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鈴木ヒロミツの死因は?余命3ヶ月と宣告された真相や経歴をご紹介!

鈴木ヒロミツさんは「ザ・モップス」のボーカルとして活躍され、アーティストとしてだけでなく、俳優活動などマルチに活躍されていました。余命3ヶ月と宣告された鈴木ヒロミツさんの死因とは?今回は、鈴木ヒロミツさんの死因や経歴、妻やお子さんについてご紹介します。

鈴木ヒロミツとは

鈴木ヒロミツは「ザ・モップス」のボーカルとして活躍され、アーティストとしてだけでなく、俳優活動などマルチに活躍されていました。余命3ヶ月と宣告された鈴木ヒロミツの死因はなんだったのでしょうか。今回は、鈴木ヒロミツさんの死因や経歴、妻やお子さんについてご紹介します。

鈴木ヒロミツのプロフィール

鈴木ヒロミツはどんな人物だったのでしょうか。プロフィールをみていきましょう。また、ザ・モップスという超有名バンドのヴォーカルも務められており、美食家で本も出版されているという意外な一面も見えてきました。

鈴木ヒロミツのプロフィール

  • 本名(ふりがな/愛称):鈴木 弘満(すずきひろみつ/)
  • 所属事務所:ホリプロ
  • 生年月日:1946年6月21日
  • 現在年齢:60歳没
  • 出身地:東京都
  • 血液型:不明
  • 身長:不明
  • 体重:不明
  • 活動内容:歌手、俳優、タレント
  • 所属グループ:ザ・モップス
  • 家族構成:妻、弟、子供1人

ザ・モップスのボーカルを担当

鈴木ヒロミツはロックバンド「ザ・モップス」のボーカルを務めました。モップス(The Mops)は、日本のグループサウンズ、ロックバンドでした。日本のサイケデリック・ロックにおける草分け的存在として知られています。

メンバーは5人です。鈴木ヒロミツがボーカル、星勝がギター、ボーカル、三幸太郎がベース、村上薫がベース、スズキ幹治がドラムスです。

美食家の顔を持つ鈴木ヒロミツ

鈴木ヒロミツさんは美食家でもあり、紀行番組のグルメリポーターとしても活躍、2002年に自らが堪能した絶品料理を紹介した単行本『食わずに死ねるか!』を出版しました。

この本は芸能生活の集大成として書いた食エッセイ集です。芸能生活35年、ドラマのロケや料理・旅番組のレポーターとして、日本・世界各地の珍品逸品を食べてきた中から思い出深いエピソードをまとめたものです。

鈴木ヒロミツの死因は?余命3ヶ月と告げられた?

鈴木ヒロミツは残念ながらもう亡くなられています。そんな鈴木ヒロミツですが、死因は一体何だったのでしょうか。調べてみると診断されてから余命3ヶ月だったといいます。どのような病気で、どのような治療を受けてきたのでしょうか。見ていきましょう。

鈴木ヒロミツの死因は肝細胞癌

2006年に肝細胞癌と診断され余命3ヶ月と宣告されました。医師の診察を受けた時、すでに死因となる病気が進んでいたといいます。しかし、鈴木ヒロミツさんは冷静に受け止めて家族には笑って伝えたそうです。

笑っていたのは悲しませないようにという配慮だったのでしょうか。

肝細胞癌とは

肝臓に発生する腫瘍の1つで、肝細胞に由来する悪性腫瘍です。

原発性肝癌の90%以上を占めている病気のようです。80%〜90%が肝硬変あるいはその前段階である慢性肝炎に合併して発生します。男女比は約3:1で男性が多いようです。発症平均は60代前半が多いようです。

日本や東アジアでは欧米よりも肝細胞癌の発生率が高いです。これは元々地域的にC型肝炎の感染率が高いことが原因と考えられています。日本や西欧ではC型肝炎が原因として多いが、その他のアジアやアフリカではB型肝炎が多いという違いがあります。

入院治療を行わなかった鈴木ヒロミツ

鈴木ヒロミツが選んだのは入院治療ではなく妻や息子と一緒に過ごす時間を持つことでした。入院治療はせずに家族と自宅で過ごすことを選択したのです。延命治療はしないと決めて、タバコやお酒も辞めることなく自宅で家族との時間を大切に過ごされたそうです。

とても家族思いであったことがわかります。

鈴木ヒロミツの死に多くの人から悲しみの声が寄せられる

鈴木ヒロミツが亡くなった後、多くの人から悲しみの声が寄せられました。その中には同じ事務所の和田アキ子や音楽評論家の冨澤一誠も居ました。また、闘病中の鈴木ヒロミツの発言や行動をみていくと、相当な家族愛があったことがわかります。詳しく見ていきましょう。

