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2023/11/27
r.y6
山口百恵さんが、芸能界に入りたいと思うようになったのは1972年で13歳の時のこと。
同じ年齢の森昌子さんが、歌手として輝いているのを見て、「自分もやってみたい」と思うようになったのだとか。
1972年に、日本テレビで放送された「スター誕生!」に応募すると、予選を通過して決勝に進出。予選は1人でしたが、決勝戦には母親と妹が「落ちた時になぐさめるため」として応援に駆けつけています。
歌の審査では、牧場ユミさんの「回天木馬」をチョイス。母親と妹の心配をよそに、山口百恵さんは、歌いながら「私は歌手になれる」と信じて疑わなかったそうです。
審査員となるのは、スカウトマンたち。歌い終わった山口百恵さんに、スカウトしたいの意志を伝えるプラカード次々に上がり、トータル20社からのオファーとなりました。
これが伝説の歌手、山口百恵さんの誕生の瞬間だったのです。
芸能界にデビューした最初の仕事は、1973年に公開された映画「としごろ」です。メインキャストの京子役を演じました。
1974年4月14日に作品と同じ楽曲名「としごろ」をリリースし、歌手としての活動も開始。
この当時にブレイクした同じ歳の森昌子さん、桜田淳子さんと共に「花の中三トリオ」と呼ばれ、瞬く間に売れっ子になったのです。
ちなみに3人が進級するごとに「花の高一トリオ」、「花の高二トリオ」というように実際の生活に合った名前へと変更されていき、最後は「花の高三トリオ」が最後で解散したと言われています。
実際に3人でユニットを組むなどの活動はしてなかったので、「解散」という言葉は厳密には正確ではありません。
その後は映画に出演したり、ドラマ「赤いシリーズ」に出演したことで演技力の高さが評価されるなど、女優業としても順風満帆。
歌手としては、デビュー曲の「おとしごろ」が期待値にセールスが届かなかったので、2枚目のシングル以降は、大人っぽく大胆でクールなイメージへと路線転換を図りました。
そして3枚目のリングル「ひと夏の経験」が爆発的なヒットでセールス75万枚を記録し、レコード大賞や日本有線大賞など各種賞を総なめにして、押しも押されぬ歌姫としてのポジションを確立しています。
「青い果実」や「イミテーションゴールド」、「プレイバックPart2」など33曲をリリースし「百恵フィーバー」と呼ばれる社会現象に繋がることに。
山口百恵さんの人気の秘密としては、幼い容貌でも放っている雰囲気が大人びていて、歌の歌詞がきわどい性表現を連想させる歌詞のギャップと、背徳感が魅力に繋がっていたと言われています。
山口百恵さんは、1974年に公開された映画「伊豆の踊子」で共演した三浦友和さんと、1980年3月7日に婚約したことを発表しました。
この時に、「私は、我儘な生き方を選びました。お仕事は全面的に引退させて頂きます」と初めて引退について明かしています。
婚約を滞りなく済ませた後で、1980年10月で21歳の若さで芸能界を引退しました。まさに人気絶頂だったので、潔さは大きく各メディアが取り上げています。
2人は、1980年11月19日に、東京都港区赤坂に所在する協会で結婚式を挙げて、披露宴は東京プリンスホテルで招待客1800人を招いて開催されました。
披露宴の仲人は宇津井健夫妻で、披露宴の司会を担当したのは岡田真澄さんと徳光和夫さんというかなり豪華なものだったようです。
ここからは、山口百恵さんの壮絶な生い立ちについて見ていきましょう。まるで小説のような出自で、若い頃はかなり苦労をしていたことが明らかになっています。
山口百恵さんは、デビュー時に母親と妹の3人の母子家庭で育ちました。かなり経済的に困窮していたようで、母親は生活保護を受けながら、内職の仕事をしていたのだとか。
それだけでは、3人が慎ましく生活するにも厳しいので、中学校1年生の頃は、新聞配達のアルバイトをして家計を支えてきたのです。
実は、父親は別の女性と結婚していて、妻との間に子供も誕生していたのです。つまり山口百恵さんは、愛人の娘ということになりますね。
父親から認知はされていたのですが、週に一回母親と妹と3人で住んでいる家に来ていたので、決して一般的な親子関係とは言えません。
父親は、金銭的にルーズな男性だったので、母親は苦労することになりました。
母親が、山口百恵さんを妊娠した時に、父親は「責任をきちんと取るから」という言葉を信じて出産したものの、結局金銭的な援助は一切ありませんでした。
内職で、厳しい家計をやりくりしていたのですが、山口百恵さんが中学生になったことで、母親は将来高校に入学するためのお金の工面を父親にお願いしたそうです。
しかし、父親はアッサリと却下。金銭的な援助を断ったという問題だけではなく、父親から暴力を受けていたのです。
山口百恵さんの生い立ちは、かなり複雑なものですね。母親の心労を目の当たりにしておいたので、楽をさせてあげたいという理由もあったのかもしれません。
実は、デビューするまで、自身が愛人の子供であることを知りませんでした。
このことを知るきっかけになったのは、デビュー後に山口百恵さんの生い立ちを週刊誌が報じたことにあります。
記者から父親について聞かれると「私には、父はいない。一つの肉体としてのあの人が地球上に存在していたとしても、私はあの人の存在そのものを否定する」と、断言しています。
結婚することになった時に、父親に対して、これまで自身が稼いだお金を、手切れ金として渡して、親子の縁を切ったことを明かしています。
気になる父親の素姓について諸説ありますが、職業は医師で、氏名は、久保茂さんだと言われています。
医師は裕福なイメージがありますが、山口百恵さんは詳細を明かしていないので、この辺りは噂の域を出ていません。
