2023/12/15
take79
島田紳助さんは、高校時代にテレビでB&Bの漫才を見て衝撃を受け、漫才師になる事を志しました。1974年にB&Bの洋七と同門になるため島田洋之介・今喜多代に弟子入りし内弟子となり、下積み時代がスタートします。
松本竜介と1977年に「紳助・竜介」を結成し「ツッパリ漫才」で、1980年からの漫才ブームも追い風となり、一躍、全国区にまで知名度を上げました。
個人での仕事も増えてきた中、1985年5月に紳助・竜介は解散し、島田紳助さんは、司会者として人気になります。『サンデープロジェクト』『歌のトップテン』『開運!なんでも鑑定団』『オールスター感謝祭』『行列のできる法律相談所』『人生が変わる1分間の深イイ話』など多数の人気番組の司会を務めました。
また、漫才コンテスト『M-1グランプリ』を事実上のプロデューサーとして企画やスポンサー集めから携わり、大会委員長として審査員も務めました。
2011年8月23日、吉本興業本社にて記者会見を開き、芸能界引退を表明した。
島田紳助さんは、暴力団関係者との交際が発覚し、けじめを付けるため、自らの意思での引退すると記者会見で話しました。
島田紳助さんは十数年前、暴力団関係者と旧友を通じて知り合いました。自身の個人的なトラブルを、旧友に相談した際、その知人の暴力団関係者が解決してくれたのだそうです。
暴力団関係者と直接会ったのは4、5回程度だったそうです。
会見で、島田紳助さんは『トラブルを解決してもらい、恩を感じていた。問題はないという認識だった』『一番重い処罰を自分に与えた』と引退の理由を語りました。
続いては、島田紳助さんが、暴力団と関係を持ったきっかけを詳しく見ていこうと思います。
『紳助の人間マンダラ』という番組での島田紳助さんの発言がそもそものきっかけでした。
島田紳助さんが、収録に遅れそうになってタクシーを飛ばしていたときに、前を右翼の街宣車が軍歌を流しながらトロトロ走っていたという話を始めました。
すると、『何トロトロ走っとんねんボケカス!』と怒鳴ると、街宣車からいかついお兄ちゃんがゾロゾロ出てきて一悶着あったと明かしたのです。
面白おかしくネタにした島田紳助さんに、ある右翼団体の幹部が激怒し、関西テレビに猛抗議しました。
そのときは制作スタッフも謝って一応収まったそうですが、島田紳助さんは、馬鹿にした感じで本気では謝らなかったそうです。
そうすると、局に街宣車が来るようになり、局の業務にも影響が出るほどだったそうです。島田紳助さんはとても困り果てていたそうです。
右翼団体の街宣車が局に来るようになり、困り果てた島田紳助さんは、局側と一緒に解決策を考えれば良かったのですが、独りであちらこちらに相談し、どうにかできないかと動いたそうです。
そして、元プロボクサーの渡辺二郎さんを介して、山口組系の有力組織である山健組系(当時)極心連合会の橋本弘文会長を紹介され、橋本会長が右翼と交渉して攻撃は止んだそうです。
これにより紳助氏は橋本会長に深く感謝し、、島田紳助さんの大阪の自宅でホームパーティを開いた際には、橋本会長を招待したこともあるなど、家族ぐるみの関係を続けていたようです。
島田紳助さんと暴力団の関りが明るみになったのは、2007年6月、渡辺二郎さんが詐欺恐喝容疑で逮捕された際、大阪府警が渡辺氏の携帯電話を押収したことでした。
押収された携帯には05年6月から07年6月までの間、島田紳助さんとのメール106通が保存されていたのです。
これが証拠となり、島田紳助さんが、渡辺二郎さんを介して、暴力団と繋がり、交流していた事が発覚しました。
そして、吉本興業もこのメールを入手し、島田紳助さんに事情聴取し、島田紳助さんは橋本会長との交際を否定せず、それが問題になるならと、芸能界引退を決めたと考えられます。
暴力団関係者との交際が発覚し、けじめを付けるため、自らの意思での引退すると記者会見で話した島田紳助さんですが、芸能界を引退した本当の理由は他にあると言われています。
詳しく見ていこうと思います。
