【画像】安室奈美恵の母はハーフだった!壮絶人生、驚きの死因とは?
2023/07/21
セラフィム
1977年9月20日生まれ
沖縄県那覇市出身
身長 158cm
血液型 O型
職業 歌手、ダンサー、タレント
レーベル Dimension Point(2013年~)
所属事務所 stella 88
2017年でデビュー25周年を迎えた安室奈美恵さん。この年の誕生日は、ちょうど安室奈美恵さんが40歳になる節目の年でもありました。
そんな2017年9月20日に、翌2018年9月16日を持って、芸能界を引退することが発表されましたね!突然の引退宣言に、世間は一時、騒然となりました。
2018年9月16日は、安室奈美恵さんがデビューしてちょうど26年目の記念の日です!あとずかとなった安室奈美恵さんの芸能人生ですが、これまで安室奈美恵さんはどのように活動されてきたのでしょうか。簡単に振り返ってみましょう!
安室奈美恵さんは沖縄県那覇市首里に3人兄妹の末っ子として生まれています。
小学校5年生の時に沖縄アクターズスクールに通う友達の付き添いでたまたま見学に訪れたとき、同校のマキノ正幸校長にスカウトされて入学することになりました。
SUPER MONKEY'Sは1995年1月、松浦氏のプロデュースによりリリースされたシングル「TRY ME 〜私を信じて〜」が73万枚の大ヒットとなりました。
「TRY ME 〜私を信じて〜」はユーロビートのカバーで初のヒットとなりました。
同年4月からは日本テレビ系音楽バラエティ『THE夜もヒッパレ』にレギュラー出演するようになりました。
さらに同年リリースのシングル「太陽のSEASON」からCDのクレジットが安室奈美恵の個人名義となり、これが事実上のソロデビュー作となりました。
安室奈美恵さんは1996年には、シングル「Don't wanna cry」、「You're my sunshine」、「a walk in the park」がが発売され、これらすべてがミリオンセラーを記録しています。
また若者のファッションリーダー的存在にもなり、安室奈美恵を真似する女性“アムラー”がこの年の流行語となりました。
さらに同年7月にリリースリリースされたファーストアルバム『SWEET 19 BLUES』は、現在では不可能とも言えるトリプルミリオンを突破しました!
安室奈美恵さんはこれまでの10代の歌手としての記録を次々と更新していきました。
安室奈美恵さんは2001年1月に発売したリカット・シングル「think of me/no more tears」を最後に小室哲哉のプロデュースを離れることになりました。
それ以降は、R&B・HIP HOP系の曲をリリースし、今井了介・ZEEBRA・VERBALらとのスペシャルプロジェクト・SUITE CHIC(スイート・シーク)に参加したり、ダラス・オースティンによるプロデュース、自らの作詞など新たな安室奈美恵を演出してきました。
2010年には新たなアルバムも発売して、4月から12月まで自身最多公演数となるライブツアーnamie amuro PASTでアジアの女性アーティストとしては初となるWorld Music Awardsへの出演という歴史的快挙を成し遂げました。
2013年7月にアルバム『FEEL』をリリースして、これがオリコン初登場1位を記録しました。
このアルバム以降は、レーベルをavex traxからDimension Pointへ移籍して、安室奈美恵さんはDimension Point第1号アーティストとなりました。
1999年、人気歌手安室奈美恵さんの実母の死亡に当時のマスコミや世間が大混乱したそうです。
事故や病気ではなく、殺人というあまりにも惨い事件でした。
一体何が起きたのでしょうか。
当時の状況を調べてみました。
午前10時40分頃、自宅を出た安室奈美恵さんの母、平良恵美子さんと夫の辰信さんが道路を横断中に、いきなり車が突進し、恵美子さんを車ではねました。
その直後、犯人の車はUターンを繰り返し、何度も恵美子さんに向かっていったそうです。
転倒した恵美子さんを助けようとして夫の辰信さんが近くの電柱の陰に隠そうとしましたが、犯人の運転手はさらにその電柱目がけて車をぶつけたそうです。
車を運転していた犯人は、車では致命傷を負わせられないと思ったのか、最終的には用意していたナタのような刃物を使って、恵美子さんに切りかかりました。
