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「たこ八郎」の伝説や死因とは?タモリ、赤塚不二夫、あき竹城との交流も!

昭和の時代に活躍した「たこ八郎」という人物を知っていますか?だらしない見た目と常に酒に酔ったような振る舞いが、とてもチャーミングかつコミカルで人々から親しまれる存在として大人気でした。そんなたこ八郎さんの経歴や伝説、死因や著名人との交流についてご紹介します!

たこ八郎のプロフィール

本名斎藤 清作(ふりがな/愛称):(さいとう せいさく/河童の清作 たこちゃん)

生年月日:1940年11月23日

現在年齢:享年44歳

出身地:宮城県仙台市宮城野区新田

血液型:不明

身長:不明

体重:不明

活動内容:プロボクサー コメディアン 俳優

所属グループ:なし

家族構成:不明

たこ八郎はどんな人?

たこ八郎さんはコメディアンとして人気になりましたが、元々はプロボクサーとして活躍しました。わざと殴られるという常識では考えられないファイトスタイルでしたが、チャンピオンにまでなっています。また、俳優としても多数のドラマや映画で活躍しています。

たこ八郎さんの様々な活躍についてご紹介します。

ボクサーとして天下を取った

たこ八郎さんは仙台育英学園高等学校に入学後、ボクシングを始めました。2年生の時に、宮城県の県大会で優勝しています。高校卒業後に上京し、映画館でフィルム運びしながら笹崎ボクシングジムに入門します。東日本新人王戦では、ファイティング原田さんと同門対決になったため対戦を辞退しました。

ボクサー時代のニックネームは「河童の清作」でした。たこ八郎さんは相手のパンチを避けずにわざと受けて疲れたところにラッシュをかける無茶なファイトスタイルでしたが、1962年には第13代日本フライ級チャンピオンの座についています。

どれだけ打たれてもダウンはせずに、挑発的な言葉を対戦相手にかけていたそうです。「効いてない効いてない」と耳元でささやき続ける戦法は、相手にとって恐怖だったとファイティング原田さんは後に語っています。しかし、ダメージの蓄積からパンチドランカー症状が出てしまい、1964年に引退します。

コメディアンとして名を馳せた

たこ八郎さんは、ボクサー時代に同郷のコメディアンである由利徹さんに弟子入りしようとしています。しかし、弟子にするつもりはなかった由利徹さんは、チャンピオンになったら弟子入りを認めると言って追い返したそうです。

しかし、本当にたこ八郎さんがチャンピオンになったため、弟子入りを認めることになりました。「たこ八郎」という芸名は、居酒屋の「たこきゅう」から取られました。デビューして間もないころは右耳が欠けた風貌を恐れられることもありましたが、少しずつ人気が出ていきました。

テレビに出演している時は常に酩酊状態のような雰囲気でしたが、それは計算された演技だったと言います。体に金粉を塗りたくって登場したこともあったそうです。特徴的な風貌も次第にコミカルと捉えられるようになり、お茶の間の人気者になっていました。

俳優として数々の映画やテレビドラマに出演

俳優になるのが夢でボクサーになる前は映画関係の仕事をしたこともあったたこ八郎さんですが、ボクサーを引退後に俳優になる夢もかなえています。コメディアンとして独特の演技を行っていたたこ八郎さんの演技力は、俳優になってからも発揮されました。

網走番外地に出演したのを皮切りに、山田洋次監督の作品「黄色いハンカチ」で高倉健さんと共演します。松田優作さん主演のテレビドラマ「探偵物語」にも出演するなど、大物俳優との共演も多いです。

酔っ払い役が多いのは、コメディアンの時の演技が評価されたからでしょう。ビックマグナム黒岩先生では多胡清という役名で出演し、黒岩先生役の横山やすしさんとスクリーンで共演を果たしています。

たこ八郎のビックリ仰天な伝説とは?

たこ八郎さんには数々の伝説的なエピソードがあります。破天荒なものから信じられないようなもの、意外なものがありますが、どこまで本当なのでしょうか?実は真実とは違うエピソードもあります。たこ八郎さんの数々の伝説についてご紹介します。

犬に噛まれたせいで右耳が欠けている

たこ八郎さんといえば、外見的な特徴として右耳が欠けています。かなり大きく右耳が欠けてているので、非常に目立ちます。この耳に関して犬と喧嘩して食いちぎられたという伝説がありますが、本当なのでしょうか?