島田紳助さんが芸能界を引退した本当の理由として、出演番組の視聴率低下が挙げられると言われています。
「行列のある法律相談所」や「開運!なんでも鑑定団」以外のレギュラー番組の視聴率は低かったため、引退を決意したという噂がありました。
数多くの番組を持っていた島田紳助さんでしたが、思うほど視聴率がとれていない番組が多くなっていたようです。
真実かどうかは確証はありませんが、島田紳助さんには以前から、気に入った女性芸能人に対して、自身の芸能界での力を誇示し、“枕”を強要する枕営業の噂が囁かれていました。
2021年4月、モデルでタレントのマリエさんが、インスタグラムのライブ配信で、当時18歳だった15年前に、島田紳助さんから枕営業の誘いを受けたと告白したのです。
マリエさんが“枕”を断ろうとすると、所属していた事務所から「金輪際仕事がこなくなるけどいい?」と確認されたのだそうです。そして、断ると出演していたほとんどのレギュラー番組から、見事にハズされてしまったのだそうです。
当時、枕の噂があったタレントは、
暴露系YouTuberのガーシーさんは、昔から島田紳助さんと交流があったそうです。出会って10年くらいたったころ、人気絶頂でスケジュールに余裕がない島田紳助さんがわざわざ自分の父親のために時間を割いて大阪にまで通夜に来てくれたこともあったそうです。
ガーシーさんは
『反社会勢力との付き合いがあるって言った時も正直多分、何とでも嘘をつけたと思う。
知りませんとか、でもやっぱりそれをしなかったことはそれを全てを認めたことがやっぱり紳助さんの中の男気やと思う。』
『紳助さん自体が反社の人との付き合いを否定しなかったのは紳助さんがめえちゃめちゃ困っているときに手をさしのべてくれたのは吉本興業でもなく、友達でもなくそういう人たちだと聞いた。
そうやって自分の恩人に対して、ただやくざというだけで俺は嘘はつけないというタイプの人やったから、だからあの人は全ての事実を認めて芸能界を引退したんだと思う。』
と話し、暴力団との関係を隠せなかったわけではなく、島田紳助さんはすべてを認めて男気を貫きたかったため、芸能界を引退したと語りました。
続いては、島田紳助さんの経歴を詳しく見ていこうと思います。
松本竜介と1977年に「紳助・竜介」を結成した島田紳助さん。
当時の漫才師は揃いのスーツで漫才をすることが定番でしたが、デビュー当初は作業着にリーゼントという独特のスタイルで登場し、悪そうに見えて実は体が弱いというキャラづけで「ツッパリ漫才」スタイルで人気を博しました。
1980年に放送を開始した『THE MANZAI』に端を発し、漫才ブームが到来し、この漫才ブームの中心的存在だったのは、B&B・ツービート・紳助・竜介の三組でした。
島田 紳助・松本 竜介は、1985年5月16日、記者会見を開きコンビ解散を発表しました。
その会見で、島田紳助さんは、数日前に舞台を見たという、当時ほとんど無名だったダウンタウンの名を挙げてその芸をたたえ、『俺らの時代は終わった』と語りました。
実際、ダウンタウンの松本人志さんと出演していた番組『松本紳助』では、
『うめだ花月の袖で、サブロー・シローとダウンタウンの漫才を見てたときに、「アカン」と。サブロー・シローにもダウンタウンにも明らかに負けてる。これは、やったらいかんと。醜態をさらすだけやと。すぐに(吉本)本社へ言って、(紳助竜介)辞めます、って。師匠のところに行って。だから、君らやで。引き金になったのは。』
と語っていました。
島田紳助さんと松本人志さんは、お互いを認め合っていたようで、親交も深かったようです。
島田紳助さんの相方の松本竜助さんが亡くなった際、島田紳助さんはオールスター感謝祭の収録後、同期の芸人達と偲ぶ会を開いていたそうです。
しかし、感謝祭の打ち上げも行われていて、島田紳助さんは偲ぶ会を切り上げて感謝祭の打ち上げに戻ります。