2007年家族に看取られながら死去

鈴木ヒロミツは余命宣告を受けてから、入院治療を行わず家族のそばで療養生活を続けました。しかしながら、2007年3月から体調は次第に悪化していきました。同年3月13日に東京都千代田区の病院に入院となり、14日午前10時02分に家族に看取られて亡くなりました。亡くなる少し前まで、妻の美恵子さんや息子の雄大さんの名前を呼んでいたそうです。60歳でした。

生前に戒名を決めていた鈴木ヒロミツ

鈴木ヒロミツは生前に自分の戒名を決めていました。戒名は「美雄永満愛大喜善居士」で、自分の名や妻の美恵子さん、息子の雄大さんの名前の漢字が入っていて、家族への愛が込められているのがわかります。よほど家族を愛していたのでしょう。

多くの著名人から惜しみの声が届く

鈴木ヒロミツさんの死に対して、多くの著名人から惜しみの声が届きました。ザ・モップスのボーカリストとして、俳優としての影響力の大きさだけではなく、その温かな人柄がうかがい知れるものでした。いろんな業界人に愛されていたことがうかがえます。

ザ・モップスの星勝

鈴木ヒロミツが所属していたザ・モップスでギター、ボーカルを担当していた星勝は、鈴木ヒロミツが亡くなる前日に病室を訪れたそうです。

「バンドは解散してもメンバーや関わってきた人たちのことをいつも気に留めているような人でした。対面して、話ができてよかった」と鈴木ヒロミツの人柄を振り返りコメントをしています。

和田アキ子

鈴木ヒロミツは、和田アキ子にとって数少ない同じ所属事務所(ホリプロ)の先輩でした。葬儀の時に和田アキ子さんは「いい先輩を持って誇りに思います」と涙をこらえながらコメントしました。

2008年に発売された和田アキ子のCDアルバム「わだ屋」には、鈴木ヒロミツがボーカルを務めたザ・モップスの代表曲「たどりついたらいつも雨ふり」が二人のデュエットとして収録されています。

冨澤一誠

音楽評論家の冨澤一誠は「彼は、日本の音楽会においてロックのパイオニアだった。俳優やタレントとしても成功していたが、根本には常にロックがあったと思う」と、ミュージシャンとしての功績をたたえました。

鈴木ヒロミツに妻や子供はいる?

鈴木ヒロミツの家族構成はどうなっているのでしょうか。妻や子供はいるのでしょうか。調べてみると、息子さん現在ホリプロで有名アーティストのプロデューサーをしており、父親と同じ音楽の道へ進んでいるようでした。そのアーティストとは誰なのでしょうか。見てみましょう。

一般人の妻がいる

美恵子さんという一般人の奥さんがいます。一般の方なのであまり情報がないようですが、結婚する前から恵美子さんにかなり惚れ込んでいたそうです。

「余命三ヶ月のラブレター」に綴られているように、鈴木ヒロミツさんは病床でも妻にたくさんの手紙を書き残しました。そして最期は、愛する妻に看取られて亡くなることとなりました。

鈴木ヒロミツには一人息子がいる

雄大という一人息子がいます。名前は雄大さんです。亡くなる前には、所属していた事務所(ホリプロ)の社長である堀義貴さんに「息子を頼む」と伝えていたそうです。やはり、音楽活動の道に進んだ息子が心配で、社長に頼んだということではないでしょうか。

父の影響で息子も音楽に興味を持つ

雄大さんは音楽に興味を持っていて、音楽関係の仕事に関わっていると言われています。ネット検索で出てくる鈴木雄大さんという歌手の方は同姓同名の別人で、息子の雄大さんはあまり表舞台の仕事ではないようです。

妻と息子への手紙が本に

妻と息子に宛てた手紙は「余命三ヶ月のラブレター」という本になって出版されています。そこには初めての診断はいきなり「余命三カ月」だったことが書かれてあります。それから考えに考え抜いたこ、。最愛の家族、仕事、仲間、そして人生の意味、誰もが必ず直面する、「死」を受け入れることとは何かについて言及があります。

最期に辿り着いた「人生の至福」とはなんだったのでしょうか。涙なくしては読めない感動のラストメッセージとなっています。

鈴木ヒロミツの弟はどんな人?

