中村俊輔!自身も子供が沢山!子供も憧れる中村俊輔選手の凄さとは?
2015/10/08
naonao
中村俊輔(なかむら しゅんすけ)
・1978年6月24日生まれ
・神奈川県横浜市戸塚区出身
・ポジションはミッドフィールダー
・2015年現在、J1・横浜F・マリノス所属
・元日本代表。
中村俊輔選手は、セリエAのレッジーナで3年間プレーした後、2005年7月に、スコティッシュ・プレミアリーグ(SPL)(UEFAヨーロッパリーグランキング10位)の2強の一角であるセルティックへ移籍することになります。中村俊輔選手が同クラブを離れて10年近い月日が経ちますが、今でも愛され続けている中村俊輔選手のセルティック時代の選手生活についてみてみましょう。
セルティック・フットボール・クラブ(Celtic Football Club, LSE: CCP)
・スコットランド南西部の都市グラスゴーを本拠地とするサッカークラブチーム。
・1887年に創設
・スコティッシュ・プレミアリーグ44回制覇
・スコティッシュカップ36回制覇
・スコティッシュリーグカップ14回制覇
・1967年に史上初の五冠を達成した。
・セルティックの初めてのシーズンでは、ユニフォームは白色のトップスに黒色のショートパンツと緑色の横縞のソックスであった。このユニホームには赤色の円内に描かれたケルト十字の意匠がつけられていた。
・翌シーズンには、緑色と白色の縦縞のトップスに変更され、このデザインをその後14年間使用した。
・1903年、セルティックは現在の有名な緑色と白色の横縞のトップスを採用した。
セルティック・パーク
セルティック・パーク(Celtic Park)は、スコットランド・グラスゴーのパークヘッドにある。収容人数は60,832人。スコットランドで2番目に大きいスポーツ競技場。
愛称は「パラダイス」。レンジャースのホームスタジアムがグラスゴー中心部にあるのに対し、セルティック・パークはかなり郊外にあるイーストエンド、パークヘッド地区にある。スタジアムの周囲は湿地と簡単な住宅街で特に見るものはない。
・設計者は、スコットランドの建築家アーチボルド・リーチ(Archibald Leitch)。
・スタジアム西側のスタンドは、1965年から1978年までセルティックを率い、1966-67シーズンにUEFAチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)優勝に導いた名監督ジョック・ステインにちなみ「ジョック・ステイン・スタンド」と名付けられている。
・900万人のファン(内100万人はアメリカ合衆国およびカナダ)がいると推計(2003年現在)
・世界中の20カ国以上に160を超えるセルティック・サポーターズ・クラブが存在。
・日本には2001年7月に発足した東京CSCがあり、主にアイリッシュパブで集まり、試合を観戦しサポートしている。
・2010-11シーズン、セルティックはスコットランドのクラブの中で最多平均観客動員数を記録した。
中村俊輔選手の契約期間は、2008年夏までの 3年間。移籍金300万ユーロ(約4億円)、年俸50万ユーロ(約6750万円)と報道された。
中村が拒否し残留することもできたが、決め手となったのは以下の3点との事。
(1)リーグを変え、メンタル面のリセット。
スコットランドリーグはセリエAよりレベルは落ちるが、初心に戻ってチャレンジできる。
(2)欧州CL出場。
「まだ予選の段階だけどCL本戦出場のチャンスもある。」と中村の公式サイトで記した。
(3)日本代表への思い。
レジーナでは、常に残留争いで、日本協会から招集されてもギリギリまで拘束されることがあった。セルティックは残留争いの可能性は皆無に等しく、代表招集には理解を示している。
中村俊輔選手の背番号は、「25」
当初、セルティック側は、中村俊輔選手のために「出世番号」7番を用意しましたが、中村俊輔選手自身の希望から、横浜マリノスでもつけていた「25」に決まりました。
全日本時代、背番号「7」だった中田英寿元サッカー選手
セルティック側が、中村俊輔選手のために用意していた「出世番号」7番とは、中村俊輔選手の前にラーション選手がつけていた背番号。これはセルティック側の中村俊輔選手に対する期待の表れだと言われました。
サッカー界で背番号「7」は、右MFがつけることが多く、近年は10番に次ぐエースとされているそうです。英国ではマンUの元イングランド代表MFロブソン、同元フランス代表MFカントナらの影響で 7番がエース番号とされる傾向が強いのだとか。マンUではベッカムの移籍に伴い、C・ロナウドが引き継いで話題に。日本代表ではMF中田英の定番背番号でした。
25という数字は中村が来る以前、ルボ・モラフチクという選手が着けていた番号だった。スロバキア人のモラフチクは技術が高く、彼がボールに触るたびスタンドはわいた。新たな25番はモラフチクのようなプレーができるのだろうか――。ファンはそんな思いを持っていた。
