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2023/11/27
r.y6
テレサ・テンは、1970年代から1990年代にかけて中華圏のみならず日本やタイ、マレーシア等のアジアで人気となった歌手です。そうして、彼女は“アジアの歌姫”と呼ばれました。
中華圏でのテレサ・テンの名前は、“麗君(デン・リージュン)”といいます。そして、彼女の出身地は台湾です。なおテレサ・テン(Teresa Ten)という名前は、英語名となっています。
テレサ・テンの日本でのデビュー曲は、『今夜かしら明日かしら』という楽曲でした。この曲はアイドル歌謡曲路線になっていました。日本デビューした頃にはテレサ・テンは既にアジアのスターとなっていましたが、『今夜かしら明日かしら』は売れ行きがさほど芳しくなかった模様です。
テレサ・テンは既に亡くなっています。では、テレサ・テンの死の真相とはどの様なものだったのでしようか。彼女の死について迫ってみましょう。
テレサ・テンは、1995年5月8日に42歳で亡くなりました。亡くなった場所は、タイのチェンマイにあるザ・インペリアルホテルメイビンというホテルでした。チェンマイは、テレサ・テンが生前にこよなく愛した都市だといいます。テレサ・テンが亡くなってから27年が経過しています。
テレサ・テンは、恋人であり専属カメラマンのフランス人男性ステファン・ピエールと、ホテルの15階にある特別室に長期滞在していました。その最中の悲劇だったのです。
ザ・インペリアルホテルメイビンには、静養のために度々訪れていたといいます。亡くなった時にも静養が目的で滞在していたのです。では、テレサ・テンは体調を崩すなどしていたのでしょうか。
テレサ・テンが亡くなったのは、気管支喘息による発作が原因だとされています。彼女は緊急搬送されましたが、普段より時間がかかってしまいました。ラム病院という病院に搬送されたものの、その時には既に亡くなっていたという話があります。
5月28日に、台湾の台北市第一殯儀館にてテレサテンの葬儀が行われました。葬儀は国葬並みであり、3万人が参列したとされています。台湾だけでなく、アジア各地からファンが駆け付けテレサテンを見送りました。
テレサテンの遺体は、防腐加工が施され土葬されています。この方法では、10年以上生前の姿を保てるとされています。こうした方法が採られたのは、テレサテンの生前の功績を称えてのものだったという説があるでしょう。
インターネットでは、テレサテンの死後の顔写真が出回っています。ショッキングな画像ではありますが、亡くなった後のテレサテンの顔を見ることができるのです。
テレサテンは気管支喘息により亡くなったとされていますが、暗殺説もありました。続いては、テレサテンの暗殺説について迫ってみたいと思います。テレサテンが暗殺されたとは、一体どういったことなのでしょうか。
1989年6月に、天安門事件が起きました。これは、民主化を求め集まったデモ隊に対し軍隊が武力行使したため、多数の死傷者が出た事件です。中国の北京にある天安門広場において発生しています。この天安門事件の前後に、テレサテンは表舞台から姿を消していました。
そのため、”何等かの大きな陰謀に巻き込まれ、暗殺されたのではないか”という噂が出たのです。
テレサテンは”スパイだった”という説まであります。テレサテンは語学力に長けており、自身の母国語である台湾語だけでなく、北京語に広東語、山東語に加えて、日本語や英語、マレー語、フランス語までも話すことができました。
そうしたことから、何か特別な訓練を”特殊諜報員”として受けたのではないかと言われるようになったのです。また彼女は歌手として世界の各地を飛び回っていたこともあり、各地に潜伏しているスパイとも連絡を取り合えたとの憶測まで存在します。
さらには、テレサテンはスパイを辞めたかったため、最後の任務地として赴いたタイで、”辞められては困る”となったスパイの機関により”口封じ”のために暗殺されたとも言われているでしょう。しかし、こうした暗殺説は単なる噂に過ぎません。
ここで、テレサテンの生い立ちについてご紹介します。テレサテンはどういった環境で生まれ育ったのでしょうか。彼女の家族や兄弟についてもお伝えしましょう。
テレサテンは、1953年1月29日に台湾(中華民国台湾省雲林県褒忠郷田洋村)で誕生しました。彼女が健在であれば、2022年で69歳ほどになっていたでしょう。
テレサテンの父親は中国北省邯鄲市出身の軍人であり、母親は中国山東省出身の女性でした。両親は、1949年に発生した中国本土の内戦に敗れ、蔣介石と共に大陸から台湾に移った”外省人”です。外省人とは、中国にルーツがありながら台湾に定住をしている人たちを指します。
テレサテンには3人の兄と1人の弟がいて、男兄弟の中で育ちました。男兄弟ばかりの中にあり、紅一点の存在だったということでしょう。
次に、テレサテンの経歴について探ってみたいと思います。42歳で惜しくも亡くなったテレサテンですが、どういった経歴を持っているのでしょうか。
テレサテンは、10歳の時にラジオ局が主催した歌唱コンテストで優勝したことで、注目を集めました。そして、14歳でプロ歌手としてデビューしています。早くに、歌手としての才能を開花させていたのです。
テレサテンは女優デビューもしていました。16歳の頃には主演映画が制作され、女優デビューしたのです。これを機に、中華文化圏だけでなくシンガポールやタイ、マレーシアなどといったアジア全域で人気を獲得していきます。
なお日本でも、1985年にドラマ『子供が見てるでしょ!』の第7話に本人役で出演しました。
1973年に、舟木稔(後のテレサテンの所属レコード会社・トーラスレコードの社長)がテレサテンのアジア人気に目を付けました。そして、当時勤務していた日本ポリドール(現・ユニバーサルミュージック)への、テレサテンの契約を実現させました。
