2023/12/22
k_nanamru
堂珍敦子は、原田梓帆(しほ)名義で活動をしていた時期がありました。1999年にファッション誌『JJ』の専属モデルとして活躍し、2000年にはキリンビールのキャンペーンガールを務めています。
その後には、森田あつ子や森田敦子として活動しています。2003年の『fairest~フェアレスト~』や2004年の『picturesque』といったDVDを出版しました。
CHEMISTRYの堂珍義邦と結婚し、堂珍敦子名義で活動をするようになりました。そして2004年に第一子を出産してからは、産休を経て30代の主婦層向けの雑誌『VERY』の専属モデルとなり、活動を再開しました。
続いては、堂珍敦子が現在はどうしているのかについて、ご紹介します。さて、堂珍敦子は現在何をしているのでしょうか。
堂珍敦子は、夫であった堂珍義邦と離婚をしたことで芸名を“堂珍敦子”から“敦子”に改名し、活動をしています。心機一転を図ったものと考えられるでしょう。
堂珍敦子は、看護の専門学校に通っていました。なんと自身の専門学校の入学式が、長男の中学校の入学式と四男の幼稚園入園式と時期が重なったといいます。
堂珍敦子が専門学校に入学したのは、助産師になるためであるとされています。彼女は、2009年に双子を出産した際に、助産師になりたいと感じたといいます。しかし、助産師になろうと決意するには葛藤もありました。
家庭でも取得できるベビーマッサージや食育といった資格を取得したものの、5年ほど悶々としていたのです。しかし離婚を機に、一歩踏み出したということです。
堂珍敦子は、2021年3月に専門学校を卒業しました。この点は、本人が2021年3月19日のブログでも明かしています。助産師になるには、看護師の国家試験に合格してから助産師の学校に通い、助産師の国家資格を取得する道があります。
堂珍敦子の助産師になるという道のりは、まだ続く可能性があるでしょう。
次に、堂珍敦子とCHEMISTRY・堂珍義邦の結婚について見ていきたいと思います。2人はどの様に出会い、いつ結婚したのでしょうか。
堂珍敦子と堂珍義邦は、2004年6月1日に結婚しました。モデルとミュージシャンの結婚となったのですが、一体どの様な接点があり結婚に至ったのでしょうか。続いて、2人の馴れ初めについて迫ってみたいと思います。
堂珍敦子と堂珍義邦の馴れ初めについては、詳細が不明となっています。ただし、結婚が発表された時期の2年ほど前には、熱愛の噂が流れていました。
堂珍敦子と堂珍義邦は、2018年の年末に離婚が成立しました。2019年1月1日に、お互いに離婚を発表しています。堂珍義邦は、離婚後も子どもとは関わっていくということになったとしています。
堂珍敦子と堂珍義邦は、何故離婚をしたのでしょうか。続いては、2人の離婚原因について迫ってみたいと思います。
2人は、突然離婚したわけではない可能性があります。堂珍敦子と堂珍義邦は、2014年にも別居報道が出ていました。その際には、別居について否定しています。
CHEMISTRYは、2012年から2017年まで活動を休止しており、その時期はソロ活動をしていました。堂珍義邦は以前よりも自宅で過ごす時間が増え、その点が堂珍敦子にとって煩わしく感じられた模様です。その結果、2人の間に溝が生まれてしまった可能性があるでしょう。
2人の離婚原因には、レストランでの騒動も挙げられるという話があります。堂珍敦子は、5人目の子どもが生まれた後に、子ども達と共にあるファミリーレストランを訪れました。しかしその際に、子どもが騒いだことから他の客から注意を受けてしまったのです。
その頃、夫であった堂珍義邦は自宅にいたということで、肝心な時にいてくれないことに堂珍敦子が苛立ちを感じた可能性があります。普段から、堂珍義邦は父親としての役目を果たしていなかったという情報もあるのです。
価値観の違いというのも、離婚原因として聞かれる要因の1つです。堂珍敦子は、出産後も芸能活動をしたいと考えていたものの、堂珍義邦側は結婚後には家庭に入って欲しいという考えであったとされています。2人の間にもこうした価値観の違いがあり、離婚に繋がった可能性があるでしょう。
離婚原因は、堂珍敦子のお酒にあるという話もあります。彼女は育児のストレスからか、お酒を飲む量が増えたといいます。それにより、子どものお迎えを忘れてしまいそうになったことがあるなど、失態もあるのです。こうした点も、離婚の要因の1つになったとも考えられるでしょう。
母親の状況を見かねてか、現在では子どもたちに1日3杯までと酒量を制限されているといいます。
次に、堂珍敦子と堂珍義邦の子どもについて見ていきたいと思います。2人には何人の子どもがいて、現在はどうなっているのでしょうか。
先述もしていますが、堂珍敦子と堂珍義邦には5人の子どもがいます。第一子は2004年2月に誕生し、男の子であるとされています。第二子は2007年11月に生まれ、2009年6月には第三子と第四子となる双子が誕生しました。その後、2014年2月にも第五子も生まれています。第二子以降は、性別などは分かっていません。
子どもたちについては、離婚後は堂珍敦子が育てています。洗濯物は11キロにもなり、洗濯機を1日に2回回しているという話があります。また、お肉を購入するとなると5キロにもなるのです。
2004年に誕生した第一子の長男は、既に高校生になっていて2021年で17歳となります。それだけ、堂珍敦子が堂珍義邦と結婚をしてから時が経ったということです。
最後に、堂珍敦子に関する離婚のエピソードについてご紹介します。さて、どういったエピソードがあるのでしょうか。
堂珍敦子には、気が強いという噂があります。堂珍義邦と離婚をした後には、彼の父親が週刊誌のインタビューを受けました。その際に、堂珍義邦の父親は堂珍敦子の気が強かったため、離婚が決まりホッとしていると発言したのです。
堂珍義邦の父親の発言に対して、堂珍敦子に同情する声も上がりました。インタビューで批判されては可哀そうだという、見方があるのです。
堂珍敦子の元夫・堂珍義邦がCHEMISTRYとしてツインボーカルを組む相棒は、川畑要です。川畑要も離婚経験があり、CHEMISTRYは両者とも離婚経験者となっています。川畑要は、CHEMISTRYとして2007年リリースの楽曲『This Night』のMVで共演した、モデルの高橋美紀と2008年に結婚しました。
しかし、川畑要はそれ以前に6年にわたり交際していたモデル・安西ひろこと破局していて、彼は結婚後も安西ひろこと2人で会っていたとされます。そうしたこともあり、川畑要と高橋美紀は2013年に離婚してしまいました。
また、堂珍義邦も川畑要も子どもを授かってからの結婚だったことや離婚歴があることから、『似た者同士』であるとされています。
若くして結婚した堂珍敦子と堂珍義邦でしたが、2人は離婚をしてしまいました。それでも堂珍敦子は、5人の子どもを育てながら助産師になるという新たな道を見つけ、歩きだしているのです。忙しい毎日を送っていることが推測されるでしょう。
これからも、堂珍敦子には子育てや仕事に頑張って欲しいものです。
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