記事ID42151のサムネイル画像

【あの人の昔】美輪明宏はどんな少年~青年だったのか??!

シャンソン歌手であり、俳優、演出家などのマルチな活躍で知られる美輪明宏さん。なんと今年80歳になるそうですが、そんな美輪明宏さんはその昔、どのような少年時代を送っていたのでしょう?美輪明宏さんの昔(おもに少年時代~デビュー当時)に迫ります!!

謎が多い?シャンソン歌手、美輪明宏のプロフィール

出生名 丸山 臣吾まるやま しんご(幼名)
別名 丸山 明宏まるやま あきひろ(本名及び旧芸名)
出生 1935年5月15日(80歳)
出身地 長崎県長崎市
学歴 国立音楽大学附属高校中退
ジャンル シャンソン
職業 シンガーソングライター、俳優、演出家、タレント
活動期間 1952年 - 現在
事務所 オフィスミワ

・1945年8月9日 長崎にて原爆を体験。終戦後、自身が鑑賞した映画に出演していた加賀美一郎のボーイソプラノに衝撃を受け、程無くして、声楽とピアノのレッスンを受け始める。
・1951年 国立音楽高等学校(現・国立音楽大学付属高等学校)進学の為、15歳で上京する。
・1952年 銀座のシャンソン喫茶『銀巴里』の美少年募集の張り紙をきっかけに、銀巴里との専属契約を交わし、歌手デビュー。
・1967年 寺山修司の演劇実験室・劇団天井桟敷旗揚げ公演で、寺山が美輪の為に、書き綴った『青森県のせむし男』や『毛皮のマリー』に主演。

画像で見る昔の美輪明宏~美しい少年時代~

昔の美輪明宏

昔の若き頃の美輪明宏さん。
少年時代から本当にお美しいです…!!
現在の人たちから見ても、昔の美輪明宏さんは驚くほどの美貌のようです。

妖艶だ…

出典:http://blog.livedoor.jp

かなりの美男子だなwwwwwwwwwwwwww

出典:http://blog.livedoor.jp

なんというか安っぽい今のイケメンじゃなくてさ
彫刻みたいに美しいな・・・

出典:http://blog.livedoor.jp

この遺伝子は受け継ぐべき
もったいない

出典:http://blog.livedoor.jp

顔のパーツすべてが色っぽいからすごいわ

出典:http://blog.livedoor.jp

こんな美しい日本人がいるのか

出典:http://blog.livedoor.jp

昔の美輪明宏さんは美しいだけでなく、何か人を惹く妖艶な魅力がありますね!!

美輪明宏の昔~長崎での被ばく体験~

長崎の原爆体験

この一発の兵器により当時の長崎市の人口24万人のうち約14万9千人が死没、建物は約36%が全焼または全半壊した

1945年8月9日、雲一つない快晴の日、10歳の美輪は窓際で夏休みの宿題に御伽草子の万寿姫の絵を描いていた。できあがりを確かめるため、2、3歩後ろに下がった時、原爆がさく裂した。

出典:https://ja.wikipedia.org

こちらの動画では、美輪明宏さんが昔体験した長崎の原爆について語られています。本当に壮絶な体験です。

まさに・・地獄絵図だった。
その後、一時疎開した後に終戦を知って実家の喫茶店に戻った。
その店先においておいた畳のところに、矢絣とボロボロになってちぎれたもんぺをズルズルと引きずりながらやってきた女性が、店先のその畳を見るや・・・
懐かしそうな、安堵したかのような柔和な表情になり、そこに横たわってしまった。

出典:http://ameblo.jp

その昔、少年時代の美輪明宏さんは、家の玄関にやってきた女性に飲み水を求められたのだそうです。

美輪さんは、ひしゃくをもって彼女の口元に運んで飲ませてあげると・・・
美輪さんは泣きながら「今でも忘れられない・・」といいながら語り続け、
「子供の私にね、こうやってね(手に胸を当てる姿勢)拝むんですよ・・・(涙、涙)」
「本当にありがとうございました・・」って・・・
そして、その後横になったまま寝ているのかと思ったら死んでいた。
「お水をあげたら死んでしまうんです、みんな・・」

