【衝撃事件】安室奈美恵の亡くなった母親とはどんな人物だったのか
2018/10/05
enie
2015/03/14 更新
1999年3月17日【安室奈美恵】21歳の時、実母が殺害されるという事件が起こった!!!犯人は実母の再婚相手の弟。
犯行後、服毒自殺を遂げた。
事件の詳細を時系列で調べてみました。
生年月日:1977年9月20日(37歳)
血液型:O型
星座:乙女座
出身地:沖縄県
沖縄アクターズスクール出身。
「スーパーモンキーズ」のメンバーに選出され、1992年より芸能活動開始。
1995年リリース『TRY ME~私を信じて~』がヒットし、『太陽のSEASON』からCDクレジットが単独名義となり、事実上のソロデビュー作となる。
その後、小室哲哉プロデュースにより、『Chase the Chance』・『Don't wanna cry』・『SWEET 19 BLUES』・『Can you celebrate?』・『NEVER END』など数々のヒットを飛ばす。
1998年出産による活動休止後、12月に歌手活動再開していた。
事件当日の1999年3月17日はニューシングル『RESPECT the POWER OF LOVE』の発売日。
同曲のタイアップ先であるCM発表イベントが予定されていた。
沖縄県大宜味村喜如嘉の道路上で実母と再婚相手の夫、二人が反対側に渡ろうとまず最初に横断歩道を渡っていた実母が突然やってきた義理の弟の乗る車に轢かれた。それを見て驚いた夫が実母を助けに駆け寄ろうとした時に再度Uターンしてきた義理の弟の乗る車が衝突、夫は避けようとするがボンネットに伸し上げられ軽傷を負う、それでも義理の弟の乗る車はさらにUターンしてきた為、夫はなんとか実母を車から引き離そうと近くにある電柱の影まで引っ張ってこれを回避しようとする。しかし義理の弟は車を降り今度はナタのような物で襲い掛かって来た為、夫が近くに落ちていた鉄パイプで応戦、周辺住民や親族が集まりだしてパニックとなり、義理の弟は再び車に乗りその場を逃走(以上後の夫会見談より参考)。
この日午後2時からのイベントに参加するため会場入りしていた安室には、当初マネージャーを通し「お母さんが事故に遭ったらしい」と含みを持たせて伝えられた。安室は慌てて自身の姉の元に電話をするも繋がらず、確認が取れないことに焦りと苛立ちで落ち着かない様子だったという。
関係者から安室に事実がようやく知らされ、事件を聞き付け会場に殺到していたマスコミには主催者側からイベント中止を発表。事件が大きく取り上げられ始め、TVでも一報を生中継した。
昼過ぎから所属事務所にも取材陣が殺到しており、急遽、事務所専務が応対。安室は全ての仕事をキャンセルし沖縄へ向かう用意をするが、航空チケットが修学旅行シーズンと重なりすぐには入手困難だった。もしこの事件がなければ安室は20日に沖縄入りし、稲嶺惠一沖縄県知事(当時)を訪問する予定があった。
捜査員が事件現場から5km離れた山中の農道で容疑者の車を発見、中にいた容疑者の叔父らしき人物を意識不明のまま病院へ搬送、車内からは殺虫剤の粉末などが見つかった。
日刊スポーツ、スポーツニッポン、スポーツ報知が都内銀座・有楽町などでこの事件に関する号外を配布。
安室が夫のSAMと一緒に羽田空港に到着したがマスコミやカメラマン、野次馬に囲まれた。一人のカメラマンが安室の表情を撮ろうとかなり至近距離でレンズを向けた際には、SAMがそれを払い除けた。安室は転倒もし、その後SAMに支えられながら声を上げて泣きじゃくっている様子が翌日テレビで報道された。これ以降報道陣の前では一切涙を見せなくなった。
搭乗した飛行機にも報道陣が多数いた為、航空会社側が安室の心情に配慮し、機内アナウンスにて取材規制を促した。直接インタビューは無かったものの、小型カメラにより座席と着陸して降りるまでの一部始終がその後TVで放送されている。
連日様々な憶測や過熱報道の中に三角関係からのもつれというものがあり、これに対して安室親族側は強く否定し法的手段も辞さないとした。そんな中、小室哲哉が仙台で行われていたglobeのライヴ開始1時間後の7:50頃に、一人で登場しプログラムには無かった安室の曲「Don't wanna cry」をピアノ演奏するという演出があった。
この日は午後2:00から告別式の予定があり、朝から沖縄市内の式場にたくさんのマスコミや野次馬が門の外に詰め掛け時折生中継された。この日、元々出演予定だったとされる地元のオーデション番組にはKiroroが代わりに友情出演している。
事件から約2週間後、フジテレビ「HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP」の生放送でTV復帰。
安室がステージに登場した瞬間、観客からは割れんばかりの大歓声が起こった。
所々で「安室ちゃんガンバレ」などのプラカードを掲げ会場全体で彼女を全力でバックアップした。
さすがにこの日は司会のダウンタウンの二人も口が重く緊張した雰囲気が漂っていた。
それに対し安室は「すいません、ご心配おかけしました、元気です。」と第一声コメントし、笑顔で応対した。
そして新曲「RESPECT the POWER OF LOVE」を力強い笑顔で見事歌い切り、客席側から顔を横に背けた時、一瞬安室の顔が険しくなるが必死に今にもこぼれそうになる涙を堪えて、何度も瞬きしてからまた元の笑顔を振りまく彼女のプロ意識の高さ、そして芯の強さにTVを通して涙したファンも多かった。。。
JUN.30 in 1950
My mothers love live with me
Eternally in my heart
R.I.P
MAR.17 in 1999
1950年6月30日(お母さんの生年月日)
母の愛は私と一緒に生きている
私の心の中で永遠に
安らかに眠れ
1999年3月17日
2006年に行われた15周年ツアー「namie amuro BEST tour “Live Style 2006」
地元沖縄で行われたライブツアーでは、アンコールで『NEVER END』を涙ながらに歌った。
ライブパンフレット最後のページに唯一英文で、
『私が心から望んでいたこと、それはあなたとデビュー15周年を一緒に迎えること、そして記念すべきステージでの喜びを一緒に味わうことでした。お母さんに届くことを祈りながら歌います。母に愛を込めて安らかに眠れR,I,P』
と母に向けたメッセージが綴られていた。
2008年雑誌「AERA」(08,5,12号)のインタビューでも安室は「母のことがあってからずっと辛かった。もう歌うことも「安室奈美恵」でいることもやめたいと思った。でも、今がどん底でもうこれ以上落ちることは無い…そう考えると少しづつ楽になっていった。」(抜粋)と語っている。
2012年11月か20周年ライブツアー 『namie amuro 5 Major Domes Tour 2012 〜20th Anniversary Best〜』を開催。
ドームツアーは約15年ぶりで、観客動員数・公演数共に女性ソロアーティスト歴代トップとなる!!
2014年6月 自身初となるバラードベストアルバム『Ballada』を発売。
週間アルバムランキング2週連続1位を獲得★
衝撃の事件から約16年が立ちますが、母の死を乗り越え、なおトップアーティストとして走り続ける【安室奈美恵】は現在も私たちを魅了し続けている・・・・・・
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