ビートたけしが芸能界引退?事故で顔面麻痺の過去や映画作品を紹介
2023/12/28
大今里
みなさんはギタリストとして活躍した弥吉淳二を知っていますか?今回は様々なミュージシャンのバックバンドやプロデュース業で活躍した弥吉淳二の死因について見ていきます。また、椎名林檎との噂や、弥吉淳二がブログやSNSをしていたのかにも注目しています。
弥吉淳二は2018年1月26日に49歳という若さでこの世を去りました。彼の死因は一体何でしょうか?気になって検索した方も多いでしょう。若くして亡くなるということは、どのような原因があったか気になってしまうものです。
弥吉淳二の死因については公表されていませんでした。彼は2年半の闘病生活の末、亡くなりました。長く苦しい闘病生活を送ってきたはずですが、本人たっての希望で公にしていなかったようです。
そのため、ファンは弥吉淳二とのお別れがたいへん急なものに感じられたはずです。訃報を聞いて驚き、受け止めるまで時間がかかった人もいるでしょう。
では弥吉淳二の病名は何だったのでしょうか?一説によると膀胱癌であったとの情報も見つかりましたが、公式のものではないため噂の域を出ていません。
病気をするとブログやSNSで病状や気持ちを発信をする芸能人が多い中、弥吉淳二は闘病を隠し音楽活動をしていました。彼の生き方はあくまでもミュージシャンでした。弥吉淳二は自らの美学を貫き、最期まで闘病を隠していたのではないでしょうか。
弥吉本人によるブログやSNSは見つかりませんでした。
弥吉淳二のお別れ会は行われたのでしょうか?彼はサポートギタリストとして、全国を廻って活動していたため、各地にファンがいました。逝去の知らせを受けてお別れをしに行きたいと考えた人も少なくなかったではずです。
弥吉淳二は前述のように2018年1月26日に逝去しています。お別れの会はその翌月の2018年2月19日に青山葬儀場に於いて執り行われました。月曜日の夕方に行われたため、会社勤めの人には難しい日程だったはずです。それでも弥吉を愛する多くのファンが献花に訪れていました。
急な別れになってしまった弥吉淳二とファンの方々ですが、気持ちの区切りをつけるため、
お別れの機会があったことは、かけがえのないひとときであったでしょう。
名前 : 弥吉淳二
ニックネーム : やよっしー
生年月日 : 1968年5月17日
没年月日 : 2018年1月26日
出身地 : 福岡県
担当楽器 : ギター
血液型 : B型
さて闘病の末、亡くなり、お別れの会も執り行われた弥吉淳二でしたが、生前結婚していたこともありました。元妻は一体誰でしょうか?結婚されていたということは、子供はいるのでしょうか?
弥吉淳二は結婚を二度していました。一度目の結婚の時の妻は一般の方とのことです。どのような奥さんだったかの情報はありませんでした。
弥吉淳二の二人目の元妻は椎名林檎です。弥吉淳二は椎名林檎のバンド「虐待グリコゲン」2代目ギタリストとして椎名林檎と出会います。当時弥吉は1回目の結婚をしていました。
椎名林檎はかつてギタリスト好きを公言していたこともあったため、弥吉淳二と恋に落ちるのにも時間はかからなかったかも知れません。既婚だった弥吉淳二と椎名林檎は不倫の恋に落ち、二人は2000年11月に結婚しています。
当時は不倫の恋にそれほど風当たりは強くなかったようです。ひっそりと、前の妻と別れ、椎名林檎と結婚し新しい歩みを始めます。
さて、音楽で繋がった弥吉淳二と椎名林檎でしたが、ふたりの間に子供はいたのでしょうか?子供がいた場合、何人でしょうか。
弥吉淳二と椎名林檎は男の子を授かりました。そのため、椎名林檎は2001年に出産しています。息子は「空遥」(そなた)くんという名前であるとの情報があります。ですが、息子の名前で音楽活動をしているなどの情報は一切見つかりませんでした。空遥くんは一般人として静かに生活しているようです。
両親の音楽好きと溢れる才能を受け継いでいるため、いつか音楽の道に進むこともあるかも知れません。
一男を設け、幸せだったと思われる弥吉淳二と椎名林檎ですが、2002年1月に離婚しています。音楽の世界に身を置き、ツアーで家を空けることの多い弥吉と幼い子供を抱えた妻の間にすれ違いが起きたとしても不思議はないでしょう。
