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高倉健の元妻江利チエミってどんな人?不器用な男が愛した女性まとめ

2014年に83歳で亡くなった高倉健さん。若いころ江利チエミさんという女優と結婚していましたが、様々な理由で離婚し、その後再婚をせず独身を通しました。不器用な高倉健さんの江利チエミさんの想いがあったのでしょうか。まとめてみました!

結婚したのは江利チエミさんだけ!高倉健のプロフィール

江利チエミさんと離婚後、だれとも再婚しなかった高倉健さん。どうして?

高倉 健
1931年2月16日生まれ
2014年11月10日没(享年83)
福岡県中間市出身
身長 180 cm
血液型 B型
配偶者 江利チエミ(1959年 - 1971年)

代表作は映画『日本侠客伝シリーズ』、『網走番外地シリーズ』、『昭和残侠伝シリーズ』、『新幹線大爆破』、『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』、『野性の証明』、『南極物語』、『ブラック・レイン』、『鉄道員(ぽっぽや)』、『あなたへ』など。2006年に文化功労者、2013年には文化勲章を受章した。

出典:https://ja.wikipedia.org

1931年に福岡県中間市の裕福な一家に生まれる。父は旧海軍の軍人で、炭鉱夫の取りまとめ役などをしていた[3]。母は教員だった。幼少期の高倉は、肺を病み、虚弱だった。

出典:https://ja.wikipedia.org

大学を卒業したが思ったような就職先がなく一旦帰郷した。家業を手伝っていたが、10か月後に上京[注釈 2]。[要出典]1955年に大学時代の知人のつてで、新芸プロのマネージャーになるため喫茶店で面接を受けたが、居合わせた東映東京撮影所の所長で映画プロデューサー・マキノ光雄にスカウトされ、東映ニューフェイス第2期生として東映へ入社。同期に今井健二・丘さとみ・岡田敏子・五味龍太郎らがいた。

出典:https://ja.wikipedia.org

若いころは任侠映画に多数出演していた、高倉健さん。

高倉健さんは昭和の骨太な男というイメージですが、当時からしてみるとボンボン育ちでした。俳優になったきっかけもスカウトだそうです。なんだか意外です。

国民的俳優高倉健の元妻、江利チエミのプロフィール

高倉健さんが唯一結婚した女性、歌手で女優の江利チエミさん

江利チエミ(本名:久保千惠美)
1937年1月11日生まれ
1982年2月13日没(満45歳)
東京市下谷区(現・東京都台東区下谷)出身
血液型 A型
活動期間  1952年 - 1982年
配偶者 高倉健(1959年 - 1971年)

父・久保益雄は福岡県田川郡添田町の出身。独学でクラリネット奏者になったが、軍事徴用での工場の作業で指の先を痛め、以降再び独学でピアノ弾きに転向したりと、ともかく「音楽センス」の素晴らしい人だったと言われており、智惠美が生まれた頃は船のバンドマスター、吉本興業に所属していた(デビュー当時のチエミも吉本に所属していた。デビュー当時の吉本は今のような規模になく花菱アチャコ・チエミくらいしか稼げるスターはいなかった)。

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母は、SKDが東京に出来る前の宝塚歌劇のようなレビュー一座・東京少女歌劇出身の女優、谷崎歳子である。のちに浅草の軽演劇の舞台に立ち、吉本興業に所属する。名喜劇女優として、当時同じく吉本にいた笠置シヅ子と共演したり、榎本健一とも映画で共演したりしているが、智惠美を身ごもるころより身体を壊し、一線から退いた。

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智惠美は、師匠である柳家三亀松とのいわば喧嘩別れで失職した父、病床で寝たり起きたりの母、また3人の兄、これだけのものを背負っていた。

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長兄も陸軍士官学校出身で英語も堪能なエリートだったが、戦後の価値観の変化などで順調とは行かず、結局、父がマネージャー、長兄が付き人という3人4脚での芸能活動が、1949年(昭和24年)、12歳のころからスタートすることになった。

