どんな接点が?俳優・吉岡秀隆と歌手・尾崎豊が親友だった事実!
2016/08/27
ミック0331
吉岡秀隆
生年月日 1970年8月12日(45歳)
出生地 日本の旗 埼玉県蕨市
身長 172cm
血液型 A型
職業 俳優・歌手・ナレーター
ジャンル 映画・テレビドラマ
活動期間 1975年 -
事務所 Office Bow!
尾崎豊
出生 1965年11月29日(東京都練馬区)
出身地 東京都世田谷区
死没 1992年4月25日(満26歳没)
学歴 青山学院高等部中退
ジャンル ロック
職業 ミュージシャン、シンガーソングライター、実業家
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1976年に『山口さんちのツトム君』人気を受けて制作されたアルバム(パパ役が田中星児、ママ役が小鳩くるみで、ツトム君役が吉岡秀隆)の中で彼も『山口さんちのツトム君』を歌っている。
なんと吉岡秀隆さんは5歳で芸能界デビューしていました!ということは、相当芸歴も長いベテランだったのですね。
また、聞けば誰もが知っている「山口さんちのツトムくん」の歌も子供の頃の吉岡秀隆さんが歌っていたんです!演技に歌と、当時からマルチな活躍をしていたんですね。
『遙かなる山の呼び声』の武志役オーディションで山田洋次監督に見出され、『男はつらいよ』シリーズ第27作『浪花の恋の寅次郎』から最終作と特別篇まで寅次郎の甥・満男役でレギュラー出演し、渥美清が病気で派手な演技ができなくなってからは登場シーンも増え、事実上の主役を演じた。
吉岡秀隆さんにとっては、その後の役者人生において末長く見本となり続ける二大俳優との共演を子役の頃に果たしていました。
高倉健さんに渥美清さん。多くの役者から尊敬される二人の俳優の元で、吉岡秀隆さんは演技を学びながら成長してきたのですね。
総製作期間が20年以上にも渡る大長編ドラマである「北の国から」。吉岡秀隆さんと言えば「黒板 純」を思い出す人もまだまだ多いのではないでしょうか。かくいう私も、長い間吉岡秀隆さんのことを「純君」と呼んでいました…。
吉岡秀隆さんは、北の国からの放送が終了したその1年後にドラマ「Dr.コトー診療所」で主演を演じています。子役時代から長く演じてきた役柄を引きずることなく、吉岡秀隆さんの役者としての新たな可能性を見せてくれたドラマと言えるかもしれません!
吉岡秀隆さん主演の映画「ALWAYS 三丁目の夕日」は大人気を博し、後にシリーズ化して日本アカデミー賞まで受賞しています!受賞時の吉岡秀隆さんのコメントには、長年彼のファンである人たちにとってはホロリと来る内容に違いありません。
破滅的で体当たりなパフォーマンスや自己の内面を抉り出すような赤裸々な歌詞の中で、真実の愛や夢、生きることの意味を追い求め、学校や社会の不条理に立ち向かう心の叫びのようなその音楽の世界が1980年代から1990年代初頭にかけての若者を中心に 多くの人から共感を呼び、カリスマ的存在となる。
3rdシングル「卒業」の中の過激な歌詞が話題となり、2ndアルバム『回帰線』は大手音楽チャート1位を記録し、尾崎の名は瞬く間に全国へと広がっていった。
18歳が醸し出すカリスマ性を超越した存在だった尾崎豊。こんな青年が突然音楽界に現れたら、きっと今の時代でも若い世代の誰もが尾崎豊に夢中になるでしょうね。
プライベートでは一般人女性と結婚、長男が生まれ、新たな価値観を見出した尾崎は1990年(平成2年)、レコード会社を古巣のCBSソニーに復帰、2枚組アルバム『誕生』をリリースし、オリコン1位を記録。さらに個人事務所「ISOTOPE」(アイソトープ)を設立し、翌年には大規模ツアーを行うなど、尾崎は完全復活を遂げる。
強烈なインパクトとカリスマ性によって一世を風靡した尾崎豊ですが、20歳を迎えると突然スランプに陥ります。大人と子供の間の存在として、今にも爆発しそうなエネルギーを秘めながら歌った尾崎豊。ふと本当に大人になった時、尾崎豊は何か私たちにはわからないような「虚しさ」を感じたのでしょうか…。
1992年(平成4年)4月25日早朝、当時の尾崎の自宅であるマンションから約500メートル離れた、足立区千住河原町の民家の軒先に全裸で傷だらけで倒れていたところを住人に発見され、5時45分ごろ、通報で墨田区内の白鬚橋病院に運び込まれる。
、10時ごろになって容体が急変、呼吸が止まっているのに気がついた家族が約1時間後の11時9分に119番通報。搬送先の日本医科大学付属病院で手当を受けるも、午後0時6分に死亡した。
中学3年の時にアルバイト先でたまたま聴いた「シェリー」に彼は鳥肌が立った、と。それから唯一テレビ出演になったフジテレビの「夜のヒットスタジオ」の楽屋に訪ねていったのが出会いだった。
尾崎さんは吉岡クンを弟のように可愛がり、スタッフや友人に紹介する時に「俺の弟だ」と紹介するようになり、その友人は本当の腹違いの弟かと思ったと彼に言ったそうです。
通夜は近親者だけで行い、葬儀に代わる追悼式は30日正午から文京区大塚の護国寺桂昌殿で、反骨精神を持って生き抜いた尾崎さんらしく、無宗教献花方式で行われる。
弔辞
初めて尾崎さんに贈る文章が弔辞になるなんてこんなにつらいことはありません。
アイソトープの尾崎さんの部屋でこの文章を書きました。尾崎さんのいないあの部屋にも、僕ひとり押しつぶすには充分な思い出がつまっていて、それでなくとも、ままならない体がいよいよどうにもなりません…
この弔辞は、「Say good-by to she sky way」という当時のマネージャーや尾崎のお兄さん等の文章を載せて出版した本に、吉岡が尾崎豊の追悼式で読んだものがそのまま載せられているそうです。現在ではこの本は絶版となっているそうです。
尾崎さんが亡くなって2年たった1994年の映画「ラストソング」にて主演を務めた吉岡さん。監督からの指示でギターを練習し作曲作詞をしており、それが劇中歌・主題歌として起用され大ヒットを収めています。実はこの曲「ラストソング」は尾崎豊さんに捧げた歌だということなんです。
吉岡秀隆は、尾崎豊に向けて歌を作詞作曲していました。これらの行動から見ても、尾崎への深い敬愛の念が感じられますね。
いかがでしたでしょうか?
吉岡秀隆さんと尾崎豊さんの隠された親密な関係性について、画像やエピソードを交えてご紹介しました。吉岡秀隆さんと尾崎豊さんの間には、互いに若い頃から大人の社会で生き続けてきた共感から来る深い絆があったのかもしれません。
尾崎豊さんが若くして亡くなられたことは本当に残念ですが、尾崎豊の真のフォロワーであると言われる吉岡秀隆さんが今も芸能界の最前線で俳優として様々な場面で活躍し続けています。そのことは、天国の尾崎豊さんも弟を見るような気持ちで喜ばしく見守っていてくれているのではないでしょうか。
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