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マフィアの象徴【アル・カポネ】とは?組織トップになった経緯とは?

アメリカを代表するマフィアとして有名なアル・カポネ。一般的な家庭で育ったアル・カポネはどのような経緯で組織トップになったのでしょうか。今回は、アル・カポネの生い立ちからマフィアになるまでの経緯をご紹介。さらに、刑務所に入り別人と化したとの噂の真相にも迫ります!

マフィアと言えば、アル・カポネ

アメリカのマフィアの代名詞的な存在が、アル・カポネです。アル・カポネはどのような経緯を経て、犯罪組織のトップにのし上がっていったのでしょうか。アル・カポネの経歴や逮捕などについてご紹介します。

アル・カポネのプロフィール

アル・カポネについて具体的にご紹介する前に、まずはアル・カポネがどんな人物なのかをプロフィールでご紹介します。

アル・カポネのプロフィール

 

  • 本名:アルフォンス・ガブリエル・カポネ
  • 生年月日:1899年1月17日
  • 出身地:ニューヨーク
  • 血液型:不明
  • 身長:179cm
  • 体重:不明
  • 活動内容:ギャング

 

 

アメリカの代表的マフィア アル・カポネの生い立ちとは?

アル・カポネは、アメリカのマフィアで最も有名な人物といっていいのかもしれません。そんなアル・カポネは、どのような生い立ちがあるのでしょうか。

NYで9人兄弟の4番目として生まれたアル・カポネ

アル・カポネは1899年1月17日、アメリカ・ニューヨークでイタリア系の両親の下、生まれました。カポネの両親は1893年イタリアからニューヨークに渡ってきました。一家はブルックリンのイタリア人街のスラムに住みました。

父のガブリエルは食料品店や床屋を営みましたが、苦しい生活は続きます。アルは9人兄弟の4番目として生まれています。子供のことから体格が良く、ケンカをしても負けたことがありませんでした。

担任の先生と喧嘩をきっかけに不登校に

アル・カポネは真面目な生徒でしたが、偏屈なカソリックの学校で校則の問題を起こします。14歳のときに女性教師の顔を叩いて、放校となり、彼の学校生活は終わりを迎えました。

不登校を機に路地裏に赴くようになったアル・カポネ

イタリア人街の裏稼業を取り仕切っていたのが、ジョン・トーリオでした。イタリア人少年は皆、トーリオに憧れ、彼のために簡単な仕事をしたりしました。

学校を辞めたアル・カポネは家族のために、駄菓子屋やボーリング場などで雑用をして働きました。アメリカは第一次大戦に参戦して徴兵制を実施し、17歳のアルも入隊しました。戦地に行くことはありませんでしたが、武器の知識を身に付けました。

1918年にアルは一目ぼれしたアイルランド系のメイと結婚し、翌年には息子のソニーが生まれました。トーリオが名づけ親となっています。

シカゴへ行き一組織のボスとなったアル・カポネ

アル・カポネはシカゴのマフィアとして有名です。彼はどのような経緯でニューヨークからシカゴに移ったのでしょうか。

シカゴへと拠点を移したアル・カポネ

アルはニューヨークでも大きな縄張りを有するギャングの一員となりました。トーリオの紹介で、フランキー・イェールの配下に入ります。イェールのキャバレーで皿洗いとバーテンダーをしながら、用心棒の役目も務めました。

そんななかトーリオからシカゴに来ないかと誘われました。給料が安く、殺人事件で起訴されそうになっていたアル・カポネはその誘いを受け、シカゴへと赴きます。シカゴではトーリオの売春宿の用心棒を務めました。

頭角を現したアル・カポネは一つのビルの支配人を任されるようになります。トーリオは年に10万ドルの収益を上げましたが、アルは2.5万ドルもの取り分を得るようになりました。

ボスから組織トップの座を託されたアル・カポネ

禁酒法が成立すると、トーリオはギャングの対立激化を予測し、シカゴのギャングたちをいくつかの縄張りに分けました。

アル・カポネはシカゴ郊外のシセロの支配に乗り出していきます。選挙に干渉し、町長や書記、警察所長などの要職に自分の息のかかった人間をつけました。ホテルのホーソン・インを占領して本拠地とし、街を牛耳りました。

