2023/12/15
take79
2022/03/29 更新
芸能界から引退してから22年ほどが経つ上岡龍太郎。彼の経歴はどの様なものだったのでしょうか。そこで今回は、上岡龍太郎の経歴や結婚、子供について探ってみたいと思います。また、上岡龍太郎の死亡説や現在に関してもお伝えします。
上岡龍太郎さんは、吉本興業に所属しているお笑いコンビ「ミキ」の2人と親族関係にあります。
ミキの2人は、昴生さんと亜生さんとの実の兄弟コンビで、上岡龍太郎さんから見ると甥になります。
上岡龍太郎さんには、姉が1人異母妹が1人の3人兄弟で、異母妹が結婚後に産んだ子供2人がミキを結成したのです。
異母妹は、息子2人から、お笑いをやりたいと打ち明けられた時に、上岡龍太郎さんが若い頃に芸人として苦労をしている様子を知っていたので、泣いて反対したのだとか。
親に泣かれるのはバツが悪かったので、一般企業に就職した2人でしたが、夢を諦めきれず「ミキ」を結成。
異母妹は息子にお笑い芸人をすることを許す条件として、名前が売れる日までは、決して上岡龍太郎さんの甥にあたることを内緒にすることを約束させました。
高学歴芸人として知られる「メイプル超合金」のカズレーザーさんは、憧れの男性像は、上岡龍太郎さんであることを2018年に放送された「オー!!マイ神様!!」に出演した際に明かしています。
カズレーザーさんによると、神様的存在として憧れていて、「ものを知っていることを面白くした芸人で幼少期からファンだった」と語りました。
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2000年に引退するまで、数々の番組に出演してきた上岡龍太郎さん。両親は教育熱心で、自身も大学で勉強することを考えていたようですが、大学受験を期に大きく人生は一変。
なぜ、お笑い芸人になったのでしょうか。知られざる上岡龍太郎さんの経歴について、見ていきましょう。
上岡龍太郎さんの父親は弁護士。母親は資産家の令嬢として生まれ高学歴というインテリな両親でした。
母親が特に教育熱心で、家事をお手伝いさんに任せて自ら上岡龍太郎さんに勉強を教えていたのだとか。
高校3年生の時に立命館大学を受けたのですが不合格。目標だった大学進学を諦めてバンドボーイや、ジャズバンドの司会をして過ごしていました。
1960年に横山ノックさんからの誘いを受けて、横山パンチという芸名を名乗り、横山フックさんと共にお笑いトリオ「漫画トリオ」を結成。時事ネタを風刺するコントは、当時のサラリーマンに大受けしました。
お笑いコンビのネタの開始する時に3人で「パンパカパーン、今週のハイライト!」という台詞を入れるのですが、これが流行語に選ばれ、社会現象となったのです。
お笑い芸人として、漫画トリオは成功したかに見えましたが1968年に横山ノックさんが参議院選挙に出馬したことで、「漫画トリオ」自体が活動を休止することに。
なお、横山ノックさんは、無所属で出馬し当選。その後、参議院選挙に4回当選し1995年には参議院議員を辞職したうえで大阪府知事選挙に出馬し当選しました。
2期目の府知事選挙も当選したのですが、選挙活動中にボランティアの女性に対し強制わいせつが行われてた、という趣旨で告訴されたことが原因となり、辞任に追い込まれまれています。
漫画トリオを解散後の上岡龍太郎さんは、ピン芸人として再起。作家の香川登枝緒さんにより、「伊井パンチ」という芸名を命名してもらい一時期名乗っていました。
その後、婿養子であった父親の「上岡」を貰い、上岡龍太郎を名乗るようになったのです。
ピン芸人として活動するようになると、ひとりしゃべりの技を磨き、1970年代には、大阪と愛知のラジオ番組でレギュラー番組を獲得し、人気を博するようになりました。
かつての相方である横山ノックさんから誘われてトークバラエティ番組の「ノックは無用」、「ラブアタック」などで司会を務めるうちに、いつしか関西圏内における有名タレントへと成長していきました。
出演する番組内で、東京進出について質問されると「俺は絶対に東京に行かへん」と拒否していましたが、1984年に「笑っていいとも」のテレホンショッキングに出演。
その後関西ローカルの深夜番組「鶴瓶上岡パペポTV」が人気を博し、日本テレビをはじめ、各地で放送されることに。