父親は、山口百恵さんが歌姫としてのポジションを確立した娘に対してお金を貸して欲しいと頼んでいたのだそうです。
1980年10月で芸能界を引退し、三浦友和さんと子供を支える妻として母親として、支え続けている様子が度々報道されていましたが、現在はどのようにしているのでしょうか。
結婚してから40年以上が経過。2021年現在の年齢は62歳です。趣味を活かして様々活動をしているようです。
1987年頃から独学でキルト製作を始めました。その後近所に住んでいるキルト作家の鷲澤玲子さんに師事して、今も制作を続けています。
鷲澤玲子さんによると、自宅で教室を開いているのですが、山口百恵さんが生徒して来ることで、他の生徒さんが緊張してしまったのだとか。
それでも、徐々に打ち解けていって、暫くすると皆で食事に行くほど仲が良くなったのだとか。
さらに、電車を使った移動をしたことがない山口百恵さんのために、生徒が切符の買い方をレクチャーするなど、微笑ましいものだったようです。
作品が東京国際キルトフェスティバルなどに出品されることもあります。今では山口百恵さんもキルト作家という肩書が板についてきたようですね。
2019年には、日本ヴォーク社から、本名の三浦百恵名義でキルト作品集「時間の花束」を出版しています。
出版社の担当編集者は「ご自身が着想、デザインして作ったキルトは、色使いがとても美しい」と絶賛コメントを発表。
時間の花束には、これまでに友人や家族のために作った作品約70点を掲載し、家族とのエピソードについても山口百恵さんが綴っています。
21歳の若さで惜しまれつつ芸能界を引退し、それ以降芸能界に復帰している様子は一切ありません。
それでも、リリースした楽曲の印税は、令和になった今も入っているようです。ちなみに、印税だけで年収が1000万円くらいはあるのではないかと言われています。
現役時代のレコードの売上が、4億8000万円はあったと言われているので、そのくらいの年収を得るのは頷けますね。
2020年6月12日に長男の三浦祐太朗さんが、声優の牧野由衣さんと結婚。そして10月13日に妻の妊娠が報告されています。
2022年に出産予定なので山口百恵さんにとっては、初孫ということになりますね。
ちなみに、牧野由衣さんと山口百恵さんはLINE友達です。嫁姑関係は、良好であるようですね。
山口百恵さんは、引退する直前に自叙伝を出版しています。当時は、日本を代表する人気絶頂の歌姫のこれまでの人生に対して赤裸々な告白が、世の中の大きな注目を集めました。
山口百恵さんが引退したのは1980年10月ですが、引退コンサートを控えた9月に自叙伝「蒼い時」を刊行。その内容が衝撃的だと、話題を呼びました。
本の内容は、自身の生い立ちの秘密や母親や妹との生活、思春期時代に抱えていた葛藤、中学生で訪れた初潮、そして芸能界に入った後のエピソードとして芸能界裏話について綴られています。
さらに自叙伝には、三浦友和さんとの馴れ初めだけではなく、初体験まで赤裸々に書かれています。
当時の芸能界では、国民的な歌手がここまで人生を赤裸々に綴るということがなく、むしろタブー視されていたので、興味感心を持った人が多かったようです。
発売から僅か1ヶ月で、自叙伝の売上部数は100万部を超えて、さらに年末になると200万部を超えるベストセラ―となりました。
山口百恵さんは、引退する直前にファイナルコンサートを行いファンを魅了しました。国民的な歌手の最期のステージということで、かなりの注目を集めたそうです。
ファイナルコンサートの演出は、令和の現在も語り継がれる伝説のコンサートだと言われています。
引退を飾る最後のステージとなったのは、1980年10月5日に日本武道館で開催されたコンサートです。この様子はTBSで生放送中継され、久米宏さんが番組の司会を務めました。
コンサートの最後の曲に選ばれたのは、1980年8月にリリースされた、シングル「さよならの向こう側」です。
この楽曲は、山口百恵さんからファンへのメッセージソングで、6分に渡る長いスロー・バラード楽曲。
山口百恵さんは歌いながら感極まり、ぽたぽたと涙を落としながら絶唱しました。
こうして最後の曲を歌い終えると、深々と一礼してマイクをステージの中央に置き、静かに舞台裏へと去っていきました。
マイクを置くという行動は、当時振り付けを担当していた、西条満さんが考えた演出です。伝説的な演出として今でも語り継がれています。
伝説となった引退コンサートから40年以上経過しています。2020年10月にNHKBSプレミアムでファイナルコンサートの模様が放送されました。
反響を呼び再放送を望む声が次々に寄せられ、NHKはこれに応えています。2021年1月30日に、ファイナルコンサートの模様をアンコール放送されました。
山口百恵さんは、1973年から1980年までの期間に国民的な歌手として駆け抜けて、人気絶頂の21の若さで引退した伝説の歌手。
その生い立ちは壮絶なものでした。父親は別の女性と家庭を持ち、子供として認知はされていたものの週に1度しか会わない生活だったそうです。
母親は愛人の立場で生活は苦しいものでした。13歳でオーディションに応募し、デビューすると次々にメガヒットを飛ばし、国民的な歌姫に。
しかし、1980年にかねてより交際していた三浦友和さんとの結婚を機に引退。山口百恵さんによって出版された自叙伝「蒼い時」が赤裸々すぎると話題を呼びました。
引退後は家庭を守り、趣味としてキルト作家に弟子入りして作品を作っています。既に長男の三浦祐太朗さんは結婚していて、嫁との仲は良好です。
2021年1月にファイナルコンサートの様子がNHKでアンコール放送されており、国民から今でも愛され続けている様子が窺えます。
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