これに関してはビートたけしさんの番組で、たこ八郎さん本人の発言で間違いだと判明しています。耳が欠損した原因は確かに喧嘩ですが、相手は人間です。耳は噛み千切られたわけではなく、病院で治療を受けて縫っています。

しかし、その後の消毒をきちんとしなかったため、化膿して取れてしまったと語っています。ある意味、犬に噛まれた以上に驚きの真相ですね。聞いていたビートたけしさんも驚いていました。

プロボクサーなのに左目が見えない

たこ八郎さんの伝説としてプロボクサーなのに、左目の視力がないというものがあります。これは本当なのでしょうか?信じられない話ですが、これは本当です。視力を失った理由は家庭が裕福ではなかったため、親に目が悪くなったことを隠して治療を受けなかったせいです。

本来なら、プロテストを受けること自体ができないのですが、たこ八郎さんはこの事実を隠してテストを受けました。なんと視力表を丸暗記してしまうという荒業で、プロテストを切り抜けたと言います。どうやって視力表の内容を知ったのかは分かっていません。

当然、右見が見えないことは致命的なハンデです。しかし、たこ八郎さんはわざと殴られるノーガード戦法で戦い、全日本王者にまで上り詰めました。しかし、パンチを避けることができないハンデは大きく、パンチドランカーを患って引退することになりました。

ピンク映画への出演

たこ八郎さんの伝説には、ピンク映画に出ていたというものあります。たこ八郎さんは、プロボクサーを引退後の1966年から映画に出演していましたが、最初の頃はピンク映画だったのです。当時は、ピンク映画に出演した俳優が、その後に大きな会社の映画に出演することはほとんどありませんでした。

しかし、たこ八郎さんによって流れが変わります。東映の撮影所で酔って寝てしまったたこ八郎さんは、高倉健さんに起こされて「うちの映画にも出てくださいよ」と誘われたそうです。

酔っていたたこ八郎さんは軽い気持ちで引き受けたそうですが、それによって「網走番外地」に出演することになります。その後、大きな映画に出演することが増えました。ピンク映画に出た俳優が大きな映画にでることも当たり前になりますが、その流れを作ったのはたこ八郎さんなのです。

矢吹丈のモデルになった!

たこ八郎さんは、矢吹丈のモデルになったという伝説があります。矢吹丈は、戦後で最もヒットした漫画の1つと言われるあしたのジョーの主人公です。たこ八郎さんが現役引退後の漫画で、引退してから4年後に始まっているので時期的にはぴったりでしょう。

矢吹丈は1人のボクサーがモデルになったわけではなく、複数のボクサーをモデルにしています。たこ八郎さんは片目の視力がなかったため、わざとパンチを受けて相手を消耗させるファイトスタイルでした。

矢吹丈は視力に問題はありませんが良く殴られており、驚異的な打たれ強さを持つボクサーです。作者が言っているわけではないのですが、矢吹丈のファイトスタイルはたこ八郎さんのファイトスタイルに似ています。モデルの1人である可能性は高いでしょう。

日焼けして顔が2倍に膨れ上がった

たこ八郎さんの伝説には、日焼けして顔が2倍に膨れ上がったというエピソードもあります。これも、信じられない話ですが、たこ八郎さんの友人のあき竹城さんが実際にあったこととして話しています。

サイパンに4泊5日の旅行に行ったとき、たこ八郎さんは毎日ビーチで昼寝をしてしまい気が付いた時には顔や腕がパンパンに腫れ上がってしまったそうです。2倍というのはイメージでしょうが、そのくらい腫れていたということでしょう。

にわかには信じがたい話ですが、何日も暑い日差しの中で昼寝を続けていればあり得ない話ではないでしょう。破天荒なたこ八郎さんらしい伝説と言えます。

人の家を泊まり歩いては寝小便をした

たこ八郎さんの伝説には、人の家を泊まり歩いては寝小便をしたというものもあります。なんとも破天荒な伝説ですが、寝小便をしていたのには理由があります。パンチドランカーになっていたたこ八郎さんは、言語障害と健忘症だけでなく、夜尿症もあったといいます。

コメディアンの師匠の由利徹さんの家に居候していたたこ八郎さんは、毎日のように寝小便をしてしまいます。このことを申し訳なく思ったたこ八郎さんは、友人の家に泊めてもらうようになります。

その結果がこの伝説に繋がるわけです。普通なら迷惑がられそうですが、素直で純朴な性格のたこ八郎さんのことを悪く言う人はいなかったようです。たこ八郎さんは、周囲への感謝の言葉を常に残していました。

たこ八郎の死因とは?