すると、収録には参加していなかった松本人志さんが来ており、「お前なんでこんなところに来てん。どないした?」と声をかけると「今日は兄さんが竜助兄さんが亡くなって絶対寂しいし悲しいやろうと思ったから、僕が傍にいようと思ってきましてん。」と返事があり、島田紳助さんは人目をはばからず号泣したというエピソードもあります。
島田紳助さんは、1989年4月2日から、2010年3月28日まで生放送の報道・政治討論番組『サンデープロジェクト』で司会を務めました。
司会者として評価されるようになった島田紳助さんは、
など、数多くの番組でMCを務めるようになりました。
2001年には、吉本興業から「既存のあらゆる漫才の賞を凌駕する新しい漫才コンテストを吉本で作りたいので知恵を貸して欲しい」と頼まれ、漫才コンテスト『M-1グランプリ』を事実上のプロデューサーとして企画やスポンサー集めから携わり、大会委員長として審査員も務めました。
また、2007年からは、MCを務めるフジテレビ『クイズ!ヘキサゴンII』で、Paboや羞恥心といったユニットをプロデュースし、CDデビューなどさせました。
羞恥心は、『おバカタレント』と呼ばれたつるの剛士・野久保直樹・上地雄輔の3人によって結成され、発売したシングル3作は全てオリコン年間シングルチャートの20位以内にランクインするなど、大人気となりました。
続いては、島田紳助さんが過去に起こしたトラブルを見ていこうと思います。
2009年10月3日放送「オールスター感謝祭」生放送中に、東京03に対して島田紳助さんが激怒しました。番組でシルクドソレイユがパフォーマンスをしている最中に、島田紳助が東京03に詰め寄り、その後、東京03のメンバー3人は項垂れてしまい、番組に参加しなかったのです。
島田紳助さんが東京03に激怒した理由は挨拶が無かったことだとされています。
しかし、それだけで、島田紳助さんが怒ったわけでは無く、事前に「シルク・ド・ソレイユが演じている間はカメラの邪魔になるので移動しないように」と共演者に注意していたにも関わらず、東京03は注意を聞かずに移動して映り込んでしまったことが、発端で怒りを露わにしたと言われています。
番組終了後、東京03はマネージャーと共に島田紳助さんのところへ謝罪しに行き、本番が終わった後の打ち上げでは、島田紳助さんは東京03を誘い、一次会、二次会に行き、そこで彼らに謝罪し、二次会では、島田紳助さんの指名で東京03が司会を務めたのだそうです。
島田紳助さんがエドはるみさんを
『こんなおばさんがなんで売れているのかわからない。トークもたいして面白くないし一発屋のオーラ出てるから間もなく消える』
と、酷評したことで確執が生まれ、エドはるみさんがテレビに出演しなくなったのは、島田紳助さんが干したと噂になりました。
しかし、エドはるみさんは、この噂を間接的に否定しています。エドはるみさんが、テレビに出演しなくなったのは、担当していた新人マネージャーの適当な対応にあったとブログで明かしたのです。
ですので、島田紳助さんがエドはるみさんの事を干し太という噂は、真実ではない可能性が高いと考えられます。
島田紳助さんが引退した後に、石橋貴明さんとのバトルが勃発したと報道されています。
もともと石橋貴明さんは、島田紳助さんに対抗意識を持っており、おぎやはぎから島田紳助さんの番組になじめないと相談されたときも「うちで使うから出なくていい」と言い切ったとか。
バトルが勃発したのは、島田紳助さんが引退会見をしたときのパロディを石橋貴明さんが演じたことだったそうです。
『とんねるずのみなさんのおかげでした』の中で石橋貴明さんが島田紳助さんの引退会見を模したギャグを披露し、それを知った島田紳助さんが激怒し、「オレのとこへ来て、謝まらんかい、コラ!」と直接、石橋貴明さんに電話口で怒鳴り散らしたということです。
これに対し石橋貴明さんは「てめえが来いよ!!」と答えたと報道されました。
続いては、島田紳助さんが現在何をしているのか、見ていこうと思います。
島田紳助さんは、筋トレを継続して行っており、筋肉もりもりになっているのだそうです。
筋トレを行っていのは、一緒にゴルフや野球をしている仲間の年齢が若く、パワーで負けたくないという理由から筋トレをしていると語っていたそうです。
