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2023/11/27
r.y6
梓みちよさんは、1960年に福岡女学院高校2年の時に中退し宝塚音楽学校に入学しました。在学中に渡辺プロダクションのオーディションに応募して合格し、中退しました。
そして上京し、約1年間のレッスンを経て1962年に“ボサノバ娘”のキャッチフレーズで「ボッサ・ノバでキッス」で歌手デビューしました。
梓みちよさんは、60年代や70年代に「こんにちは赤ちゃん」「二人でお酒を」など数々のヒット曲を生み出しました。1964年には、学習院初等科同窓会に招待され、昭和天皇の前で歌を披露しました。
また、梓みちよさんは、1969年の「第20回紅白歌合戦」まで7年連続で出場しました。
梓みちよさんは、出身は福岡県福岡市とされていますが、生まれは韓国です。当時、日本の統治下だった朝鮮釜山市で生まれたため、彼女の国籍は韓国ではないかと言われています。その後、家族で日本に移ったので、日本国籍を選んだ可能性もあります。
梓さんの国籍に関する情報がなく、彼女自身がそれについて語ったこともないので、はっきりしたことは分かりません。
梓みちよさんは、2005年あたりに、かねてからの夢だった化粧品のプロデュースをしたことがあります。梓さんは、舞台メイクを落とすたびにひどい乾燥に悩まされていたそうで自身の経験から「梓プラチナローズジェル」というオールインワンジェルを販売しました。
「梓プラチナローズジェル」は、顔だけではなく全身に使えることもセールスポイントで、梓さん自身で美肌術を紹介しています。
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梓みちよさんは、2020年に亡くなりました。梓さんの死因や、彼女の晩年の歌手活動がどんなものだったかなどを調べてみました。
梓みちよさんは、2020年1月末に亡くなりました。出番の打ち合わせで1月29日に梓さんの家を訪れたマネージャーが、ベッドの上で亡くなっていた梓さんを発見したそうです。彼女の死は同年2月3日に公表され、享年76歳でした。
マネージャーは警察に通報しましたが、事件性はなく、その場で梓みちよさんの死亡が確認されました。後に、彼女の死因は心不全だったことがわかりました。
梓みちよさんは、晩年は「良い歌は古い歌でも後輩の歌でも関係なく歌っていきたい」と、歌謡曲、Jポップからタンゴやシャンソンまで幅広いジャンルの歌を歌いました。
梓みちよさんが、「さんまのまんま 第69回」に出演したときの騒動で世間を騒がせたことがあります。どんな出来事だったのかを調べてみました。
1986年10月に、梓みちよさんがトークバラエティ番組「さんまのまんま 第69回」にゲスト出演したとき、さんまさんが梓さんの歌のタイトルを覚えていなかったことに激怒し、彼女がさんまさんの顔に計5回もシャンパンを浴びせ騒動になったことがあります。
「さんまのまんま」で騒動を起こした梓みちよさんは、後日、さんまさんにブレスレットをプレゼントした際に謝罪して和解したそうです。
このシャンパン騒動は、「さんまのまんま」名場面集で何度も取り上げられるほどの名シーンとなりました。
梓みちよさんがゲスト出演した「さんまのまんま」は、放送終了後に視聴者からの苦情の電話が殺到したそうです。そして、この頃から梓さんがテレビであまり見かけなくなり、「騒動によって梓みちよは干された!」と噂されました。
実際は干されたのではなく、梓さんのディナーショーの仕事が多忙となり、それでテレビに出演する機会が減っただけのことでした。
梓みちよさんは一度結婚しています。でも短期間で離婚に至りました。そんな梓さんの結婚・離婚のことなど恋愛に関することを調べてみました。
梓みちよさんは、1970年4月に知り合った俳優の和田浩治さんと翌年の1971年3月に結婚しました。当時和田さんは、日活の石原裕次郎さんや小林旭さんと並ぶ人気スターだったので、2人の結婚は話題になりました。