大規模会場での番組ロケも行われたこともあり、番組自体の知名度も上岡龍太郎さんの知名度アップにもつながり、結果的には東京進出を後押しする形になりました。
そして1988年からは自身の代表番組である「探偵ナイトスクープ」の所長に就任。こうして本格的に東京進出を果たしました。
上岡龍太郎さんは、お笑いだけではなく演劇界にも進出しています。1990年代に入ると、上岡演劇祭という小劇場系の演劇賞を主催することで、劇団の振興に貢献していたのです。
ここからは、上岡龍太郎さんのプライベートについて紹介します。やはり気になるのは、結婚ではないでしょうか。
上岡龍太郎さんは既婚者であることが判明していますが、妻との馴れ初めがドラマチックだと話題を呼びました。妻はどんな人物なのでしょうか。
上岡龍太郎さんが結婚したのは1969年のこと。当時の上岡龍太郎さんは27歳で、妻となったのは一般人の女性です。年齢が8歳下の友岐子さんというお名前であることが判明しています。
それ以外の詳しい生年月日や出身校、顔写真の画像など詳しいプロフィールは明かされていません。
ネットで検索をすると、桂米朝さんの告別式に夫婦で出席した際の写真画像が出回っています。
妻の友岐子さんは、上岡龍太郎さんが若い頃に「横山パンチ」と名乗り「漫画トリオ」を結成していた時代からのファンだったそうです。
2人が出会ったのは、上岡龍太郎さんが21歳で妻の友岐子さんが13歳の時でした。
ファンの中でも、友岐子さんに対して何か感じるものがあったようで、上岡龍太郎さんはずっと「君は将来僕と結婚するんだ」と口説き続けていました。
実際に6年が経過して友岐子さんと本当に結婚しているので、ある意味上岡龍太郎さんは有言実行だったということになりますね。
妻の友岐子さんは、1979年に関西ローカル番組の「奥さまリビング」にレギュラー出演した経歴があります。
その中でも「二人でお茶を」という公開お見合いコーナーで、アナウンサーの桑原征平さんと共に、司会を務めていたのです。
ちなみに、桑原征平さんは上岡龍太郎さんの高校の後輩という間柄だったという意外なエピソードが知られています。
ただし、元々一般人だったということもあったのか、これ以降レギュラーとして番組に登場することはなく、主婦をしながら、上岡プロモーションの社長業に力を入れていました。
妻の友岐子さんとの間には子供が1人誕生しています。1人息子で小林聖太郎さんといいます。どのような人物なのでしょうか。
1971年3月3日に誕生した1人息子は小林聖太郎さんというお名前です。苗字が親子で異なるのか、と思う方もいるかもしれません。
実は、上岡龍太郎さんの本名は「小林龍太郎」なので、本名を名乗っているということになりますね。
小林聖太郎さんは、大阪府大阪市で生まれ育ちました。ミキの2人とは従兄という関係ですが、2人と交友があるのかどうかは判明していません。
1994年に関西大学法学部政治学科を卒業し、ジャーナリストである今井一さんの助手を務めました。
これまでに、ドキュメンタリー「阪神大震災の被災者にラジオ放送は何ができたか」、「大事なことは国民投票で決めよう」などの作品の取材や執筆活動を行ってきたのです。
1996年に今井一さんの友人である原一男監督が主宰する「CINEMA塾」に第1期生として入塾し、1998年に制作されたドキュメンタリー映画「映画監督・浦山桐郎の肖像」の助監督を務めました。
こういった下積みを経て2006年に「かぞくのひけつ」で監督デビューをし、現在も映画監督業を続けています。
2011年には「毎日かあさん」、2015年には「マエストロ!」、2017年には「波紋ふたりのヤクビョーガミ」、2019年には「初恋~お父さん、チビがいなくなりました」などの作品を作り上げています。
上岡龍太郎さんは2000年に芸能界を引退後に、死亡説が囁かれていますが本当なのでしょうか。真相について調査しました。
ネットで上岡龍太郎さんについて調査すると、あちこちで死亡説が散見されています。しかし、特に訃報が入っている様子は見られません。
上岡龍太郎さんは、2022年3月20日の誕生日で80歳を迎えました。生存していることは間違いありませんので、「死亡説は真実ではない」ということになります。