引退後の島田紳助さんを知る、宮根誠二さんは「ちょっとしたレスラーみたいになっている」、坂東英二さんは「今の紳助の体は蝶野正洋よりすごい」と語っています。
島田紳助さんは、芸能界を引退後はお仕事はされていません。
貯金額がどこかの県の予算くらいあると語っていたことから、3000億円くらいある可能性があると噂になっています。
また、2007年に報道されていた島田紳助さんの資産内訳で、心斎橋STAGEAでの資産額はビルと土地で13億と報じられていました。
他にも、複数の不動産を所持されているようで、毎月の賃料だけで、相当の金額が入ってきていると考えられます。
島田紳助さんは、芸能界でやりたいことはやりきったと考えており、芸能界に戻ることに関して、少しも考えていないと語っています。
ネット上で話題になっている自身の復帰説について知ると、『ネット見てたら、『復帰を画策してる』みたいなの書いてあったけど、1ミリも戻ろうと思ってない』とキッパリと否定されていました。
続いては、島田紳助さんのように暴力団と関わりが噂されている芸能人を紹介します。
市川 團十郎 白猿(当時、市川海老蔵)さんは、2010年に西麻布の飲食店で暴行を受け、左頬を陥没骨折、さらに前歯の損傷、鼻の腫れなど顔面全体に大ケガを負いました。
傷害容疑で捜査が開始されましたが、どうやら市川海老蔵さん側がトラブルの元凶を作ったらしいと判明し、自身は無期限の謹慎処分を受けることとなったのです。
トラブルの相手は、関東連合のメンバーで、そこに仲介したのが「住吉会系」の暴力団だったと噂されています。
市川海老蔵さんは酒癖が悪く、客とトラブルになるケースが多いので、用心棒という形で暴力団の組員を雇っているといった噂も流れました。
元俳優・押尾学さんは、2009年に六本木ヒルズの高層マンションの一室で、合成麻薬を服用しながら愛人と肉体関係を持ち、愛人の容体が急変したため愛人を放置し、保護責任者遺棄致死罪と麻薬取締法違反で逮捕されました。
証拠隠滅を図り、死人に罪をなすりつけようとするなど悪質性が見られたため実刑判決を受けました。
この際、使用していた合成麻薬の入手先が、暴力団ではないかと疑われており、暴力団との関係を噂されました。
北島三郎さんは、若手の頃は暴力団からの誘いを受けて、収入の多い営業を回らせてもらった事で、今の自分があると強く認識しているそうです。
そのため様々な形で援助をするなど、ズブズブの関係を継続中と言われています。暴力団稲川会の広告塔とも呼ばれているそうで、1984年、稲川聖城総裁をモデルに製作された映画『修羅の群れ』の主題歌に「神奈川水滸伝」を提供し、その曲は後に稲川会の会歌となりました。
さらに1986年には稲川会の新年会に出席していたことが問題となり、弟子の山本譲二さんともどもその年の紅白歌合戦出場を辞退するという騒動もありました。
大物演歌歌手の多くが、暴力団と関係を持っているとも噂されています。
島田紳助さんの引退の真相、引退したあとの現在の収入や資産状況、今後芸能界に復帰する可能性があるのかなどをご紹介してきました。
暴力団との関りを指摘され、引退した島田紳助さんでしたが、今は悠々自適な隠居生活を送られているようで、芸能界への復帰はありえないそうです。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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島田紳助さんの引退の真相について気になっている人は多いです。島田紳助さんは表向きには黒い組織との関わりが理由で引退したとされていますが、本当の理由は女性関係など別のところにあるのではないかといわれています。
本記事では、島田紳助さんの引退について詳しく解説します。引退したあとの現在の収入や資産状況、今後芸能界に復帰する可能性があるのかも紹介するため、気になる人はぜひ最後まで内容を確認してみてください。