コメディアンとして人気の絶頂期にあったたこ八郎さんですが、1985年に44歳で急逝します。あまりに突然の死は多くの人に衝撃を与えました。たこ八郎さんが死んだ経緯や死因についてまとめてみました。

きっかけは飲酒後の海水浴

たこ八郎さんは、海水浴中に亡くなりました。海水浴の前にだいぶお酒を飲んでいたことが、原因になったようです。たこ八郎さんはボクサーをしていた頃から飲酒していたそうで、ファイティング原田さんは飲酒していてもチャンピオンになったたこ八郎さんを天才とも言っています。

コメディアンとしても酔っ払いのようなキャラで売っていましたが、たこ八郎さんは計算された演技をしていました。新聞の切り抜きをして、芸を研究するなどかなり勉強熱心でしっかりした性格だったようです。しかし、お酒に関しては歯止めが効かなかったようで、周りに止められても飲んでいました。

どうしても飲むのをやめられなかったたこ八郎さんは、亡くなった日も観光客と一緒に飲んだ後にそのまま泳いでしまいました。一緒に海に行ったファイティング原田さんが気が付いた時には、たこ八郎さんは海にうつ伏せで浮かんでいたそうです。決して海は深くなかったといいます。

死因は心臓麻痺

海に入って死んでしまったたこ八郎さんですが、溺れて溺死したわけではなく死因は心臓マヒだったそうです。お酒を飲んだ後に泳ぐ人は結構いるのではないかと思いますが、飲酒後の海水浴は危険と言われています。

飲酒後は血圧が低下し、動機が速くなるなど心臓に負担がかかっています。そのまま海に入ることは心臓に更に負担がかかり、かなり危険なのです。たこ八郎さんは、泳ぎに自信があったということで油断もあったのでしょう。

最後に泳いだ神奈川県舞鶴の海は、たこ八郎さんが青春時代に何度も訪れた場所だったそうです。享年、44歳の若さでした。

たこ八郎の葬儀に参列した著名人とは?

たこ八郎さんの葬儀には親交のあった多数の著名人が参列しました。たこ八郎さんの葬儀に参列した著名人の一部をご紹介します。

葬儀委員長を務めた赤塚不二夫

赤塚不二夫さんとたこ八郎さんの交友関係は、由利徹さんに弟子入りした頃に始まりました。1980年ごろに漫画家の赤塚不二夫さんを中心にした赤塚会という集まりがあったそうです。

新宿の「ひとみ寿司」という場所で、芸人や歌手、俳優など面白いメンバーが集まり、冷やしキャベツを食べながらよく宴会を開いていました。メンバーは芸を磨くために宴会芸をするのが恒例になっており、たこ八郎さんは「太田胃散の口移し」という芸を披露したこともあったそうです。

たこ八郎さんは、赤塚不二夫さんに自分が死んだら葬儀委員長をしてほしいと冗談のようにいっていたそうですが、現実になりました。赤塚不二夫さんは、出棺の際にたこ八郎さんの額を叩いて「この野郎、逝きやがったな。」と泣き笑いしながら見送りました。

笑っていいとも!で訃報を伝えたタモリ

「笑っていいとも!」は1982年から2014年まで32年間にわたって放送された人気バラエティ番組でした。たこ八郎さんが亡くなった1985年は、「笑っていいとも!」にレギュラー出演していました。そのため、総合司会のタモリさんが、番組中にたこ八郎さんの訃報を伝えることになりました。

初期の「笑っていいとも!」のレギュラーでこのような形で亡くなったこともあり、たこ八郎さんが「笑っていいとも!」に出演していたことは語り草になっています。

たこ八郎さんの葬儀に参列したタモリさんは涙を見せていましたが、「たこが海で死んだ。何にも悲しいことはない」とあくまで明るく見送ろうとしていました。たこ八郎さんとは、赤塚会でも一緒だったようです。