では、なぜ死亡説が流れたのでしょうか。その理由を調査したところ、2000年に芸能界を引退後、その動向が分からないため、「亡くなってしまったのでは」という憶測が1人歩きをしていたから、という見方をされているようです。
驚くことに息子の小林聖太郎さんにも死亡説が浮上したこともありました。もちろん、この噂はデマで、2022年現在も健在です。
そもそも、こういったガセネタがあたかも、本当に起こったことのように言われてしまったのは、上岡龍太郎さんの弟子である芸人のテントさんが急死したことに原因があるのでは?といわれています。
2022年現在の上岡龍太郎さんの様子を調査しました。芸能界を引退して20年以上が経過していますが、元気にしているのでしょうか。
引退後の上岡龍太郎さんは、ゴルフ三昧であるようです。以前は、ゴルフはやらないと公言していたのですが、今では週に4回ゴルフをやることもあるのだとか。
漫才師のオール阪神・巨人の、オール巨人さんのブログに登場し、一緒にゴルフを楽しんでいる姿を見ることができます。
また、弁護士の橋下徹さんが「島田紳助さんと、上岡龍太郎さんとラウンドを楽しんだ」とテレビで発言していたことを鑑みると、引退後も人脈の広さは変わらないようですね。
引退後は自由気ままにやりたいことを楽しんでいるようで、映画鑑賞や旅行、文筆活動など興味が湧いたものをトライしているようです。
近年は、古代史にも目覚めて勉強を兼ねて東京都港区高輪に住んだり、神社仏閣巡りをしたりとアカデミックな分野にも目を持ち続ける姿勢を見せています。
上岡龍太郎さんの自宅を調査したところ、どうやら大阪に住み続けているようです。さすがに住所や自宅の写真は公表されていません。
豪邸であるとも言われていますが、現役時代にレギュラーを沢山持っていたことを考えると、贅を凝らした自宅であってもおかしくありませんね。
ネットの声を拾ってみると、「大坂城の付近に自宅があるらしい」と囁かれています。これは、ジョギングをする上岡龍太郎さんの姿が何度も目撃されているのだとか。
仮にこれが正しければ、大阪市城東区森ノ宮あたりになりそうですが、真相は定かではありません。
上岡龍太郎さんの現在について、笑福亭鶴瓶さんが目撃エピソードを語っています。
2021年7月28日に、笑福亭鶴瓶さんが担当しているラジオ番組「笑福亭鶴瓶日曜日のそれ」にリモート出演した時に明かしました。
笑福亭鶴瓶さんによると、7月16日にゴルフ場でプレーをしていたところ、キャディーさんから「すぐ後ろで上岡龍太郎さんがプレーしていましたよ」と報告を受けたのです。
当時は、全国的にコロナウイルスの感染者が爆発的に増加していたことから、懐かしさで会いに行くわけにもいかず、留守番電話にメッセージを残すにとどめました。
すると、上岡龍太郎さんから「久しぶりに鶴瓶ちゃんを観た。ちょっとメタボ。痩せたらどうですか」とお返事がきたのだとか。
番組MCの上柳昌彦さんが「上岡龍太郎さんは、見かけても声をかけたりしないんですね」と感想を述べると「声もかけず、どっか姿は消さはるんやろな。不思議な人ですよ」と回答しています。
司会者として、様々な番組に出演し視聴者からの人気も上々だった上岡龍太郎さんは、なぜ引退してしまったのか、という点が気になります。
20年以上前のことですが、上岡龍太郎さんの引退理由について調査しました。
上岡龍太郎さんは、引退する前から「芸能生活40周年を迎える2000年の春になったら完全に隠居する」と放送で語っていました。
このため、芸能関係者のみならず視聴者も知っていたのです。当時は、人気絶頂だったこともありネタだと思う方も多かったようなのですが、本当に2000年の春に引退しています。
芸能界を引退することについては公言していたものの、明確に引退する理由について自身で語っていませんでした。
このため今でも判明していないのですが、「これが決定打となったのでは?」と言われているエピソードがあります。
それは、仕事の移動のために新幹線に乗車した時のこと。車内で共演予定の若手芸人と遭遇したのです。
若手から「これから宜しくお願いします」と挨拶をしてきたので、「よろしく」と返したもののその後の会話は途切れ途切れで気まずい雰囲気。
ふと頭に浮かんだのは、自身も若手の芸人だった時に、大御所芸人に挨拶しに楽屋を訪れた際に会話が続かなかったことを思い出し「いつの間にか自分も同じ立場なのだ」と痛感したのだとか。
