木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
初代ドラえもんの声優として一世を風靡し、役25年もの間活躍していた大人気声優の大山のぶ代さん。2005年にドラえもんの座を水田わさびさんに譲ってからはどのような生活を送っていたのでしょうか。
大山のぶ代さんのプロフィールをご紹介します。
1933年10月16日生まれの東京都渋谷区出身。本名は山下羨代(やましたのぶよ)。身長は162cmの血液型はO型。ペコの愛称で親しまれていました。アクターズ・セブン所属。夫は俳優の砂川啓介。
特徴的な声によって子供のころはいじめにあうこともあったそうですが、母からの「黙ってばかりでは弱くなるからどんどん声を出して聞き取りやすい声の出し方や話し方を覚えるように」という助言から積極的に声をだす放送研に入部していました。
高校2年の時に最愛の母と死別し、独身で子供もいない中で生きていくため手に職をつけるため、演劇の道に進むことを決意しました。
1963年に共演した舞台「孫悟空」がきっかけで交際をはじめ、翌1964年に俳優の砂川啓介さんと結婚しました。砂川啓介さんとはNHK「おかあさんといっしょ」で共演していましたが、大山のぶ代さんは声のみの出演であったため砂川啓介さんをそば屋だと勘違いしたそうです。
また、二度の死産を経験しており、子供はおりません。「子供に自分のガラガラ声が遺伝していじめられたらかわいそうだ」と述べたり、また同じことを繰り返すのではないか、という葛藤にとらわれていたそうです。
声優として活躍していた大山のぶ代さん、実は最初は声優ではなく女優志望であり、女優として活躍していました。
その活躍ぶりをご紹介します。
高校卒業後に劇団俳優座の養成所に入所し、役者を目指していた大山のぶ代さん。当時は卒業することがとても難しく、辞めさせられることも多かったそうです。しかし、大山のぶ代さんは持ち前の粘り強さで見事卒業を果たしました。
NHKの人形劇「ブーフーウー」の際には黒柳徹子さんとも共演しています。また、女優の冨士眞奈美さんとは養成所時代の同期であり、4年半も一緒に暮らすなど友情が長く続いたそうです。
女優として活躍していた大山のぶ代さんは1957年「名犬ラッシー」の吹き替えで声優デビューしました。その後、1965年には「ハッスルパンチ」で初主演を飾ると、「ハリスの旋風」のようにハスキー声でやんちゃな喋り方な役を次々とこなしました。
そして、1969年運命の作品「ドラえもん」に出会います。ドラえもんでは本人により丁寧な演技が心掛けられ、以前のような荒々しい演技を、徐々に低音でゆったりと喋る演技に変化させていきました。
声優だけではなく、女優、歌手、脚本家、料理研究家、エッセイスト、タレントとして活躍した大山のぶ代さんの多才ぶりをご紹介します。
料理がとても得意な大山のぶ代さんは料理研究家として、テレビ番組で料理コーナーを担当するほか、多数の料理本を出版しました。中でも「大山のぶ代のおもしろ酒肴」は136万部のミリオンセラーを記録しました。
大山のぶ代さんには「太陽にほえろ!」の脚本を5話ほど共作するなど脚本家としての一面もあります。
また、ドラえもんのエンディング曲である「ドラえもん音頭」を歌うなどアニメ歌手としての一面もあり、レコードの売り上げが100万枚を突破しています。
声優としての活動をしばらく休止していた頃に、ドラえもんの声優としてオファーがかかったそうです。それまで読んだことのなかったドラえもんのコミックスを15冊購入し、一晩で読破しました。「これは大人が読んでも面白いSFだ」と感じ、引き受けることを決意しました。
また、大山のぶ代さんはドラえもんの声優を担当していた26年もの間、それ以外の声優の仕事を全て断っていたそうです。それだけ大山のぶ代さんにとってドラえもんの声優は天職であったと言えるでしょう。
