逝ってしまった名優・高倉健の残していった名言とエピソードの数々
2016/03/07
uhiko
本名 小田 剛一 (おだ ごういち)
生年月日 1931年2月16日
出身地 福岡県中間市
身長 180 cm
血液型 B型
職業 俳優・歌手
ジャンル 映画・テレビドラマ・CM
活動期間 1955年 - 2014年
配偶者 江利チエミ(1959年 - 1971年)
悪性リンパ腫の為、2014年11月10日に満83歳でこの世を去る。
【代表作品】
・日本侠客伝シリーズ
・昭和残侠伝シリーズ
・幸福の黄色いハンカチ
・野性の証明
・南極物語
・鉄道員(ぽっぽや)
新作映画の撮影中、いつも持ち歩いていた台本に、1枚の写真を貼り付けている。
震災の残骸の中、唇をかみしめて歩く少年。新聞から切り抜いた。
「宝物です」。
被災地を思う高倉さんは「人生は切ない。
切ないからこそ、何かに『うわっ』と感じる瞬間がある」と語る。
『幸福の黄色いハンカチ』の冒頭で、刑務所から刑期を終え出所した直後の食堂で、女性店員についでもらったグラスに入ったビールを深く味わうように飲み干した後、ラーメンとカツ丼を食べるシーンがある。
その収録で「いかにもおいしそうに飲食する」リアリティの高い演技を見せ、1テイクで山田洋次監督からOKが出た。
あまりにも見事だったので、山田が問い尋ねると「この撮影の為に2日間何も食べませんでした」と言葉少なに語り、唖然とさせた。
真冬の福井へロケに行った際、高倉は休みの日だったが、ロケ現場へ激励に現れた。
厳冬下であったので、出演者・スタッフは焚火にあたっていたが、高倉は焚火にあたろうとしない。
スタッフが「どうぞ焚火へ」と勧めたところ、高倉は「自分はオフで勝手に来た身なので、自分が焚火にあたると、皆さんに迷惑がかかりますので」と答えた。
このため、スタッフだけでなく、共演者も誰一人申し訳なくて、焚火にあたれなかったと発言している。
やがて「頼むからあたってください。健さんがあたらないと僕達もあたれないんです」と泣きつかれ、「じゃあ、あたらせていただきます」となり、やっと皆で焚火にあたることができた
軍隊が訓練中に八甲田山で遭難してしまう映画「八甲田山」
吹雪の中で立ち往生してしまうシーン
現場に行くのに役者は歩いて行かないといけない
当然足跡がつく
立ち往生しているのに足跡がついているのはおかしいと、雪山で4時間、足跡が消えるのを待った
高倉さんは撮影の前に必ず現場を自分の目で確かめにいらっしゃいます。僕の撮影の時は必ずですから、すべての現場でそうされてるのではないかと思います。
その時は撮影前日で、強い雨が降っていました。これだけ強い雨だから、もしかしたらチェックに来られないのではないかとも思っていました。冬が近づいていてかなりの寒さでした。僕らスタッフ全員、緊張しながら高倉さんを待っていました。
約束の時刻ピッタリに車が止まり、ドアを開ける高倉さんが見えました。僕らが待っている現場まで4~50mはあったでしょうか。高倉さんは傘も差さずに、そのまま走って向かって来るのが見えました。一刻も早く現場をこの目で見たい、少しでも早くスタッフを確認したいとの思いだったのでしょう。運転手や代理店の人たちが傘を持って後ろから高倉さんを追いかけています。
一瞬のうちにずぶ濡れになった高倉さんを見て、僕たちスタッフは、全員、差していた傘をその場に投げ捨てていました。
ブラック・レイン」(89年、リドリー・スコット監督)
に出た故・松田優作の言葉
「優作が『高倉健さんって、ありがたいよね』
としみじみ言うんですよ。
『健さんが道をつけてくれたから、日本人の俳優という
だけで尊敬される』って。
エピソードから高倉健さんの人柄が伺えますね。
誰にも平等に礼儀正しく、そして演技に対してとてもストイックだった高倉健さん。
俳優の中の俳優であり、人徳の高い人間だったのですね。
それでは、そんな高倉健さんの名言を紹介していきます!
1984年に流された日本生命のCMの名台詞にして名言な言葉です。
LARK(タバコ)のCMの台詞です。
「幸せの黄色いハンカチ」の中の高倉健さんの名言です。
富山刑務所を表敬訪問した際、受刑者へ語りかけた名言です。
高倉健さんの名言はいかがでしたか?
ひとつひとつの名言に高倉健さんの人柄や人生が滲み出ていて、どっしりとした重い名言ばかりでしたね。
これからも忘れ去られることなく、後世に残していかなければならない名言だと感じました。
日本の映画界を生涯第一線で支え続けてきた高倉健さんに、改めてご冥福をお祈りします。
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