1925年アル・カポネは、銃撃されて重傷を負ったトーリオからボスの座を譲られます。アル・カポネはライバルを次々と抹殺し、警察や議員を買収して勢力を広げていきました。

禁酒法時代に密売で利益を上げたアル・カポネ

アル・カポネはシカゴを牛耳るまでの存在となりました。ニューヨークやカナダ、キューバなどからシカゴに酒が運ばれました。1929年カポネファミリーの年間の収益は6200万ドルとされています。

禁酒法とは

禁酒法とは、アメリカにおいて1919年に成立した合衆国憲法修正第18条およびその細則を指します。アメリカでは20世紀に入ると禁酒運動が高まり、1917年時点で禁酒を決めた州は26にまで及んでいました。第一次大戦への参戦で能率向上が叫ばれるようになり、憲法修正第18条が可決され、禁酒へと至ります。

同第18条第1項では「本条の承認から1年を経た後は、合衆国及びその管轄権に従属するすべての領土において、飲用の目的で酒精飲料を醸造、販売若しくは運搬し、又はその輸入若しくは輸出を行うことを禁止する。」とされています。

しかし、アメリカ市民は酒を求め続け、酒の密造、密売が後を絶ちませんでした。女性たちも男性と肩を並べて酒を飲むようになります。1930年代になると同法の廃棄の声が高まり、ついに1933年廃棄されました。

いつの間にか悪人となっていたアル・カポネ

シカゴを牛耳る存在として名声を高めていったアル・カポネは、少なくとも33人の殺人に関与したものとみられています。なかでも有名なのが、オバニオン暗殺事件と聖バレンタインデーの虐殺です。

オバニオン暗殺事件

ダイオン・オバニオンは、シカゴのアイルランド系ギャングで、トーリオとアル・カポネの宿敵となります。ノースサイド・ギャングを創設して、シカゴのノースサイドを縄張りとし、密造酒の製造を手掛けました。

1924年5月には警察の手入れがあることを知っておきながら、同じトーリオとアル・カポネに醸造所を譲渡して彼らを罠に嵌めます。逮捕されたトーリオは激怒し、カポネらとオバニオン暗殺計画を図ります。

同年11月正体不明の3人組がオバニオンに6発の銃弾を撃ち込み、殺害しました。それ以降、アル・カポネは常に二人のボディーガードを連れて行くようになりました。1925年1月にはオバニオンの部下であったジョージ・モランらに車を銃撃されましたが、アル・カポネは車に乗っていなかったため、事なきを得ました。

聖バレンタインデーの虐殺

聖バレンタインデーの虐殺は、アル・カポネらサウスサイドのギャングが、ジョージ・モランらノースサイドのギャングを殺害した事件です。カポネらはデトロイトのパープル・ギャングの協力を得て、モランに偽取引を持ち掛けて殺害する計画を立てました。

1929年2月14日、モランらはパープル・ギャングが強奪したウイスキーを本部に配送することとなっていました。モランファミリーが倉庫にいると、警察官がやってきて壁ぎわに並ぶよう命じました。警察官は実はカポネの派遣した偽警官であり、一斉に7人をハチの巣にしました。

モランは倉庫に来るのが遅れたために助かりました。カポネはフロリダにいて事情聴取を受けましたが、同事件では誰も逮捕されることはありませんでした。カポネにとってはノースサイドギャングの脅威がなくなりましたが、一般大衆はカポネへの憎悪を強めることとなりました。

パブリック・エネミーとなったアル・カポネ

それまで順調であったアル・カポネのマフィアとしてのキャリアは、状況が一変し、彼を追いつめていくようになります。

社会の敵として恐れられたアル・カポネ

アル・カポネは当初、多くのチャリティに寄付をし、「現代のロビンフッド」と呼ばれるなど大衆からの支持を集めていました。彼が球場に現われた際には、観客から喝さいが送られるほどでした。

しかし白昼堂々、敵対するギャングを一方的に殺戮した聖バレンタインデーの虐殺は、彼に対する大衆の支持を失わせます。市民は政府にカポネを逮捕するように訴え、新聞もカポネを「社会の敵ナンバー1」と呼ぶようになりました。