夫の辰信さんが路上にあった鉄パイプで応戦していたところ、騒ぎを聞きつけた近所の人たちが集まってきたので、犯人は逃走しました。
それから安室奈美恵さんの母親は意識不明の中搬送されましたが、病院で死亡が確認されたそうです。安室奈美恵さんの母親がつい先程まで生きていたのが1時間後には死亡しているという恐ろしい現実・・・とても悲惨な事件です。
母親(奈美恵さんの祖母)が米軍基地で働いていたとき、白人の兵隊との間に生まれたのが、
安室奈美恵さんの母、恵美子さんでした。
だから恵美子さんは、自分の父親についてはほとんど何も知らずに育っていて、父の国籍は何なのか…どんな顔をしているのかも分からなかったそうです。
ある程度成長して物心がついてくると、まわりからは母子家庭という偏見だけでなく、当時では珍しい“ハーフ”ということでの差別にも悩まされるようになったそうです。
時には『お前、アメリカンだろ。さっさと自分の国に帰れ』と罵声を浴びせられたり、石を投げつけられたこともあるそうです。
とっても苦労されたようです。
ハーフというのは、今でこそ憧れられる存在になっていますが、安室奈美恵さんの母親が子供の頃は差別されていたのですね。
父親の顔や国籍もわからず、母子家庭というだけで、きっと苦労することも多かったと思いますが、それだけでなく周りから差別やいじめを受けるのはあまりに辛かったと思います。
安室奈美恵さんの母親は差別やいじめにも負けずに成長し、20歳のときに奈美恵さんの父親である安室氏と結婚しました。
安室奈美恵さん同様に若年での結婚ですね。
しかし結婚してからも“母子家庭育ち”ということで夫の親戚から疎まれたそうで、自分だけ安室家の法事に呼んでもらえないことも度々あったそうです。
当時の安室奈美恵の父親の実家は代々首里城の王様に仕えた士族の家柄だったそうで、
母子家庭で父親がどこの誰だかわからない恵美子さんは、最初からあまり歓迎されない嫁だったんだそうです
安室奈美恵さんの母親が若い頃は、母子家庭というだけでこんなにも世間から差別を受けてしまっていたんですね。
結局、安室奈美恵さんの母親は、夫ともうまくいかなくなり離婚してしまいます。安室奈美恵さんがわずか3歳の時の話だそうです。
安室奈美恵さんの母は朝から夜中までほとんど休憩無く働きづめ、休日もほとんど無い生活だったため、
過労で入院したこともあったそうです。
あまりの苦しさに耐え切れずに無理心中を考えたこともあったそうです。
恵美子さんはそんな激動の子育て時代を経て、安室奈美恵を含む3人の子どもたちも全員独立して手が離れていき、そして自分自身も再婚し幸せな日々を手に入れます。
そして娘の奈美恵さんは芸能界で大成功します。
さらには孫にも恵まれ、恵美子さんは東京で生まれ育つ温人くん(奈美恵さんの長男)に対し、
『大きくなったら、沖縄のキレイな海で遊ばせてあげたい』とたくさんな夢を描いていたそうです。
子供の頃から、母子家庭であることや、ハーフであることでつらい経験をしてきた安室奈美恵さんの母、恵美子さん。娘である安室奈美恵さんの活躍や、孫の誕生は本当に嬉しかったのでしょう。
やっと幸せな夢を描けるようになった矢先で亡くなってしまい母、恵美子さんは無念でならないと思います。そんな安室奈美恵さんの母親を殺害した犯人とはどんな人物だったのでしょうか。
安室奈美恵さんの母親を殺した犯人の運転手は、近くの山中で遺体となって発見された。
死因は除草剤による服毒自殺だったそうです。
しかも、この運転手は、殺された恵美子さんの義理の弟で、辰信さんの実弟・平良謙二容疑者だったそうです。
殺害の動機はさだかではありませんが「恵美子さんを巡る辰信さんと謙二との三角関係がこじれたなどと、さまざまな憶測が飛び交っていたそうです。
しかし、やっぱり原因は“お金”だったんじゃないかと思われます。
さすがに殺人とまではいかなくても、スターが出れば家族関係がおかしくなることは珍しくないそうですが。
家庭問題で転落した芸能人は沢山いるそうです。
事件後、夫の辰信さんは、弟の動機について、
「弟は結婚したい相手がいたけれど、私と恵美子が反対したことによえり相手の女性は身を引いてしまったをうで、その恨みかもしれない」
と語っていたそうです。
犯人である義弟は既に自殺してしまったため、真実は分からないようですが、こういった動機が考えられたそうです。