鈴木ヒロミツの弟さんはザ・モップスでドラムスを務めていました。そもそも星、三幸、村上、スズキ幹治の四人によりインストゥルメンタルバンド「チェックメイツ」として結成されたのがザ・モップスの前身となるバンドで、そこへスズキ幹治の実兄である鈴木ヒロミツがボーカルとして加わり、五人組バンドとして本格的な活動が開始されたのです。では、どんな人物なのでしょうか。現在は何をやっているのでしょうか。

「ザ・モップス」のドラムスは実の弟

鈴木ヒロミツと弟の幹治は、一緒にザ・モップスのメンバーとして活動していました。チェックメイツから、ドラムスを担当していました。幹治はザ・モップスでもドラムスを担当していましたが、バンドの解散後は音楽プロデューサーとして活躍することとなります。

浜田省吾のプロデューサーを担当

中でも、浜田省吾をマネージャーとして、プロデューサーとして長年にわたり支え続けました。浜田省吾は日本を代表するシンガーソングライターです。ですので、そのプロデュース力は相当のものだったのでしょう。

鈴木幹治さんがプロデュースしたレコードは多く、「木枯らしの季節」「生まれたところを遠く離れて」「涙あふれて」「Sand Castle」「Thank you」「Illumination」「…to be "Kissin'you"」「ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend"」「Dream Catcher」「僕と彼女と週末に」「LOVE TRAIN」「MIND SCREEN」「君が人生の時・・・」「マイホームタウン」「ON THE ROAD」などがあります。

鈴木ヒロミツの弟の現在は?

幹治がプロデュースしたレコードは数多く、バンドの解散後も長く現在までプロデューサーとして活躍されています。父親の「息子を頼む」という約束を守ったのか、現在までホリプロ所属です。幹治は、ザ・モップス解散後から、ずっと浜田省吾さんを支え続けました。

鈴木幹治の娘はバックコーラスを担当!

幹治の娘さんは、2人います。JustineさんとSean Lisaさん、この2人が浜田省吾さんの「I am a father」の7冒頭部分のコーラスをそれぞれ14歳と11歳で歌ったと会報130号で省吾さんが語ったと書かれているそうです。

ロックミュージシャン鈴木ヒロミツの生前の活躍を振り返る!

鈴木ヒロミツの生前の活躍はどのようなものだったのでしょうか。彼はザ・モップスでの活躍が有名で、著作活動は先ほど紹介いたしましたが、実はそれ以外にも俳優やCM出演にも活躍の場を広げていたのです。どんな活躍だったのでしょうか。見ていきましょう。

1966年「ザ・モップス」の前身のバンドが結成

1966年に、埼玉で鈴木ヒロミツの弟である鈴木幹治が作ったバンドが、チェックメイツです。メンバーは、ギターとボーカル担当の星勝・ベース担当の三幸太郎・ベース担当の村上薫・ドラムス担当のスズキ幹治の4人でした。

インストゥルメンタルバンドだったチェックメイツに幹治の兄である鈴木ヒロミツがボーカルで入って5人になりました。曲は黒っぽいロックやブルース・ロックを目指していたようです。

メンバーが5人になってから、本格的にバンド活動がスタートしました。これが後のザ・モップスに変わって行きます。

1967年「ザ・モップス」のボーカルとしてデビュー

チェックメイツとして本格的にバンド活動をしていた1967年、都内のゴーゴー喫茶などで活動していた最中にスカウトされてホリプロと契約することになりました。

11月に日本ビクターからシングルデビューを果たします。主にジャズ喫茶や米軍キャンプでの演奏が多く、当時のグループサウンズのバンドとは、路線が違っていたそうです。

鈴木ヒロミツは、ザ・モップスのボーカルとして数々の歌を歌っています。井上陽水や忌野清志郎はザ・モップスの前座をしていたことがあります。松任谷由実さんは追っかけをしていたようです。

「月光仮面」がヒットし知名度を上げる

1971年に発売された「月光仮面」と言う曲は、バラード調からスタートし、途中にセリフが入っていて、面白い曲です。

バンドの音楽もサイケデリック・サウンドと言われているだけあって、聴き応えがあります。途中のセリフは、宇宙語を話す月光仮面に鈴木ヒロミツがインタビューをしているのだそうです。ライブでこの曲を演奏する時には、毎回セリフが違っていてファンを楽しませていました。

1974年惜しくも解散に

ザ・モップスは、1974年5月に解散してしまいます。7月にアルバム「イグジット」が発売されました。解散後、星勝は、TV番組などの音楽を担当するようになりました。鈴木ヒロミツは、俳優やタレントとして活動するようになります。