立川談志やビートたけしも参列した

たこ八郎さんの葬儀には、飲み仲間だったという立川談志さんや「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」で共演したビートたけしさんも参列しています。ビートたけしさんは、「みんなが集まってくれるというタレントで終わったことは同じ芸人としては非常に羨ましい」とコメントを残しています。

葬儀の最後は、たこ八郎さんが大好きだった三本締めをして見送られました。決して暗くせずに明るく見送ろうしていますが、参列した人たちの悲しみが伝わってくる葬儀でした。たこ八郎さんが、みんなに愛されていたことが伝わってきます。

あき竹城との深い関係とは?

たこ八郎さんとあき竹城さんは、とても仲が良かったとして知られています。当人たちは純粋な友達で困った時に支えあった関係だそうですが、あまり仲が良かったために「たこ八郎の恋人」としてマスコミに噂されたこともありました。

たこ八郎さんは、友人の家に泊まった時に漏らした伝説が残っていますが、その中の1人はあき竹城さんだったそうです。このことをたこ八郎さんはずいぶん謝っていたそうですが、あき竹城さんは気にしていませんでした。

実は、たこ八郎さんが海水浴に行って亡くなる直前に、あき竹城さんはサイパン旅行に誘われていたといいます。この時は断ってしまったそうですが、もし旅行に行っていたらたこ八郎さんは死ななかったのではないかとあき竹城さんは悔やんでいるそうです。

たこ八郎さんをモデルにしたドラマについて

俳優としても活躍していたたこ八郎さんですが、本人が出演したものではなくたこ八郎さんをモデルにしたテレビドラマも制作されています。たこ八郎さんをモデルにしたドラマは生前から制作されており、たこ八郎さんの人気の高さを証明していると言えるでしょう。

たこ八郎さんをモデルにしたドラマについてご紹介します。

迷惑かけてありがとう

「迷惑かけてありがとう」はNHK総合テレビの銀河テレビ小説として放送された、たこ八郎さんの半生を描いたドラマです。このドラマはたこ八郎さんの自伝小説「たこでーす」が原作となっています。

「迷惑かけてありがとう」は、たこ八郎さんの口癖で座右の銘だった言葉です。相手の迷惑をかけた後に言った言葉だったそうですが、謝るのではなく「ありがとう」というところにたこ八郎さんの考えが現れています。

榎本昭さん演じる主人公の名前は佐々木金助となっており、たこ八郎さんをモデルにした内容になっています。ドラマは1984年の6月に放送されました。

昭和のチャンプ〜たこ八郎物語〜

「昭和のチャンプ〜たこ八郎物語〜」はたこ八郎さんの人生をそのままドラマ化した内容で、1990年に月曜ドラマスペシャルとしてTBSで放送されました。たこ八郎さんを片岡鶴太郎さんが、ファイティング原田さんを渡嘉敷勝男さんが演じました。

ドラマの内容はシリアスなもので、当時はお笑い芸人として活躍していた片岡鶴太郎さんも俳優としてシリアスな演技を披露していました。ドラマのエンディングはスタッフロールが流された後に、三本締めが行われるたこ八郎さんを意識したものになっています。

たこ八郎は地蔵になって見守っている

たこ八郎さんの伝説や死因についてご紹介しました。視力にハンデがあるのにプロボクサーになるというは、信じられない話ですね。破天荒な伝説も多いたこ八郎さんですが、その人柄で大勢の人の愛されました。たこ八郎さんの死後、東京都台東区にたこ八郎地蔵が建立されました。

地蔵は、たこ八郎さんの特徴的な髪形が再現され、胴体にはたこ八郎さん自筆の「迷惑かけてありがとう。たこ八郎」の文字が彫られています。地蔵の後ろには、ボクシンググローブの石像も建てられています。

また、発起人として、師匠の由利徹さんや赤塚不二夫さん、山本晋也、外波山文明、その他友人一同と名前が刻まれています。このような地蔵ができたのも、たこ八郎さんが大勢の人に愛されていた証拠でしょう。

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