脱税の罪で逮捕されたアル・カポネ

アル・カポネは、1931年6月連邦大陪審官から、過去6年に亘って酒類取引によって儲けた収益103万8654ドルに対する税金21万5080ドルの支払い義務を怠った罪で告訴されました。告訴状では、ビール1500ガロンの製造、ビール30樽のトラック積運送など5000件の罪状が挙げられています。

アル・カポネは巨額の賄賂を払ったり、捜査官を殺害しようとしましたが、失敗に終わりました。同年10月連邦地方裁判で陪審員はアル・カポネに有罪判決を下しました。アル・カポネは懲役11年を申し渡され、1932年5月ジョージア・アトランタの連邦刑務所へ厳戒態勢のなか、移送されています。

刑務所で梅毒が進行し別人となったアル・カポネ

その後、アル・カポネは重罪犯が収監されるアルカトラズ監獄へ移されます。しかし1938年になると、アル・カポネは子どもの真似をするなど、精神に異常を来すようになります。医者は梅毒により神経系統の一部が麻痺していると診断しました。

アル・カポネが題材となった映画「アンタッチャブル」とは?

アル・カポネは、様々な映画やドラマなどに取り上げられています。1987年に公開され、世界で興行収入7600万ドルを超えるヒット作となったのが、ブライアン・デ・パルマ監督の「アンタッチャブル」です。

原作は、1957年スポーツライターのオスカー・フレイリーによるインタビューなどによって構成されて刊行された、エリオット・ネスの自伝「The Untouchables」です。1959年から1963年にかけてテレビドラマとして放送され、全米で視聴率40%を獲得する人気を博しました。

映画は同ドラマをリメイクしたものとなっています。

映画「アンタッチャブル」のあらすじ

禁酒法時代のシカゴ。アル・カポネの組織は、酒の密造とカナダからの密輸によって莫大な利益を上げていました。そんななか財務省酒類取締局のエリオット・ネスは特別捜査班のリーダーに就任します。

エリオット・ネスは、ジム・マローンやジョージ・ストーン、オスカー・ウォレスという信頼できる仲間とともに密造酒の摘発に動きます。警察や裁判官も組織によって買収されているなか、エリオット・ネスの壮絶な戦いが始まります。

映画「アンタッチャブル」のキャストをご紹介

映画「アンタッチャブル」は、豪華なキャストが集結しました。このことも本作を魅力的なものとしています。

アル・カポネ役はロバート・デ・ニーロ

主人公の敵役であるアル・カポネを演じたのは、ロバート・デ・ニーロです。ロバート・デ・ニーロは、『ゴッドファーザー PART II』でドン・コルレオーネの若き日を演じて、アカデミー助演男優賞を受賞し、ブレイクしました。

その後も、『タクシードライバー』や『レイジング・ブル』など、特にマーティン・スコセッシ監督とコンビを組んで傑作を生んでいきます。アカデミー主演男優賞など各賞を受賞、100本近くの映画に出演してきたハリウッドの第一人者の一人です。

デ・ニーロの役作りへの徹底的な姿勢は、「デニーロ・アプローチ」と呼ばれています。本作でアル・カポネを演じる際にも、10キロ余り体重を増やし、頭も剃りました。デ・ニーロは、アル・カポネの丸顔が余りにも知られているからやむを得なかったと述べています。

絶賛されたマローン役のショーン・コネリー

初老の警官であるマローン役を演じたのは、ショーン・コネリーです。ショーン・コネリーは、『007』シリーズの初代ジェームズ・ボンドを務めて、ブレイクしました。

その後も、多くの作品に出演し、製作も手掛けるようになり、イギリスを代表する俳優となりました。2006年にはエリザベス女王からナイトの勲章を授与されています。

本作でのショーン・コネリーの演技は高い評価を受け、アカデミー賞助演男優賞を受賞しています。ジェームズ・ボンド役以降、ヒット作に恵まれなかったショーン・コネリーは、本作により再び第一線へ返り咲き、人気を回復しました。