上岡龍太郎さんが引退してしまった理由について、「探偵!ナイトスクープ」で放送作家をしていた人の証言によると、「テレビ界隈について限界を感じていたのではないか」、というエピソードを明かしてしています。
上岡龍太郎さんは売れっ子になる前も後も、歯に衣着せぬズバズバとした鋭くストレートな語り口調が特徴的。
1990年代後半頃から、テレビ界は視聴者からのクレームを恐れて慎重になるあまり、無難な内容になりがちになったと指摘されてきました。
上岡龍太郎さんがやりたいことができなくなってしまったのではないか、と考えているようです。
上岡龍太郎さんはある時、妻とテレビを見ていると、ある大物俳優が入れ歯のためか活舌が悪くなり、台詞が聞き取れないシーンがありました。
その時に「これは周囲が止めて上げないといけないんだよな」と考え、妻に向かって「ちょっとでもレベルが落ちたら、いつても言って欲しい」と伝えたのです。
すかさず「今!あんた最近レベル落ちてるで」と、返されたそう。妻の返事を聞いて、引退を決意したともいわれています。
ちなみに、上岡龍太郎さんを尊敬してやまないカズレーザーさんは、このエピソードに対して共感したことを明かしています。
上岡龍太郎さんは、2000年4月に引退して以来、テレビやラジオなどのメディアに姿を見せていません。
しかし、葬儀に参列している上岡龍太郎さんの様子を週刊誌の記者が記事にしています。
2007年5月3日に死去した横山ノックさんの「横山ノックを天国へ送る会」において、参列した上岡龍太郎さんは、弔辞を読んだことが話題に。
それは、伝説の弔辞と呼ばれており立て板に水を流すようにスラスラと読み上げ、芸能界引退から7年が経過しているとは思えぬ錆びない話術が「伝説の弔辞」と語り継がれています。
弔辞は「ノックさん あなたは僕の太陽でした」から始まり、これまで育ててくれた感謝エピソードを語り、その途中では「漫才師から参議院議員、大阪府知事から、最後は被告人にまでなったノックさん」と会場の参列者からドッと笑いを引き出しています。
その直後に「相方や車や住まいや肩書はコロコロと変えたけど、奥さんだけは生涯変えなかったノックさん」と、参列者の心をグッと掴んだのです。
原稿なしで4分間、一度も止まることなく怒涛の喋りを披露し、最後は涙を詰まらせながら横山ノックさんへの哀悼を述べ、会場は涙に包まれました。
2016年9月にピン芸人のテントさんが交通事故で死去しました。享年65歳。愛弟子の突然の訃報に、上岡龍太郎さんも受け入れることができなかったようです。
通夜に訪れた上岡龍太郎さんは「突然のできごとで、衝撃的で茫然自失としております」と、言葉を見つけることが難しい様子がうかがえました。
翌日の葬儀にも参列しましたが、出棺の見送りをした上岡龍太郎さんは、茫然自失の模様。弟子のぜんじろうさんは「僕、あんな落ち込んだ師匠、見たことないです」と、語っています。
お笑いの世界では、弟子になる場合師匠に頭を下げて入門するのが一般的ですが、テントさんの場合は、上岡龍太郎さん自身がその才能に惚れ込んで自ら師匠を志願するという珍しいケースでした。
見込んだ弟子を見送らなくてはいけないという不条理さは、周囲が思うよりも大きかったのかもしれません。
上岡龍太郎さんは、若い頃に横山ノックさんから誘われてお笑いコンビ「漫画トリオ」を結成したことで人気を博した経歴を持っています。
トリオを解散後は、ピン芸人として巧みな話術で視聴者を魅了し関西のみならず東京に進出し、タレントとしてのポジションを不動のものに。
自身では、番組内で2000年春に引退することを公言し、本当に人気絶頂の最中に引退したことで、その理由について様々な憶測が飛び交いました。
引退後は、テレビやラジオなどマスメディアに登場せず、公の場に姿を見せたのは横山ノックさんとテントさんの葬儀の場のみ。
日頃はゴルフや旅行、映画鑑賞など趣味に没頭して人生を楽しんでいるようです。オール巨人さんのブログに登場したり、笑福亭鶴瓶さんのゴルフ場での目撃談など、その様子を垣間見ることができます。
今後も、芸能界に復帰する様子はなさそうですが、第二の人生を謳歌する上岡龍太郎さんを応援したいですね。
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