1971年に結婚した梓みちよさんと和田浩治さんは、翌年に離婚しました。なんでも結婚してすぐに別居生活を送ることとなったそうで、理由は和田さんの借金取りが毎日来るから友人宅に避難したと梓さんは話しました。
それに対し和田さんは、「借金の問題は大したことではない」とした上で「半年以上もセックスレスだ」と梓さんとの冷え切った関係を暴露しました。結局、2人の溝は埋まることはなく、1971年10月に離婚報告し、別々に離婚会見を開きました。
離婚後、梓さんは「せいぜいあの人は同棲までの男だった」と週刊誌で話し、和田さんは「みちよの“あのこと”だって僕は黙ってるんです」とバトルを繰り広げました。
梓みちよさんと離婚した和田浩治さんは、1974年に3歳年上でクラブ経営者の田村順子さんと再婚しました。そして1986年7月に胃がんのため妻に看取られ42歳で死去しました。
梓みちよさんは、離婚後、プロ野球選手として活躍していた東尾修さんと不倫していることが噂になりました。不倫関係は30年以上に渡ったそうで、週刊誌から直撃インタビューを受けた梓さんは「大人の関係です」と不倫を認めるような発言をしました。
デビュー以来、「こんにちは赤ちゃん」ほか数々のヒット曲を放った梓みちよさん。そんな彼女の代表的な歌をエピソードも交えて紹介しましょう。
梓みちよさんは、「ボッサ・ノバでキッス」で歌手デビューして以来、「スカイリング・デート」「恋はボッサ・ノッバ」などをリリースし、1963年6月にテレビ番組「夢で逢いましょう」の今月の歌として発表された「こんにちは赤ちゃん」を歌いました。
永六輔・作詞&中村八大・作曲のこの歌は大ヒットし、第5回日本レコード大賞の大賞を受賞し、梓さんは「第14回紅白歌合戦」に初出場を果たし、人気歌手としての地位を得ました。
梓みちよさんは、1992年に「紅白歌合戦」に16年振りに紅白カムバック出場を果たしたとき、同年6月に亡くなった中村八大さんを偲んで「こんにちは赤ちゃん」を歌唱しました。
梓さんの持ち歌でもある「こんにちは赤ちゃん」ですが、長年コンサートで自分で封印して歌わなかった時期があったそうです。理由は「この歌は今、私にとって重すぎる」「今更、この歌は私に似合わない」と思ったからだそうです。
そして2002年に40周年記念コンサートのアンコールのとき、自分にとって世に出るきっかけであり、一番の宝物だから大切にしようという気持ちになり、封印を解き歌唱しました。以降は、ステージでも必ず歌うようになったそうです。
なんでも封印を解いた理由は、アメリカで日系一世・二世の人達の前で「こんにちは赤ちゃん」を歌ったとき、彼らが涙を流しているのを見て、この曲を歌わないでいたことを後悔したからだそうです。
梓みちよさんが1974年3月にリリースしたシングルが「二人でお酒を」。梓さんは「こんにちは赤ちゃん」の大ヒットで人気歌手になったものの、それから11年過ぎ、「いつになったらこの歌から抜けられるのか」と思ったそうです。
梓さんは「自分を解放してくれる歌」を望み、それで誕生したのが「二人でお酒を」でした。この曲はヒットし、第5回日本歌謡大賞で放送音楽賞を受賞するなど数々の賞を受賞し、5年ぶりに第25回紅白歌合戦にも復帰しました。
ステージやテレビでこの歌を披露するとき、梓さんは床に座り込んで歌い、それが通例となりました。
梓みちよさんが1976年に発売したシングル「メランコリー」は、吉田拓郎さんが作曲した曲で、1977年にかけてロングヒットしました。同曲で1976年に第18回日本レコード大賞・編曲賞を受賞し、梓さんは第27回紅白歌合戦に3年連続で出演しました。
「こんにちは赤ちゃん」以来、数々のヒット曲を放った梓みちよさん。私生活では、結婚・離婚・不倫と波風の多い恋愛体験をした彼女ですが、最後まで現役歌手として生涯を終えました。
今でもカラオケで歌われることが多い梓さんの歌。今一度聞き直してみるのもいいのではないでしょうか。
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