松井秀喜に第一子誕生!子供の名前や性別は?松井秀喜がイクメン!?
2016/08/25
nigunatu
野球に打ち込む3歳上の兄に触発され、小学5年生の夏休みに再び軟式野球チームに入り、本格的に野球を始めた。その頃から、既にプロ野球選手を夢見ていた
元々は右打ちであったが、あまりにも打球を飛ばす為に野球仲間であった兄とその友人が松井を打てなくする目的で強引に「尊敬する掛布雅之選手(当時は阪神タイガースファンだった)と同じ左」で打つように勧められ、左打ちに変更した。これが運命の左打ち転向であった。
松井秀喜さんは小学3年からは町の少年柔道教室にも通い始めて能美郡大会で優勝、石川県大会では3位に入り、国体強化選手にも選ばれていました。
他に、わんぱく相撲大会でも活躍していた。これらスポーツでの活躍のほか、実家のピアノも演奏する。
高校2年生の時の松井秀喜さん
高校生選抜チームに2年生としては三沢興一(帝京高)と共に選出され、1年先輩で後にプロ入りした高木大成・大野倫・萩原誠等にその怪物ぶりを賞賛されている。
大野は雑誌のインタビューで「星稜の松井は怪物」と答えています。
高校3年生の夏の甲子園
この試合で松井秀喜が受けた5打席連続敬遠は、高野連が急遽記者会見を開くなど、社会問題にまで発展した。明徳義塾監督の馬淵史郎は試合後、「(星稜の練習を見て)高校生の中に一人だけプロの選手が混じっていた」とコメントしている。
高校通算打率は.450、本塁打は60本。高校通算60号は国体の尽誠学園戦の第4打席、高校最終打席で記録。ちなみに、「柵越えしたものがホームラン」という松井のこだわりから、ランニングホームランは数に含まれていない。ライナー性の弾道で甲子園球場のバックスクリーンに運ぶ並外れたパワーや、打撃練習であまりにも柵越えを連発するため練習場のライトフェンス後方に特別のネットが取り付けられるなど、桁外れの話題性から「20年に1人の怪物」と言われていた。
スポーツをする上で得な体格だったのかなと、
そしてそれ以上に真面目で努力家な松井秀喜さん
甲子園での敬遠は有名で、相手校も成績や流れを考慮してなのでしょうけども
異様な光景だったのではないかと思います。
1992年ドラフト・長嶋監督が松井秀喜選手を引き当てる
契約金は1億2000万円。年俸は720万円。背番号は「55」。
13シーズンぶりに巨人監督に復帰したばかりの長嶋茂雄(終身名誉監督)
巨人へ入団1年目の松井秀喜さんは、
プロの投球の速球に手こずり、公式戦開幕は二軍で迎えた。
セ・リーグ高卒ルーキー新記録となる11本塁打を放った(パ・リーグの高卒ルーキー記録は1986年の清原和博による31本塁打)
1996年
松井秀喜さんは自身初の開幕4番スタートだったが、5月からは落合博満が4番に返り咲き、松井秀喜さんは3番に戻った。その後チームの上昇と共に成績も上昇し、夏場には7月、8月と2か月連続で月間MVPを獲得するなど、大逆転優勝に大きく貢献。初のセ・リーグMVPを受賞した。
1998年
キャンプ中に左膝を痛め、「左膝軟骨損傷」と診断された。膝の不安を抱える中で開幕
初本塁打は11試合目まで遅れ、その間には32打席無安打というプロ生活最大のスランプにも悩まされた。
膝の痛みが和らいだ5月10日に久々の第3号本塁打を放つと、その後の12試合で9本塁打して月間MVPを受賞するなど本来の調子を取り戻した。その後は順調に打ち続け、7月28日のヤクルト戦で通算150本塁打を達成。最終的には34本塁打、100打点で自身初のタイトルとなる本塁打王、打点王、最高出塁率のタイトルを獲得。巨人で本塁打王と打点王の両方獲得は、1977年の王貞治以来21年ぶりの快挙であった。
巨人時代の松井秀喜さんは自分がどうみんなから見られてきてどう期待されているのかを
よく分かっている人なのだと思いました。
成績も大事だけども、豪快なホームランで笑顔になる子供達の笑顔。
豪快にゴジラのマネをして口を開いたりする場面もあったりしてサービス精神もすごかったです。
そしてけして偉ぶらないのが松井秀喜さんの魅力の一つだと思います。
2003年1月14日
12月19日にヤンキースと3年総額2100万ドル(当時約25億4100万円)で契約に合意。ニューヨークの新聞各紙は「ゴジラがブロンクスにやってくる」という大見出しをつけた。
ニューヨーク市内のホテルで行われた入団会見には、日米合わせて約300人の報道陣に加え、球団社長のランディ・レバイン、監督のジョー・トーリ、ロジャー・クレメンス、ニューヨーク市長のマイケル・ブルームバーグらも出席した。松井秀喜は「ヤンキースはメジャーの中でも素晴らしい伝統がある。素晴らしいプレーヤーがたくさん在籍した球団。自分の中でも一番刺激があるチームで自分の力を存分に発揮したかった」と語った。巨人からFA権を行使して移籍したのは1994年の駒田徳広(横浜へ移籍)以来2人目であった。海外FAは球団初。打者としては、ヤンキース史上初の日本人選手(日本人で初めてヤンキースとメジャー契約したのは伊良部秀輝)である。
メジャー3年目に初めて打率を3割に乗せた(.305)。本塁打こそ23本にとどまったが、打点も自己最多の116という成績。9月には日米通算400本塁打も記録した。このまま順調に成績を伸ばしていくかにみえたが、
4年目の2006年これまで積み上げてきたものの多くをリセットしなればならなくなった出来事が松井秀喜さん起きました。
