌年には初期の乳がんが発見されます。初期だったので、手術や抗がん剤の一時的に体調は回復するのです。

必死の闘病生活を送っていたまきいずみ。入退院を繰り返しながら、母として妻として必死に生活を守っていきます。

病魔はまきいずみから離れなかった

2004年に乳がんが発症してから必死の闘病生活を送っていたまきいずみ。しかし、2018年になってから体調不良が続くようになります。10月7日に検査入院をするのですが、本人の「自宅で過ごしたい」という希望で13日に退院をしました。

家族と共に「最後の食卓」を囲んだまきいずみ。その人生は静かに幕を下ろします。2018年10月18日、家族に見守られながら、まきいずみは旅だったのです。

死因は肝臓にまでガンが転移していたと言われています。

まきいずみはまだ走り続けている!

まきいずみは、闘病生活を公表しないまま亡くなりました。同期で仲の良い、松野明美や弘山晴美などとは親交があったようです。弘山晴美が2006年に名古屋で優勝したときには、爽やかな笑顔を見せていたまきいずみ。

いまでもその爽やかな笑顔のまま走り続けていることでしょう!!

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