出典:http://ameblo.jp

そしてその後、何人も何人もおじさんから、男の人からたくさんやってきて、、
死ぬのだと分かった上でひとりひとり、
あまりにも残酷で哀しい「末期の水」を飲ませてあげたのだと・・・語っています。

出典:http://ameblo.jp

現代に生きる私たちにとっては、戦争は昔の出来事であると思いがちです。だからこそ、こうして美輪明宏さんのように今を生きて昔の戦争の壮絶さを生々しく語ってくれる方の言葉には熱心に耳を傾けたいものですね。

「昔の話ではない」戦争に対して、美輪明宏さんは…

10歳のときに長崎で被爆した美輪明宏さん。軍国主義が支配したころの日本は「愚かで野蛮だった」と振り返った。しかし選挙を前にしたいま、「新しい息吹を感じる。政権交代もその流れ。古い汚いものは自滅していく」と力を込める。

出典:http://muranoserena.blog91.fc2.com

「わたしは原爆にあっている人間ですし、
戦前、戦後の両方の時代を知っています。
戦時中の一番の問題は、軍人たちに国を預けてしまったことです」

出典:http://ameblo.jp

「日本は石油も鉄もニッケルもない。もともと戦争できない国なのに、根性、根性、根性――。根性なんて何の役にも立ちません。軍部は知力がなく、非科学的。日本人は野蛮人だった。その愚かさの結果が原爆ですよ」

出典:http://muranoserena.blog91.fc2.com

みんな、戦争の正体を知らなすぎます。

出典:http://blog.goo.ne.jp

美輪明宏さんは、昔の戦争に対して力強くある種乱暴ともとれる言葉を使うことも厭いません。
しかし、戦争とは現実にそういうものなのでしょう。そして美輪さんは戦争を昔話ではなく、今現在も十分に起こりうる危険を孕んだものとして見つめています。

美輪明宏の昔~歌手デビュー~

昔の美輪明宏、デビューまでの軌跡

戦後、美輪明宏さんは自身が鑑賞した映画に出演していた加賀美一郎のボーイソプラノに衝撃を受け、程無くして、声楽とピアノのレッスンを受け始めます。

エンリコ・カルーソーやベニャミーノ・ジーリの様なオペラ歌手、コンサート歌手を夢見て、1951年の春に国立音楽高等学校(現・国立音楽大学付属高等学校)進学の為、15歳で上京する。

出典:https://ja.wikipedia.org

家業の倒産をきっかけに高等学校を中退、翌1952年、当時17歳の美輪は、新宿駅で寝泊りしていたが、銀座のシャンソン喫茶『銀巴里』の美少年募集の張り紙をきっかけに、銀巴里との専属契約を交わし、歌手デビュー。

出典:https://ja.wikipedia.org

次第に人気を博し、三島由紀夫、吉行淳之介、野坂昭如、大江健三郎、中原淳一、遠藤周作、寺山修司、なかにし礼等、文化人の支持を得る。

出典:https://ja.wikipedia.org

昔は珍しかったユニセックスなファッションを身にまとい、シャンソン歌手として東京でデビューを果たした美輪明宏さん。その後は美輪明宏さんの魅力に魅せられた著名な文化人たちの後ろ盾もあり、歌手以外にも俳優として舞台等でも活躍していきます。

その昔、美輪明宏に魅せられた著名人たち

今も魅力的な美輪明宏さんですが、昔はその美貌や妖艶な雰囲気に一目ぼれしてしまう著名人もたくさんいたようです!