当時は、歌謡曲とフォークがブームだったためにロックバンドでの活動に限界を感じ、解散することになったようです。解散後、メンバーはそれぞれの活躍の場へと向かって行きます。

歌手として着実に人気を集めていった鈴木ヒロミツ

鈴木ヒロミツは歌手として着実に人気を集めていきました。特に一番人気の『たどりついたらいつも雨ふり』は様々なアーティストにカバーされる大ヒットとなりました。どんな曲を作ったのでしょうか。それぞれ見ていきましょう。

ザ・モップスの最大のヒット曲は『たどりついたらいつも雨ふり』

ザ・モップスとしては『たどりついたらいつも雨ふり』が一番のヒット曲になりました。「たどりついたらいつも雨ふり」は、1972年に発売されたザ・モップスの12枚目のシングルです。この曲は吉田拓郎の提供で、約14万枚を売り上げたのです。

その後、吉田拓郎がセルフカバーで歌った他、多数のアーティストがカバーして、多くの方に愛された曲となりました。

記念すべきソロデビュー曲『でも、何かが違う』

『でも、何かが違う』という曲は1975年に発売された、鈴木ヒロミツさんのソロデビュー曲となりました。ドラマ「夜明けの刑事」の主題歌となった曲ですので、ドラマと合わせて記憶に残っている方も多いです。この曲は前半のありふれた日常の歌詞を後半、「でも、何かが違う」と全否定しており、人生を考えさせられる歌詞となっています。

単独で活躍の場を広げていった鈴木ヒロミツ

鈴木ヒロミツは単独での歌手や作曲で大成功し、ドラマのエンディングなどにも使用されていきました。また、音楽活動だけでなく俳優やCM出演も行いました。どのような活動を行っていったのか詳しく見ていきましょう。

多数の企業CMに出演

鈴木ヒロミツは、ザ・モップス当時に単独ででCMに出演していました。代表的な作品は、モービル石油やアメリカンファミリー生命保険会社・湖池屋のCMです。

この他に、福岡の銘菓であるひよ子・づぼらやのCMにも出演していて、合計5本の作品があります。

俳優活動も行なっていた鈴木ヒロミツ

鈴木ヒロミツさんは、CMだけでなく芸能界で俳優やタレントとしても活躍していました。「時間ですよ」シリーズ3の第66~95回の放送に釜田質店の従業員である猫田役で主演しました。

さらに「江戸を斬る」「水戸黄門」などの時代劇にも出演していました。テレビドラマだけではなく、映画にも多数出演しています。現在でも有名な時代劇で、再放送もされています。

「夜明けの刑事」で俳優としての知名度を上げる

1974年から1977年に放送されたドラマ「夜明けの刑事」に出演したことで、俳優として有名になりました。

「夜明けの刑事」の中では三枚目のムードメーカー的存在の刑事を演じ、坂上二郎さん、石立鉄男さん、石橋正次さんらと共演しています。

エンディング曲「愛に野菊」を担当

鈴木ヒロミツは、BS系TV映画『明日の刑事』のエンディングである『愛に野菊』を歌いました。ドラマでの演技とともに人々に印象づけられることとなりました。先ほど紹介した『でも何かが違う』は暗い部分が全面に出ていた曲ですが、テーマが愛でこの曲はやすらぎの曲といえるのではないでしょうか。デビュー曲の重い歌詞と比べて、癒やされる曲となっています。

アニメのエンディング曲を担当

1981年から1982年に放送されたアニメ「タイムボカンシリーズ・ヤットデタマン」では、エンディングテーマである「ヤットデタマン・ブギウギ・レディ」を担当しました。

この歌のレコーディングの時には鈴木ヒロミツはなかなか上手く歌うことができず、ライブの時のようにハンドマイクを使ってOKを出したという話が残っています。

『たどりついたらいつも雨ふり』をカバーした歌手

この曲は元々は吉田拓郎がアマチュア時代に所属していたGSバンド「ダウンタウンズ」の曲で『第2回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』に出場した際に演奏していた曲でした。 タイトルも元々は「好きになったよ女の娘」でした。

ザ・ベンチャーズ

ザ・ベンチャーズ(The Ventures)は、アメリカ合衆国のインストゥルメンタルバンドです。1959年にドン・ウィルソンとボブ・ボーグルにより結成され、メンバーチェンジを繰り返しながら結成後60年ほど経過した現在も精力的に活動中です。