直腸癌が発見された時も、長期入院が必要となり、取材と出演の仕事をセーブしましたが、ドラえもんのアフレコの仕事だけは休むことなく体調の様子を見ながら、アフレコに必要な機材を病院内に持ち込んだ上で、スタッフに見守られながら病室で収録に挑みました。
2008年「心筋梗塞」と「脳梗塞」を発症した大山のぶ代さん。完治しましたが、2008にアルツハイマーの症状が出ると、2012年には認知症と診断されてしまいました。
大山のぶ代さんの介護に当たった夫の砂川啓介さんは妻の病気を公表したくないという思いもありましたが、友人でタレントの毒蝮三太夫さんから「いちずに介護していると、お前が先に逝っちゃうぞ」という助言から、公表するに至りました。
砂川啓介さんは、2012年、秋のある日、ペコがアルツハイマー型の認知症だと突如、診断された。でも、俺はなかなか現実を受け入れることができなかった。どんどん変わっていく君の姿に、戸惑いや苛立ちを隠すことすらできなかった。と語っています
砂川啓介さんは、2012年、秋のある日、ペコがアルツハイマー型の認知症だと突如、診断された。でも、俺はなかなか現実を受け入れることができなかった。どんどん変わっていく君の姿に、戸惑いや苛立ちを隠すことすらできなかった。と語っています
そのうち大山のぶ代さんは5分前といった、ほんの少し前のことですら分からなくなってきており、何度言い聞かせても、絶対に認めようとなかったため砂川啓介さんは怒鳴ってしまうこともあったと言います。
そして、砂川啓介さんは自身の壮絶な介護生活を綴った、「娘になった妻、のぶ代へ 大山のぶ代「認知症」介護日記」を出版しました。
献身的な介護を数年間に渡って続けられてきた砂川啓介さんでしたが、尿管がんを患ってしまいました。そして、抗がん剤治療のため入退院の繰り返しを余儀なくされる生活となってしまったことから、大山のぶ代さんを老人ホームに入れることになりました。
そして、砂川啓介さんは脳梗塞で意識を失い救急搬送され入院。翌朝、容体が急変し他界してしまいました。大山のぶ代さんはマネージャーとともに何度も見舞いに出向いてはいましたが、臨終には立ち会えませんでした。
大山のぶ代さんに死という状況を伝えるためにマネージャーは「砂川さんが病気で、何度も病院へ会いに行ったよね? いま眠っているんだけど、これからも眠り続けてもう起きないのね。だから会いに行こうね」と伝えたそうです。
お線香をあげてから棺の前へ連れて行き、砂川さんの顔を見ると大山さんは「お父さん」と、涙ぐみながら言いました。でも次の瞬間には、出口へスタスタ歩き始めていたそうです。数分前のことすら忘れてしまうので、きっと死という現実も忘れてしまったのでしょう。
認知症の方は鬱っぽい人が多いようですが、大山のぶ代さんはとても元気よくおしゃべりしているそうです。規則正しい生活のおかげで食欲旺盛。先日行われた定期健診でも、不調はまったく見つからなかったそうです。
老人ホームではちぎり絵教室や合唱の時間があるそうで、のぶ代さんは仲のよい友人たちと一緒に楽しく取り組んでいるそうです。彼女は“姉御肌”で、みんなを仕切ってあげるのが上手なリーダー的存在で、いまでは“ホームのジャイアン”になっているそうです。
また、生前、砂川さんは大山さんの誕生日に、花束とパジャマをプレゼントしました。大山さんはそのパジャマを糸がほつれても毎日毎日着続けているそうです。
大山のぶ代さんは認知症にかかり、夫に先立たれるという壮絶な人生を送りながらも現在は老人ホームで元気に暮らしているようです。みんなから愛されるドラえもんのようにたくさんの人の力を借りながら懸命に生きる大山のぶ代さん。長生きしてほしいです。
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