いずれにしても、当人しかわからない原因があり、離婚をしたという事実が残りました。弥吉淳二と椎名林檎はわずかな結婚期間に一人だけ子供を設け、別離の道を選んだのです。ただし、弥吉淳二に子供がいたということは、彼の遺伝子を受け継ぐ存在がいるということです。
弥吉淳二が亡くなった今となっては、彼の忘れ形見がいるというだけで、ファンの慰めとなるのではないでしょうか。何かと注目される空遥(そなた)くんが幸せに暮らしていることを願うばかりです。
椎名林檎とのかつての関係を見てきました。そのほかの弥吉淳二の生前の活動について振り返っていきましょう。多くのミュージシャンを支えるギタリストして、弥吉淳二は印象的なギターでたくさんの楽曲に華を添えてきました。彼の音楽は今後も色褪せることはないでしょう。
弥吉淳二は松本邦彦とともにAXXL(アクセル)を結成し、1994年に秋元康作詞の「抱きしめても泣き止まない」でデビューします。後にstreo criminals(ステレオクリミナルズ)とバンド名を変更し、計3枚のアルバムを発表しています。
1998年にstreo criminalsは解散し、弥吉淳二はギタリストとして数々のミュージシャンをサポートする活動を始めます。
弥吉淳二はaikoのバックバンドでギターを弾いてきました。ツアーも一緒に廻るなど精力的な活動をしていて、aikoのコンサートでは長く欠かせないメンバーとして名を連ねてきました。
aikoからも「やよっしー」相性で呼ばれ、aikoのファンからも長く愛されたギタリストであったに違いありません。
aikoのライブでの臨場感が伝わってきます。ぜひ動画を見て、弥吉淳二の演奏を聴いて、感じてみてはいかがでしょうか。
また、弥吉淳二は吉川晃司のバックバンドでギターを弾いていました。吉川晃司からも信頼され、ギターを掻き鳴らしていた弥吉淳二は観客を魅了してきました。
吉川晃司にとっても弥吉淳二のギターが聴けなくなったことは手痛い損失だったことでしょう。吉川晃司のバックバンドのギタリストは他に元ミッシェルガン・エレファントのアベフトシがいます。アベフトシも2009年に42歳という若さで急死しています。
弥吉淳二は元EXILEの清木場俊介の編曲に携わり、2010年発売の「Rock&Soul」というアルバムをプロデュースしていたこともありました。そのほか、清木場俊介が悩んでいる時、弥吉淳二は親身になって力を惜しまず貸したことがあったようです。
また、清木場俊介はまた弥吉淳二とともに音楽制作をすることを心待ちにしていました。急な別れとなってしまい、叶わぬ夢となってしまったことが残念でならないでしょう。
弥吉淳二は川村カオリと共同プロデュースでバンド「SORROW」を生み出しました。弥吉淳二が亡くなる約8年前の2009年7月、川村カオリは乳がんのためこの世を去っています。
川村カオリといえば川村かおり時代に「zoo」「翼をください」などのヒット曲で知られています。
川村カオリは弥吉淳二とは逆に、闘病していることを公表し、本を発売しています。川村カオリにとっては、闘病を公表することが力となっていたのかも知れません。また、自身が歌い手で、フロントに立つ存在であったため病気を公表しているという見方もあります。
弥吉淳二は亡くなりましたが、彼を愛したミュージシャンや、彼のファンたちの心にはいつまでも生き続けているに違いありません。彼の演奏した様々なギターをもう一度聴き、いつまでも心に焼き付けていたいと思わされます。
弥吉淳二が亡くなり、寂しいと思う人も多いはずですが、彼の残した多くの演奏はこれからも変わらず愛される続けるでしょう。闘病を最後まで明かさず、美学を貫いた弥吉淳二に尊敬を捧げるとともに改めて安らかに眠られるよう、お祈り申し上げます。
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aikoや吉川晃司のサポートギターとして活躍した弥吉淳二でしたが、その他気になる生前の活動についても併せて紹介いたします。