中村俊輔選手のデビュー戦は、スコットランド・プレミアリーグのダンディー・ユナイテッド戦で、ホームスタジアム、セルティックパークで行われました。当日、4−3−1−2のトップ下のポジションに入った中村俊輔選手は、多彩なパスとトリッキーな妙技を見せ、自由自在なプレーを披露。デビュー戦を通して、新たな25番-中村俊輔選手は、すぐにファンの心を掴むことになります。
・2006年9月、2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグに初出場。
・グループリーグ第1戦、オールドトラフォードで開催されたマンチェスター・ユナイテッド戦でフリーキックによる得点をあげ、UEFAチャンピオンズカップからUEFAチャンピオンズリーグ(以下CL)に改編されてからの日本人初得点者となった。
・続く対マンチェスター・ユナイテッド戦でもFKから得点、決勝トーナメント進出を果たす。これはセルティックにとって現行のCLとなって初、日本人選手としても初めての快挙である。
・2006年10月14日、ダンディー・ユナイテッド戦で海外リーグ戦における自身初のハットトリックを決めた。
・2007年4月、セルティックのリーグ戦連覇が決まり、実質日本人で初めて欧州リーグで連覇を経験した選手となった。
・2006-07シーズンではリーグトップの12アシストを挙げ、スコットランドPFA年間最優秀選手賞、スコティッシュ・プレミアリーグベストイレブン、スコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞を受賞、年間ベストゴール賞も獲得した
・アジア人選手が欧州リーグでMVPを取るのは初の快挙だった。
UEFA杯準々決勝で最大のライバルであるレンジャーズのサポーターから人種差別的中傷を受けており、今年4月にも同じくレンジャーズサポーターが中村選手の写真と人種差別的内容が書かれたTシャツを着用し、警官から退場を命じられている。イタリアやスペインほどではないにせよ、こうした行為は英国でも行われているようだ。
Nakamura Ate My Dog Banner At The Sporting Game
セルティックは同じグラスゴーを本拠地とするレンジャーズと伝統的にライバル関係にあり、これら2つのクラブはまとめてオールドファームとして知られています。2つのクラブはスコットランドでこれまで最も支持されているクラブでもあります。
セルティックはアイルランドの人々ならびにアイルランド系のスコットランド人(どちらも大抵の場合はローマ・カトリック)と歴史的な結び付きがあり、ライバルのレンジャーズのファンはスコットランドあるいは北アイルランドのプロテスタントから来ており、イギリス統一主義を支持していると言います。
セルティック対レンジャーズの試合は、「スコットランドの至る所のコミュニティーでの暴力につながり続けている憎悪、宗教的緊張、威嚇の雰囲気」を持つと描写されるくらい毎回殺伐とした雰囲気にに。 ライバル関係は多くの暴動をあおり、ダービーの日には死者が出ることもある。病院の緊急治療室への受け入れは通常の9倍に増加すると報告されています。
You'll Never Walk Alone歌うセルティックのサポーター
セルティックのサポーターがYou'll Never Walk Aloneを歌うことは世界的に知られておりクラブも公式に曲の使用を認めスタジアムで使用している。
中村俊輔選手の退団時には、彼に対して「あなた(達)は一人ではない(私たちも一緒だ)」と言う意味が篭もっているこの歌がメッセージとして使用されました。
今週のセント・ミレン戦において、セルティックパークは現代のレジェンド中村俊輔を歓迎する。日本からやってきた男が再びセルティックパークのピッチを彩るべくグラスゴーに帰還する。パラダイス(セルティックパーク)に俊輔が戻ってくるのは初めてのこと。ファンにとってはかつてのスコットランド最優秀選手にお目にかかる滅多にない機会となるだろう。(中略)この魔法的なミッドフィルダーのセルティック時代を振り返った時、そこには数多くの伝説的瞬間がある。(中略)天性の能力、必殺の左足、そして大一番で見せた超絶技巧のシュートにより、この先ずっとセルティックが愛情とともに彼を記憶するだろうことは間違いない。
【セルティックパークにおかえりなさい中村俊輔】セルティック公式
セルティックのサポーター
セルティックのサポーター
現在は、プロ生活を始めた古巣横浜マリノスで主将を務める中村俊輔選手ですが、セルティックのサポーターは今も彼を愛して止まないようです!
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