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進駐軍のアイドルとなり、愛称は「エリー」となる。芸名の江利チエミはこの「エリー」から母が名づけた(以下、「チエミ」と記述)。特にチエミをかわいがってくれた進駐軍兵士ケネス・ボイドからその後の「運命の曲」となる「テネシーワルツ」のレコードをプレゼントされる。

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戦後、家族のために歌手となり、家族を支えた江利チエミさん。高倉健さんと出会い結婚した時も、きっと幸せになりたいと願っていたことでしょう。

高倉健と江利チエミ、結婚生活は12年間

高倉健さんと江利チエミさんの結婚式風景

1959年2月16日、1956年の映画『恐怖の空中殺人』での共演が縁で江利チエミと結婚。

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「江利の芸能界の母と言うべき存在だったのが清川虹子。江利が高倉にたいそう惚れ込んでしまい、清川に相談した。清川は健さんに『チエミちゃんのこと、何とかしてあげなさいよ』と言い、交際が始まりました。結局、押し切られる形で結婚へと至りました」

出典:http://www.j-cast.com

仲睦まじい高倉健さんと江利チエミさん

どんなに仲が良い夫婦でも、結婚生活には波があるものです。高倉健さんと江利チエミさんにも大きな波が来てしまいます。

3年後の1962年、江利は妊娠し子供を授かるが重度の妊娠中毒症を発症し、中絶を余儀なくされ子宝には恵まれなかった[73]。

出典:https://ja.wikipedia.org

江利チエミさんは高倉健さんとの赤ちゃんを流産してしまうという不幸に襲われます。
また、家族から仲を引き裂かれたという噂も。

名古屋で家庭をもって暮らしていたY子は、さまざまな事情から母(チエミの実母・谷崎歳子)と幼くして生き別れになるが、ある日「スター歌手、江利チエミ」が自分の妹(異父妹)である事実を知った。

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決して憎しみ合って別れたわけではなかった。後日、チエミさんと親交が深かった清川虹子さん(享年89)は、こんなことを明かしている。

「チーちゃんは健ちゃんと約束してたんです。“世の中が私たちのことを忘れたら、ダーリンまた一緒になってくれる?”と。健ちゃんも“そうしよう”と答えたんです」

 だが、その“約束”が果たされることはなかった…。1982年2月、チエミさんは自宅マンションで吐瀉物を喉に詰まらせて窒息するという不慮の死を遂げる。以降、健さんは女性の噂を立てられることは、ほとんどなかった。

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Y子は「離婚して経済的に困窮している」、と嘘を騙り、家政婦・付き人としてチエミに近づき家に入り込む。身の回りの世話を手伝いながら徐々に信頼を得ていき、最終的にはチエミの実印を預かり、経理を任されるまでになった。嫉妬心に駆られていたY子によって、ここから 嫉妬の対象をおとしめようとする犯罪的な行動が始まった[注釈 2]。

出典:https://ja.wikipedia.org

Y子というのは異父姉。結局この異父姉が江利チエミさんのお金を横領し、江利チエミさんは多額の借金を背負ってしまいます・・・

吉田よし子は
 江利チエミさんの貯金を横領するだけでは
 飽きたらず、江利チエミさんの不動産を抵当に入れ
 高利貸しから多額の借金をする。
 
 借金は4億円にまで膨らむことに。
 
 後に江利チエミさんは吉田よし子を
 詐欺横領で刑事告発。
 
 吉田よし子は2年ほど刑務所で
 過ごした後に出所している。

出典:http://hibi-hibino.blog.so-net.ne.jp

壮絶な姉妹の争いの果て、江利チエミさんは自分から高倉健さんに離婚を切り出したそうです。高倉健さんに迷惑がかかるといけない、という考えだったようです。

しかし、「鉄道員」で高倉健さんと共演した板東英二さんはこんなことも。

板東が高倉さんから聞いたのは、高倉さんが友人と猟に出かけようとした際のエピソード。高倉さんは朝3時過ぎに家を出ようとしたところ、起き出してきた江利さんに「私、この後、どうしたらいいの…」と言われたらしく、この江利さんの言葉で、高倉さんは「俺には結婚生活は無理だ」と思ったという。