三島由紀夫

戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家。

相手が三島でも愛想を振りまかない美輪様に対し「かわいくない奴だな」と三島が言うと、美輪様は「かわいくなくていいんです。あたしは綺麗ですから」と言い放ち、それがきっかけで気に入られ仲良くなった話。「君は素晴らしいが95%の長所を消す5%の欠点がある。それはオレに惚れないことだ」と、三島に真顔で言われた

出典:http://www.sankeibiz.jp

『あの子を呼んでこい』って言われたの。でも、ホステスでも女給でもないからって言って、行かなかったの。それでも何回も呼びに来られて、『お願いだから…チップをはずむから来てくれよ』って言われて行ったの」

出典:http://numbers2007.blog123.fc2.com

「黒蜥蜴」で共演した際、キスシーンのリハーサルで美輪は寸止めしたが、「何故しないの?」と三島は不満そうに答えた。妙に思いながらも次のリハーサルで本当にキスをしたものの、「何故もっと長くしてくれないの?」と再び不満を漏らしたという。

出典:http://matome.naver.jp

あの三島由紀夫から物凄い熱烈なアピールを受けていた昔の美輪明宏さん。三島さんが自決するまでの数年間にわたる親密な付き合いの中で、三島の愛人であると囁かれたこともあるそうですが、美輪明宏さんはこれを否定しているそうです。

中原淳一

画家、ファッションデザイナー、編集者、イラストレーター、人形作家。

終戦後、日本中が貧乏だった時代に雑誌「それいゆ」や「ひまわり」を創刊。
中原淳一の提案する美しく、賢く、丁寧な少女像に多くの女の子たちが共感したと言います。
美輪明宏さまも中原淳一の雑誌を愛読していたのです。
美輪明宏さまが美意識に対してこだわるのは、中原淳一の影響が多分にあるのです。

出典:http://miwaakihiro.blog.so-net.ne.jp

昭和30年代の「ジュニアそれいゆ」には、十代の美少年、 「丸山臣吾くん」(美輪さんです!)が何回か登場しています。

出典:http://ameblo.jp

美輪明宏さんは昔、中原淳一さんが表紙画をつとめていた雑誌「それいゆ」の愛読者だったそうです!そして、「それいゆ」には美輪明宏さんによく似た少年もしくは少女の絵が登場していたらしいのです。美輪明宏さんも、中原さんが発信する美意識には多大な影響を受けているのですね。

寺山修司

俳人、詩人、演出家、映画監督、小説家、作詞家、脚本家、随筆家、評論家、俳優、写真家などとしても活動、膨大な量の文芸作品を発表した。

1967年に、寺山修司の演劇実験室・劇団天井桟敷旗揚げ公演で、寺山が美輪の為に、書き綴った『青森県のせむし男』や『毛皮のマリー』に主演。

出典:https://ja.wikipedia.org

私と寺山さんとは昭和十(一九三五)年生まれの同い年、二人とも子供の頃から映画や芝居が好きで、音楽の趣味も同じ。一つのことを話すのに、最小限の言葉だけでかんたんにわかりあえたのです。 「で、なぜ私を?」と聞くと、彼は昔から私のファンだったこと、私のためにこの芝居を捧げたいことなどを力説しました。

出典:http://www.kadokawa.co.jp

昔の丸山明宏時代の映像をテレビで見たことがあったが、男とも女とも人間とも動物とつかないような美しい存在だった。多分、あっちの世界でもバリバリの頃で正に異形の者という言葉がふさわしい。その頃に天井桟敷の旗揚げ公演「青森県のせむし男」の主役に抜擢され、そして当たり狂言の「毛皮のマリー」を寺山は美輪のために書き下ろす。

出典:http://ameblo.jp

上の画像は舞台に立っていた頃の昔の美輪明宏さん。
美輪明宏さん主演の「毛皮のマリー」は、三島由紀夫原作の「黒蜥蜴」と並び、大好評を得たそうです。昔の美輪さんの魅力に魅せられた文化人たちは、こぞって美輪さんを主演とした舞台を演出したいと願ったのですね。

昔から変わらない美しさ、美輪明宏のこれから

いかがでしたでしょうか?
昔から現在にかけての美輪明宏さんの活躍について、画像やエピソードを交えてご紹介してきました。美輪さんの昔から続く美しさと気高さは、他のどんな歌手や俳優にも負けないくらい今現在でも輝きを放っています。
これからも芸能界におけてお元気な姿での活躍を期待したいですね!!

関連する記事

この記事に関する記事

この記事に関するキーワード

キーワードから記事を探す

TOPへ