打球を取ろうとした際に
手の向きが・・・ゾッとします
5月のレッドソックス戦、1回の左翼守備でそれは起きた。フワリと上がった打球を追い、懸命に前進。一度はグラブに収まりかけたボールがこぼれた。この時、左手を地面に強く突くようにしてスライディング。勢いに乗った体が左腕を追い越し、ひねってしまった。両ひざをついたまま右手で左手首を押さえ、懸命に痛みをこらえる。大事を察し、場内も静まった。駆け付けたトーリ監督が、誰よりも心配そうに見守っていた。
松井秀喜 「グラブが土の中に入ってしまった。今までに味わったことのない痛みだ」
松井秀喜さんはうめくようにそう言った。
長期の戦列離脱を余儀なくされ、巨人時代の1993年8月から続けていた連続試合出場記録も1768で途切れた。全試合出場の記録にこだわってきた松井秀喜にとって、あるいは手首の痛みよりも辛いことだったかもしれない。
4カ月後、9月の試合で戦列復帰。スタンディング・オベーションで迎える観衆の声援に、4打数4安打の活躍で応えた。
松井秀喜
「(拍手は)予想もしていなかったし、うれしかった。当たり前の日が、どんなにありがたいかということにも気付かされた」
2013年 引退 セレモニー ヤンキースも
ミスター・ヤンキースのデレク・ジーター選手。
松井秀喜氏の最も尊敬する人物です。
ジーターは松井秀喜のことをじぃさんなどと言ってたみたいです。
また、試合では松井秀喜の盟友であるジーター選手が今日実はケガからの復帰戦でした。
その初球をライトスタンドまで運び、見事今季初ホームランとなりました!!おそらく松井秀喜へのプレゼントでしょうね。松井秀喜氏も目に焼き付けたと思います。ジーターらしいホームランでした。
長嶋茂雄さんと一緒に国民栄誉賞の授与式
ずっと尊敬している長嶋茂雄終身名誉監督とジーター選手と引退の時を共に過ごす事が出来た事は本人達にとっても、その場にいた人にとってもすごい記憶・思い出に残る一日だったと思います。
日本の野球界を盛り上げて名や愛称を言うだけですぐ顔が出てくると言う人は、
野球ファンじゃない人でないと少ないと感じておりますから、国民栄誉賞は当然だなと思いました
2人が一緒の場でというのがとても嬉しい光景です。
そんな松井秀喜さん
成績だけ見ると他の選手とどういう違いがあるのでしょうか
プロに入る前の高校生の時
今岡 誠さん(ロッテー引退後解説者へ)
坪井 智哉さん (オリックスー現横浜一軍打撃コーチ)
高橋 由伸さん(巨人)
3年時には強打者を1番に据えるという土屋の方針により1番打者を務めるも、甲子園には出られなかった。でも2年間だけでこの成績というのもすごいのかなと思います
イチロー選手
松井秀喜さんとはタイプが違うけども成績凄いですね。
1歳違いだったとは思ってなかったので驚きました。
甲子園で2人が一緒だったらどういう対戦になったのかなと想像してしまいます。
・1996年 22歳の時:打率 314 本塁打38
・2000年 26歳の時:打率 316 本塁打42
・2002年 28歳の時:打率 334 本塁打50
学生の時と試合数が違うにしても平均して300超えたり
それに近い数字を出しておりその成績は年を追う事に上がって行ってすごいなと感じました。
メジャーに行ってから移動距離や試合数の違いに本塁打の数が減っていきましたが
慣れてきて調子が上がって来てた4年目のこの怪我がその後の成績に悪影響を与えていしまったのかなと悔やまれます。
江藤 智さん(巨人二軍打撃コーチ)
1996年 広島の時26歳:打率 314 本塁打 32
古田 敦也さん(コメンテーター 解説者)
1996年 ヤクルト 31歳の時:打率256 本塁打11
今岡 誠(ロッテー引退後解説者へ)
2002年 28歳の時:打率317 本塁打15
松井 稼頭央(楽天)
2002年 27歳の時:打点 332 本塁打 36
2015年 ヤンキースGM特別アドバイザー就任
「マスコミと良好な関係を築けないようでは、どんなに成績を上げても選手として失格だ」と自ら話すよう専属広報の広岡勲や、サンケイスポーツ記者の阿見俊輔をはじめとする各スポーツ紙の記者などマスコミとの関係は親密で、ヤンキース移籍後も毎試合後に会見を行い、記者たちの質問にも真摯に答える。延長などで時間が遅くなってしまった場合、取材を優先してユニフォームのまま会見を受けることもある。
「メディアの後ろに、ファンがいる」という考えを巨人時代から持っており、ニューヨークの地元記者からの信頼も厚い。ロバート・ホワイティングによれば、松井は初年度のキャンプにおいて、地元NYメディアの番記者たちを食事に招待したが、このようなことをする選手はヤンキースの長い歴史の中でも初めてだったという。
松井秀喜さんは慈善活動を積極的に行っており震災の被災地への寄付するなど、
その行動力はすごいと感じます。
うまくいかなかったときや失敗した日のインタビューは話す方も質問する方も、
言葉を選びながらと難しいと思います。
でも松井秀喜さんは淡々と自分を見つめ時に前向き時に自分に厳しく語っていたように見えました。
そういう姿勢や行動が成績以上にカメラを通じて伝わってきました。
これからも日本でも外国でもそのつながりを大事にしながら
人々にその人柄と笑顔を届けてくれたらと思います。
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