事件の当日、この日安室奈美恵さんは午後2時からのイベントに参加するため会場入りしていたところで、当初マネージャーを通し「お母さんが事故に遭ったらしい」と含みを持たせて伝えられたそうです。
安室奈美恵さんは慌てて自身の姉の元に電話をするも繋がらず、確認が取れないことに焦りと苛立ちで落ち着かない様子だったそうです。
第一報が入ったときには、マスコミや関係者の間で情報が錯そうし、かなり混乱していたそうです。その後、安室奈美恵さんには事実が伝えられ、安室奈美恵さんはその後の仕事を全てキャンセルし、空港へと向かいます。
安室奈美恵さんが当時の夫だったSAMと一緒に羽田空港に到着したところマスコミやカメラマン、野次馬に囲まれて空港内は一時騒然としたそうです。
一人のカメラマンが安室奈美恵さんのの表情を撮ろうとかなり至近距離でレンズを向けた際には、夫のSAMがそれを払い除けたシーンが有名です。
安室奈美恵さんは転倒もして、その後SAMに支えられながら声を上げて大泣きしている様子が翌日のテレビで報道されました。
これ以降報安室奈美恵さんは、道陣の前では一切涙を見せなくなったそうです。
安室奈美恵さんの心情を思えば、そっとして置いてあげるべき状況なのですが、報道関係者は羽田空港どころか、飛行機の機内でも安室奈美恵さんに取材をしようとしていたのだそうです。
航空会社側の配慮で、機内での安室奈美恵さんへの取材を自粛するよう機内アナウンスが流されましたが、直接のインタビューは無くても、カメラにて安室奈美恵さんの機内の様子が録画されていました……。
沖縄に戻り亡くなった母と再開した際、安室奈美恵さんは母を呆然と見つめ続けた後に大粒の涙を流しながら、白い布を手に持ち、姉と一緒にまだ母の顔に残るたくさんの傷、そして薄く残る血の痕を自分の頬を伝って母の顔にこぼれ落ちる涙で拭いていたそうです。
当時安室奈美恵さんは21歳でした。10代から芸能界で大活躍していますが、成人して間もない21歳の女の子です。
最愛の母親を亡くした安室奈美恵さんの心情は計り知れないほどの辛さだったでしょう。復帰についてかなり心配されましたね。
しかし多くのファンからの励ましや色んな思いからなんとか安室奈美恵さんは歌手として復帰することができました。
事件後、安室奈美恵さんが母親の死について自ら話すことはなかったそうですが、ごくたまに雑誌のインタビューで答えていました。
安室奈美恵さんはお母さんの事件の件で、マスコミが嫌いにな一人で悩んでいたら、結構耐え切れななかったかもしれない、そして子供の笑顔には救われる時があると語っていたようです。
さらに、私達自身がこの先の人生で辛いことがあっても支えになるような言葉も残されてています。
「母のことがあってからずっと辛かった。もう歌うことも「安室奈美恵」でいることもやめたいと思った。でも、今がどん底でもうこれ以上落ちることは無い…そう考えると少しづつ楽になっていった。」
この言葉は、人生のどん底にいるときに救いの手になりそうな言葉ですね。
安室奈美恵さん自身が母親になったことが、大きな変化だったようですね。
母は強しとはこのことです。安室奈美恵さんが母親になった今、息子さんのために
生きるという大きな目標が自身を突き動かしたんでしょう。
安室奈美恵さんの母親の事件はとても惨く記事にするのも辛い内容でしたが、復帰後の安室奈美恵さんは音楽スタイルも新たに生まれ変わりましたよね!
一時期安室奈美恵さんの音楽スタイルのチェンジに世間の評価がイマイチで小室哲也プロデュース時代から人気は衰えてしまったように思われましたが、徐々に人気が戻り、また安室奈美恵さんの楽曲も評価されるようになりました。
2007年にリリースした「PLAY」以降のアルバムは全て最高順位1位を獲得しています。今年も全国ツアーを予定しており精力的に活躍している安室奈美恵さんをこれからも応援していきましょう!
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人生のどん底から安室奈美恵さんを救ったのは息子さんのようで、後に安室奈美恵さんは
「母の死は私を地獄へ突き落とした。もう何もできなかった。けど、ずっとそうもしていられなかった…私も一人の母親として息子のために頑張らなきゃいけない。それが生きがい。」
と語っていたようです。