舟木稔は、台湾や香港に幾度となく通い、テレサテンの両親を説得したのだといいます。こうして、テレサテンは翌年の1974年に21歳で日本での歌手デビューを果たしました。
テレサテンは、演歌路線へと変更した楽曲『空港』を発表しました。この楽曲で、彼女は第16回日本レコード大賞の新人賞を獲得しました。これで、名実共にテレサテンは日本でもとトップスターになったということです。
1980年代にテレサテンが歌った、『何日君再来(ホーリー ジュン ザイライ・いつまた君と)』のカバー曲が中国において人気を得ました。これに関して、中国共産党はテレサテンの影響力を恐れました。そして、中国共産党はテレサテンの楽曲を放送禁止にするなどしたのです。
しかしそうした環境下であっても、中国の人々は彼女の歌を密かに視聴していたのでした。
1987年に、テレサテンは香港で暮らしていました。そして、香港ハッピーヴァレー競馬場で開催された民主化支援コンサートに出演しました。また1989年には、『天安門事件』が中国の北京で起きています。テレサテンは、中国共産党の一党独裁政治を否定していました。
これにより、彼女はフランスのパリに移住しています。中華圏にいられなくなったのかもしれません。
テレサテンは、1979年にインドネシアのパスポートを使い日本に入国しようとしました。それが原因で、旅券法違反によって国外退去処分となってしまいました。それもあり、日本では長く活動をしていませんでした。その後の1984年に、テレサテンの再来日が許されます。
これにより、テレサテンは再び日本で活動をするようになります。彼女は『つぐない』という楽曲で日本再デビューを果たしました。
テレサテンには、日本でリリースした多数の名曲が存在します。ここで、テレサテンのヒット曲を一部ご紹介します。彼女には、どういった名曲があるのでしょうか。
『つぐない』は、1984年に発売されたテレサテンの14枚目となるシングルです。テレサテン自身で、オリコンチャートで初のベストテン入りを果たした楽曲でもあります。この楽曲は荒木とよひさ作詞、三木たかし作曲となっています。『愛をつぐなえば別れになるけど』など、特徴的な歌詞となっているでしょう。
1985年リリースの『愛人』は、テレサテンの15枚目のシングルとなります。テレサテンの代表曲の1つでもあります。全日本有線放送大賞と日本有線大賞で、『つぐない』に次ぎ2連覇を果たしました。また、1985年の第36回NHK紅白歌合戦には”楊貴妃”がイメージされたデザインの衣装で初登場しています。
1986年に発売された16枚目のシングルが、『時の流れに身をまかせ』です。この楽曲も荒木とよひさと三木たかしのタッグにより作られた大ヒット曲です。また、『時の流れに身をまかせ』は第19回日本有線大賞と第19回全日本有線放送大賞において、それぞれ史上初である、3年連続のグランプリを受賞しています。
なお、東西の有線大賞において3年連続で同時に大賞・グランプリを達成したのは、テレサテンのみです。
『別れの予感』は1987年発売の18枚目のシングルです。この楽曲の作詞・作曲も荒木とよひさと三木たかしが手がけました。恋人との終わりを予感している、女性の切ない心情を歌った楽曲でもあります。また『別れの予感』は様々なアーティストにカヴァーされています。
例えば、門倉有希のカバー・アルバム『プリズム』に収録されているでしょう。また中森明菜は、カバー・アルバム『ZERO album〜歌姫II』に『別れの予感』を収録しています。テレサテン自身や彼女の楽曲は、他の歌手たちにもリスペクトされているのでしょう。
テレサテンの最後となったと考えられるシングルが、1997年の『夢立ちぬ』でした。抒情的なメロディーの楽曲となっているでしょう。この楽曲のカップリングは、『我只在乎你』という『時の流れに身をまかせ』の中国語バージョンです。
YouTubeでも、テレサテンの各ヒット曲を聞くことができます。テレサテンは既に他界をしているため、現在の彼女のステージでの歌声やテレビでの歌声を聴くことはできません。しかし、現在はYouTubeに彼女の楽曲がアップされているので、彼女の遺した名曲たちを聴くことができます。
最後に、テレサテンが患っていた病気について迫ってみたいと思います。テレサテンが病気だったというのは本当なのでしょうか。
テレサテンは、42歳という若さで気管支喘息により命を落としています。テレサテンの実兄であるフランク・テン氏によると、彼女は9歳の頃から喘息を患っていたとされています。テレサテンは子供のころから喘息に苦しんできたのです。
テレサテンは、死の5か月ほど前にあたる1994年の年末に、喘息の発作により危篤状態に陥ったことがありました。彼女に一体何が起こったのでしょうか。
テレサテンと恋人であったステファンピエールは、7年ほど交際しており同棲もしていたとされています。結婚も視野に入れていた可能性もあるという話もあります。その恋人・ステファンピエールは、ヘビースモーカーであったという噂があるのです。
彼は、空調を良くするため(たばこを吸っているため)か、ホテルの部屋の冷房を強めていました。喘息の患者にとっては、強い冷房は体に良くないといいます。テレサテンの体調が悪くなったのは、冷房の効きすぎもあったことも考えれるでしょう。
”アジアの歌姫”と形容される歌手のテレサテンは、今から27年前に死去しています。彼女は、恋人と長期滞在していたタイのホテルで息を引き取りました。その死因は、気管支喘息による発作でした。テレサテンは、9歳の頃から喘息を患っていたといい、亡くなった時も喘息の静養をしていとされています。
テレサテンは暗殺されたなどの噂もありますが、彼女は発作により42歳で亡くなってしまったのです。しかし、彼女の遺した歌は後世にまで愛され続けていくことでしょう。
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