ボードウォーク・エンパイア 欲望の街

ドラマ「ボードウォーク・エンパイア 欲望の街」にも、アル・カポネは登場します。HBO製作のテレビドラマシリーズで、スティーヴ・ブシェミが主演し、マーティン・スコセッシ監督らが製作総指揮を務めました。同ドラマは2011年にエミー賞で監督賞を含め、最多8部門を受賞するなど、高い評価を受けました。

「ボードウォーク・エンパイア 欲望の街」あらすじ

禁酒法時代のアメリカ東部の街アトランティックシティ。郡収入役のイーノック・“ナッキー”・トンプソン(スティーヴ・ブシェミ)は、賄賂や酒の密輸・密造で巨額の富を手にし、絶大な権力を築いていた。

ナッキーは、ニューヨークのギャングであるロススタインとの取引を成立させたが、輸送中の荷物をナッキーの運転手ジミーとシカゴのギャングであるトーリオの運転手アル・カポネが強奪する…。

アル・カポネ役はスティーヴン・グレアム

アル・カポネ役を務めたのは、スティーヴン・グレアムです。スティーヴン・グレアムはイングランド出身の俳優で、ガイ・リッチー監督の2000年の映画「スナッチ」でブレイクしました。

その後、アメリカのテレビや映画にも出演するようになります。2002年にはマーティン・スコセッシ監督の映画「ギャング・オブ・ニューヨーク」に出演しました。

2019年にはアル・カポネの伝記映画「Fonzo」が公開予定

2019年秋にはアル・カポネの伝記映画「Fonzo」が公開される予定となっています。同映画はアル・カポネが連邦刑務所に収監され、精神を病んだ11年間を描いています。

監督を務めたのは、ジョシュ・トランク。ジョシュ・トランクは2011年に映画「クロニクル」で長編監督デビューし、世界で興行収入1億2500万ドルのヒットを叩き出して高い評価を得ました。2015年には映画「ファンタスティック・フォー」を監督しています。

「Fonzo」の製作は2016年10月に公表され、2018年4月に撮影が開始されました。ポストプロダクションは同年晩夏に始まり、2019年3月に終わっています。

アル・カポネ役はトム・ハーディー

アル・カポネ役を務めたのは、トム・ハーディです。トム・ハーディはイングランド・ロンドン出身の俳優で、リドリー・スコット監督の2001の映画『ブラックホーク・ダウン』でハリウッドデビューしました。

2010年にはクリストファー・ノーラン監督の『インセプション』に出演して知名度を上げました。2012年には『ダークナイト ライジング』で悪役のベインを演じ、2015年には『マッドマックス 怒りのデス・ロード』で、2018年には『ヴェノム』で主演を務めています。

トム・ハーディは自身のインスタグラムにアル・カポネを演じている写真をアップし、話題となっています。

松平健が主演の舞台「アンタッチャブル」

2011年5月には松平建が主演する舞台「アンタッチャブル」が上演されました。松平健はアル・カポネを演じており、カポネがダンサー志望のマリアに恋をするラブコメディです。松平健が馬に乗り、暴れん坊将軍を思わせるようなシーンもあり、話題となりました。

音楽でも題材にされるアル・カポネ

アル・カポネは、映画やドラマだけではなく、音楽においても題材とされてきました。有名なものとしては、クイーンの「STONE COLD CRAZY」があります。1974年のアルバム「シアー・ハート・アタック」に収録されています。

同曲は夢について歌った曲で、「僕はアル・カポネになっていた」という歌詞が出てきます。またアル・カポネらマフィアの代名詞的な武器であるトミーガンも登場します。

1990年にはヘビーメタルバンドのメタリカが同曲をカバーしました。当初は、コンピレーションアルバムに収録されましたが、のちにシングル「エンターサンドマン」のB面として収録されました。

禁酒法時代のアメリカを象徴する人物

アル・カポネは1939年11月17日に出所し、ひっそりと暮らしました。1947年1月21日に脳溢血で倒れ、肺炎を併発します。そして同月25日、フロリダのパーム・アイランドの自宅で亡くなりました。享年48歳でした。

彼は1920年代、禁酒法時代のアメリカを語る上で欠かせない人物であることは間違いないでしょう。

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