故郷アメリカではサーフ・ギター・サウンドの元祖とされ、また日本に於いてはビートルズと並び、後の日本のポップス、ロック界に多大なる影響を与えたバンドとされているのです。2008年にはロックの殿堂入りを果たした。代表曲には「急がば廻れ(ウォーク・ドント・ラン)」「ダイアモンド・ヘッド」「10番街の殺人」「パイプライン」「ワイプアウト」「朝日のあたる家」「キャラバン」「ハワイ・ファイブ・オー」など、多数の他のミュージシャンの作曲家の曲を中心とした楽曲が有名です。。ベンチャーズでは、他の楽曲を演奏することをカバーとは呼んでいません。ドン・ウィルソンはテレビ番組"sound to soul"で、原曲より売れた曲はカバーと呼ばない、すべてベンチャーズの曲であると紹介しています。

1973年に『たどりついたらいつも雨ふり』をカバーしました。

子供ばんど

KODOMO BAND(こどもばんど)は、日本のハードロックバンドです。1973年に結成し、1980年にデビューしました。1988年に活動停止しましたが、2011年に活動再開しました。旧表記は、子供ばんどです。1980年代前半に、ジャパニーズヘビーメタルが登場する以前に海外のハードロックの影響をダイレクトに受けた演奏を展開しました。

アニメ『北斗の拳』劇場公開版の主題歌『Heart of Madness』やテレビアニメ版主題歌『SILENT SURVIVOR』などのヒット作があります。

1979年にはヤマハ主催の『EastWest』に出場し、グランプリを受賞しました。個人でも、うじき、谷平がベストギタリスト賞を、山戸がベストドラマー賞を受賞しました。

『たどりついたらいつも雨ふり』は1986年、アルバム「NO GIMMICK」収録されています。

氷室京介

氷室 京介(ひむろ きょうすけ)は、日本のロックボーカリスト、シンガーソングライターです。

1982年、氷室狂介の名前で、ロックバンド・BOØWYのヴォーカリストとして、アルバム『MORAL』でデビューします。1987年12月24日、およそ6年の活動期間を以てBOØWYは解散します。1988年、シングル『ANGEL』でソロデビューし同年オリコン年間順位8位となりました。

近年はセルフプロデュースが主でしたが、ライブ活動の無期限活動停止を発表し、2015年の「KYOSUKE HIMURO LAST GIGS」というドームツアーを持ってライブは活動停止となっています。

『たどりついたらいつも雨ふり』は1988年のシングル「DEAR ALGERNON」に収録されています。また、自身のライブでもよく歌われていました。

THE POGO

THE POGO(ザ・ポゴ)は1985年に結成された日本のパンク・ロックバンドで、1993年解散しました。現JIGHEADの小河原良太が中心となり現the pillowsの佐藤シンイチロウと共に、1985年に結成されました。1989年、徳間ジャパンとメジャー契約し、1992年『THE WORST OF POGO』を発表後、自らのプロデュースに戻り、スリリングなパンクサウンドを標榜します。しかし、バンドのピークともいえる傑作『COCK AND BULL TUNES』を発表後、突如解散しました。ビデオ『HISTORY OF POGO』での小河原良太の言葉によると「これがPOGOの完璧なサウンドだと分かったから、解散した」そうです。

『たどりついたらいつも雨ふり』は1992年のシングル「たどり着いたらいつも雨降り」に収録されています。

大友康平

大友 康平(おおとも こうへい)は、日本のロックバンド「HOUND DOG」(ハウンド・ドッグ)のボーカル、俳優、タレントです。

大学時代にサークルのメンバーらとHOUND DOGを結成し1979年(昭和54年)第1回CBSソニーSDオーディションに合格します。そしてロックジャムで準グランプリ、最優秀ボーカリスト賞を受賞してソニーレコードと契約しました。

原口あきまさや山口智充をはじめとして、独特な歌唱法が多くのものまね芸人に敬意を込めて笑いのタネにされる事も多く、「水曜日のダウンタウン」への出演や「タマホーム」のCMなどで分かるように、近年は大友本人も歌唱法を笑いのタネにしています。

『たどりついたらいつも雨ふりは』2008年のアルバム『J-STANDARD 70's』に収録されています。

鈴木ヒロミツの影響

鈴木ヒロミツは音楽業界に多大な影響を与え、様々な人から愛され、リスペクトされている人物でした。亡くなってしまったのは惜しいですが、その意思は『たどりついたらいつも雨ふり』のカバーにも表れているように、現在の音楽界にも影響を与え続けているということが出来るのではないでしょうか。

また、戒名に家族の名前を書いた鈴木ヒロミツの意思は家族にも継承されており、父親と同じ音楽の道で活躍されているのです。

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