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2023/11/27
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弘田三枝子さんは、幼稚園の頃に、アメリカ軍が駐留する地に設けられた基地関係者とその家族向けのラジオを聞き、魅せられて、歌手になる事を決心しました。
東京生まれで、小学生の頃から劇団こまどりに入り、7歳から「日本ジャズ学校」に週1で通い、英語の発音の基礎からスパルタ教育を受けていました。
8歳の頃から、進駐軍キャンプでジャズやポピュラー・ソングを歌っていたと言われています。中学生の頃からは本格的にキャンプで歌っていたそうです。
幼いころから、歌手を目指していた弘田三枝子さんですが、中学生でデビューしました。
日本コロムビアやビクターのオーディションに落ちましたが、新進メーカーだった東芝音楽工業の草野浩二ディレクターが弘田三枝子さんの歌声に目を付け、1961年14歳の時に「子供ぢゃないの」でデビューしました。
庶民的なルックスと圧倒的な歌唱力で“パンチのミコちゃん”と呼ばれ、その翌年に出した「ヴァケーション」は20万枚の大ヒット曲となり、その年のNHK紅白歌合戦に初出場しました。
弘田三枝子さんは、1960年代~70年代に洋楽をカバーした曲で人気に火がつき、和製R&B娘とも呼ばれていました。
1965年7月には日本人歌手として初めて、米国のニューポート・ジャズ・フェスティバルに参加しました。
1960年代前半は、ポップスの女王と呼ばれ、好調だった弘田三枝子さんですが、1960年代後半は人気が下火になります。
ビートルズが人気になり、ロックンロールが人気を博すと、アメリカン・ポップスの歌い手たちにヒットが出なくなり、カヴァーする楽曲も減り、また、グループサウンズブームもあったためです。
そこで、方向転換をはかり、1969年に「人形の家」を発表し、オリコンチャートで首位を獲得し、第11回日本レコード大賞で歌唱賞を受賞するなど、見事カムバックを果たしました。
続いては、弘田三枝子さんにささやかれる、整形依存の噂について見ていこうと思います。
弘田三枝子さんが、顔面崩壊などと言われて特に批判されたのは、晩年70歳の頃の顔でした。不自然に顔がひきつっているのが明らかで、鼻筋も際立っています。
整形もしくはボトックスと明らかに分かるとネットでも話題となりました。
弘田三枝子さんですが、20代の頃から少しずつ顔が変わっていることが画像を見ると分かります。デビュー当時の写真や動画を見ると、丸顔で純和風の顔だった弘田三枝子さんですが、
20代の頃の彼女の顔は18歳の丸顔の画像とは明らかに違い、「人形の家」を出した22歳の時は別人のように変わったと騒がれました。
純和風の顔から、フランス人形のような見た目に変わっています。ダイエットもしていたそうですが、痩せて印象が変わっただけでなく、あきらかに顔が別人ですよね。
ちなみに、弘田三枝子さんは、1970年に『ミコのカロリーBOOK』を出版しており、ベストセラーとなりました。
「芸能人のダイエット本の先駆け」「タレントダイエット本の元祖」と言われ、150万部を超えたとも言われています。
歌手活動は続けていた弘田三枝子さんですが、主に小規模なライブ会場での活動が中心で、テレビ出演の機会などは減っていました。
2001年に久しぶりに『徹子の部屋』でテレビに出演した時に、顔の変化に世間がびっくりし大きな話題となりました。
整形を重ねて崩れた顔のようだという意見も多く、以前の弘田三枝子さんの見る影が無いという声があがりました。
歌手活動を続けていた弘田三枝子さんでしたが、2020年に亡くなっています。亡くなった際の様子を詳しく見ていきましょう。
弘田三枝子さんは、2020年7月に、千葉県の自宅でお姉さんと話している時に倒れて病院に運ばれましたが、翌日亡くなりました。
死因は心不全で親族のみの葬儀となったことが発表されたのは死後6日後でした。
弘田三枝子さんが亡くなった事は、メディアではほとんど報道がありませんでした。1970年代後半以降はヒット曲が出なかったことなどから、ライブがメインでメディア露出が減っており、テレビ番組などの制作者が彼女の事をよく知らなかった事が関係したようです。
ただ、弘田三枝子さんの影響を受けた歌手は多数存在しており、山下達郎さんや桑田佳祐さんなどが追悼のコメントを発表しました。
2020年がレコードデビューから60周年だったため、記念曲の制作や記念コンサートの開催などを企画されていましたが、コロナの影響で翌年にはコンサートをしたいと準備を進めていたところだったそうです。
続いては、弘田三枝子さんの旦那や子供について見ていきましょう。
弘田三枝子さんは、1977年に不倫関係にあったギタリスト・杉本喜代志さんの妻に背中を3か所刺されて全治10日間の重傷を負いました。
二人目を妊娠していた杉本さんの妻は、別れるように弘田三枝子さんに連絡を入れており、弘田三枝子さんも分かったと答えたそうですが、不倫関係は続いたそうです。
この事件後、弘田三枝子さんは芸能活動を一時休止し渡米しています。ニューヨークでは、アルバム『Mieko In New York』を自主制作しました。
そして、そのままアメリカで結婚して出産もしましたが、1979年9月には離婚して帰国しました。
当時、弘田三枝子さんの相手は元妻との離婚が成立しておらず、事実婚のまま結婚式を挙げたようです。またしても不倫だったようです。
相手の男性は名前や国籍など分かっていませんが、日本人で航空会社に勤めていたという噂もあります。
「妻とは別れるから」という相手の言葉を信じ籍を入れる前に結婚式を挙げたようですが、結局離婚する気配はなく、弘田三枝子さんは離別して帰国を決めたようです。
娘の名前は『えりかさん』ということは分かっていますが、画像などはありませんでした。
弘田三枝子さんの娘が、現在40歳くらいなので、孫がいてもおかしくありませんが、情報はありませんでした。
続いては、弘田三枝子さんのヒット曲をいくつかご紹介します。
『子供ぢゃないの』(1961年11月、原曲はヘレン・シャピロのDon't Treat Me Like a Child)の片面のカヴァー曲『悲しき片思い』(原曲は同じくヘレン・シャピロのYou Don't Know)は、発売後ひと月で6万枚の売り上げを達成しています。
1962年発売の『ヴァケイション』(原曲はコニー・フランシス)は、20万枚を売り上げる大ヒットでした。
この曲で、紅白歌合戦に初出場し、1973年の森昌子さんに破られるまで、紅組最年少出場記録でした。
1969年発売の『人形の家』は、オリコンチャート1位になり日本レコード大賞の歌唱賞を受賞した曲でもあります。
弘田三枝子さんの代表曲ともいえる1曲です。
1960年代にポップスの女王、和製R&B娘とも呼ばれ、歌姫として人気を博した弘田三枝子さんについてご紹介してきました。
晩年は、整形についての話題が多かった弘田三枝子さんですが、整形依存症だったのではないかとも言われていました。
2020年に残念ながらお亡くなりになっています。ご冥福をお祈りいたします。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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