木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
マッスル北村は、東京学芸大学教育学部附属高等学校を卒業しています。東大に、毎年50名以上進学するほどの進学校で、卒業生には、政治家である、山尾志桜里/赤城徳彦(元農林水産大臣)やアナウンサーの竹内由恵、脳科学者の茂木健一郎、お笑い芸人の中田敦彦などがいます。
マッスル北村は、二浪したのち、東京大学理科2類に入学します。東大に入学直後、東京大学運動会ボディビル&ウェイトリフティング部の先輩と出会い、勧められ、関東学生選手権に出場したものの他の選手との体格の違いを思い知り、この日からトレーニングにのめりこむようになりました。
結局、東大は最初の二週間ほど授業に出席しただけで、中退してしまいます。
ボディービルに目覚めたマッスル北村は、筋力トレーニングと並行し、卵20~30個、牛乳2~3リットル、鯖の缶詰3缶、プロテインなどを摂取し、どんどん筋肉を育てていきました。
結果、本格的にボディビルを始めて10か月ほどで40kgの増量に成功しています。
大学に通わず、ひたすらトレーニングに明け暮れるマッスル北村に父親が激怒し、ダンベルシャフトで何度も彼の頭を叩きつけ、左目が網膜剥離となり、手術を受けたことがありました。
その後、結局、東大を中退するのですが、後に「人の役に立ちたい」と医師を志し、東京医科歯科大学医学部に入学します。しかし、「ボディビルを極めたい」と、こちらも中退してしまいました。
1981年にボディビルに取り組みだしたマッスル北村は、1983年(昭和58年)のミスター関東学生大会で優勝を飾ります。
そして、1985年には、アジア選手権に出場し、アジア選手権・ライトヘビー級のタイトルを獲得しました。この時のトレーニングの逸話が残っており、アジア選手権のオファーが届いたのが、大会の4日前だったそうで、減量をするために、120kmを15時間ぶっ続けで走り抜き、14キロの減量に成功したとのだそうです。
その後、1990年のWABBA 世界選手権では3位に輝くなど、キャリアを重ねていき、1990年代前半からタレント活動も開始しました。
『さんまのナンでもダービー』『平成教育委員会』などへ出演し、屈強な肉体に似合わない育ちの良い丁寧な語り口調と博識で人気が出ました。
続いては、若くして亡くなったマッスル北村の死因について見ていこうと思います。
マッスル北村は、2000年8月3日に39歳で亡くなっています。世界選手権へ向けてトレーニングしている最中のことでした。
世界選手権に出場することを目標として、20キロの減量をしており、その極端な減量から、最期は餓死だったのではないかと噂が広がりました。
マッスル北村は、世界選手権への出場のため、極限まで体脂肪を落とすため糖質制限を行っていました。
マッスル北村の死因は、低血糖からの合併症により、心不全を引き起こしたことでした。亡くなる数日前にも救急搬送されており、その際には処置が早く一命を取り留めていました。
その際、妹さんが「めまいがしたら飴を舐めて。飴一個でいいから」と、懇願したにもかかわらず、「そんなわずかなカロリーすら摂取したくない」と断固として食べ物を受け付けなかったそうです。
続いては、マッスル北村に持ち上がっていた、ドーピング疑惑について見ていこうと思います。
まず、マッスル北村がステロイド剤の使用を疑われた理由の一つは、体が他の同身長のボディビルダーと比べるととても大きかったことです。
ステロイド剤を使用しないと、マッスル北村の体を作ることはできないのではないかと囁かれていました。
マッスル北村は心不全で亡くなりましたが、ステロイドの副作用に心不全の可能性もあげられます。そういった理由で、ステロイドを使っていたのではと言われている理由の一つです。
そして、一番の大きな理由は、1986年のJBBFの大会で、ドーピング検査で「ナンドロロン・デカノエイト」というステロイド剤の使用が認められたことから失格になった過去があったからです。
失格したことに対して、マッスル北村は何も述べることはありませんでしたが、後に、マックス北村と親しい人物が嫌がらせを受けたことに対し激怒し、使用を否定しました。
マッスル北村は、1986年のJBBFの大会で、ドーピング検査で「ナンドロロン・デカノエイト」というステロイド剤の使用が認められたことから失格になりましたが、実はこれは捏造だったといいます。詳しく見ていきましょう。
マッスル北村は回顧録である「ボクの履歴書」で、1986年のJBBFの大会でのドーピング検査で陽性になったのは、尿サンプルをすり替えられたからだと主張しています。
ドーピング検査は、検査結果に不服が出た場合に再検査するために尿サンプルが2つ取られます。しかし、尿サンプルはなぜか、再検査の前に廃棄されていました。
当時のJBBF(日本ボディビル連盟)ドーピングコントロール委員長であった後藤紀久氏に検査結果の開示を求めますが、断られています。
マッスル北村さんは、その後、事務の先輩から、JBBF(日本ボディビル連盟)ドーピングコントロール委員長の後藤紀久氏と不倫関係にあった女子ビルダーが「なかなか筋肉がつかず、ステロイド使用している」という話を話を耳にします。
ジムの先輩はその女子ビルダーに好意を寄せていたそうです。さらに、ドーピングにより失格となった大会の際、その先輩から「北村君、コレを使え」と胸ポケットにステロイドを押し込まれていたそうです。
これらのことから、マッスル北村はあの時のドーピング検査は「はめられたんだ」「不倫関係の女子ボディビルダーを守るために、尿サンプルをすり替えられた」と悟ったのだそうです。
その先輩と14年後にジムで偶然再会し、「尿サンプルをすり替えたんでしょ?」と先輩に尋ねたところ、先輩はすり替えを認めたそうです。
続いては、マッスル北村の一番の理解者ともいえる、妹について詳しく見ていこうと思います。
マッスル北村の妹は北村善美といい、マッスル企画の代表として兄の残した物を世間に伝える活動をしています。
妹は『その生き方に後悔はないと思う』と故人を偲んでおり、『目標に突き進む追求力が兄の魅力』と語っています。
マッスル北村さんの死に関しては、2021年2月の『ザ!世界仰天ニュース』で「筋肉を愛しすぎた人SP」で取り上げられました。
そこで、マッスル北村さんの亡くなった際の状況や、人柄が分かるエピソードとして、マッスル北村は台所で倒れおり、知り合いのおばあさんの病気について調べた紙が整理してテーブルに置かれていたと妹が語っています。
続いては、マッスル北村の名言についていくつか取り上げたいと思います。
1千回と1千1回とでは天と地の隔たりがあった。
まさに最後の1回は全身全霊の限界力を振り絞った一発。
その前の1千回はこの1回のためのお膳立てに過ぎない。
最後の一発はその前の1千回に勝るとも劣らない価値がある。
優しい人柄だったと言われているマッスル北村らしい名言として、“ボディビルを通して、万人を勇気づける心の医者になりたいと願っていた”との言葉があります。
マッスル北村さんならではの名言としては、“負けや失敗を恐れず、自分の心が真に欲する闘いに黙って挑みたい”という言葉があります。
数々の失敗をしている彼は、その失敗が糧となっていたようです。
伝説のボディビルダー・マッスル北村についてご紹介してきました。
東大に進学するも、ボディビルにはまり大学を中退し、それ以降はストイックにボディビルダーとしてトレーニングに励んできたマッスル北村は39年の生涯に幕を閉じました。
まさに、ボディビルに生涯をささげた人物だったと言えるのではないでしょうか。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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