 高倉さんと江利さんは結婚15年目の1971年に離婚。江利さんの親族によるトラブルが原因と報じられたが、板東曰く、「世間では、借金だとかいろいろなことを言われているが、夫という役を演じるのは無理だと思ったんじゃないかな」と友人として思いやった。

出典:http://www.rbbtoday.com

普通の夫婦でもよくあるやりとりであると思いますが・・・。
確かに不器用な高倉健さんなので、江利チエミさんの寂しさに気づかなかったという側面もあるかもしれません。

離婚後も変わらず愛しているのに、結ばれることがなかった高倉健と江利チエミ

不器用すぎて江利チエミさんとの復縁が叶わなかった高倉健さん。

異父姉が数億円の借金をつくり、結婚していた江利チエミがこれ以上健さんに迷惑をかけるわけにはいかないと離婚したばかりの時、チエミから電話がかかってきたところに居合わせたという。
<「健さん、もう一度、一緒になれないかしら」と言ってきたことがあった。そしたら健さんは「一度別れるって新聞で発表したんだから、いまさら戻るわけにはいかんだろう」と。

出典:http://www.j-cast.com

健さんは、自分にも他人にも厳しい人。チエミちゃんに諭すようにこう言ったんです。「おまえがいくら謝っても......。もっと......もっと早くに、なんでそう考えなかったんだ。こうなった以上は、もう一緒になれない。戻れない」>

出典:http://www.j-cast.com

大スターの高倉健さと江利チエミさん。自分たちの都合で復縁できないという悲しみがあったんですね。
もう少し高倉健さんが器用だったら、なんて考えても仕方ないですが。

江利チエミ急死!不器用な高倉健は・・・

45歳の若さで一人で亡くなってしまった江利チエミさん。

1982年(昭和57年)2月13日午後、港区高輪の自宅マンション寝室のベッド上で、うつ伏せの状態で吐いて倒れているのをマネージャーに発見されたが、既に呼吸・心音とも反応が無く死亡が確認された。

出典:https://ja.wikipedia.org

数日前から風邪を引き体調が悪かったところに、ウィスキーの牛乳割りを呷り、加えて暖房をつけたまま風邪薬を飲んで寝入った事が一因とも言われている。

出典:https://ja.wikipedia.org

高倉健さんとの離婚から11年後のことでした。
過酷な運命を生きた江利チエミさんは、アルコール依存症だったといいます。

だが、健さんはずっとチエミのことを愛していたと思うと語っている。撮影所の楽屋でチエミの「テネシー・ワルツ」を黙って聞いていることが何度もあったという。チエミが亡くなったときも、チエミの自宅の裏に回って1時間以上手を合わせ、その後、2月の厳寒の中、比叡山の飯室不動堂の滝に打たれに行ったという。

出典:http://www.j-cast.com

葬儀には姿を現さなかった高倉だが、江利の命日には毎年、墓参りはは欠かさず、花を手向け、本名を記した線香を贈っていた。[75]。

出典:https://ja.wikipedia.org

彼女が亡くなってから4年後の1986年、健さんは離婚前年に全焼した家が建っていた土地に約2億円の豪邸を建て直した。

「もちろんチエミさんとの思い出が詰まった場所ということもありますが、チエミさんが眠るお墓がそこから約200mほどの場所にあったから、そこに家を新築したんです。健さんは人目を忍んでは、チエミさんの命日に墓前で手を合わせていたそうです」(前出・芸能関係者)

出典:http://www.news-postseven.com

江利チエミさんの供養なのでしょうか。
不器用な高倉健さんの愛情が伝わってくるエピソードです。

高倉健と江利チエミは不器用すぎる夫婦だった

高倉健さんと江利チエミさんに何があったのかまとめてみましたが、いかがでしょうたでしょうか?
「自分、不器用ですから」のフレーズが有名な高倉健さんですが、元妻の江利チエミさんもなんだかすごく不器用な女性だったというふうに感じました。江利チエミさんの最期は悲しいですが、今、天国でお二人がまた出会い、穏やかに過ごしていることを祈りたいです。

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