山本太郎氏の元妻?衝撃のヌード写真集発売 渦中の山本氏を直撃
2016/08/03
すまいる
山本太郎(やまもとたろう)
本名:山本 太郎
生年月日:1974年11月24日(40歳)
出生地:兵庫県宝塚市
血液型:A型
日本の政治家、元タレント、元俳優。
生活の党と山本太郎となかまたち所属の参議院議員(1期)、
生活の党と山本太郎となかまたち共同代表兼政策審議会長、
新党ひとりひとり党首。
出演時のグループ名は「アジャコング&戸塚ヨットスクールズ」。ちなみにこのグループ名にも入っている戸塚ヨットスクールズの由来は本人が小さいころに、いたずらをすると必ず母に「戸塚ヨットスクールに入れるぞ!!」と言われていて、「なんとなくつけた」と本人が語っている。
たけしの元気が出るテレビに出ていた頃の山本太郎さん。元気いっぱいで面白かったのを覚えています。まだその当時は高校生だったんですよね。
オイルを塗った逞しい身体に、その時々の「Q(メロリンQやダブリQなど)」を油性ペンで胸に書き、際どい競泳パンツ、黄色の競泳帽姿にステッキというアイテムで、ボディビルの様なポーズでヘヴィメタルバンドジューダス・プリーストの代表曲『ペインキラー』をバックに迫り来るような奇妙なダンスを踊り、締めに「Q!」と叫ぶ。強烈なパフォーマンスや、当時再ブレイクし始めていたポール牧の指パッチン等で注目を浴びる。
メロリンキュー!!って懐かしい・・。その後芸能界入りしたんですよね。
山本自身は遊び感覚で出演していたが、「あんな裸踊りをさせるような学校には通わせられない」と保護者から学校に苦情が寄せられたことで親や学校との関係が悪くなりながらも出演するなど、苦労も多くいじめの被害者になった事もあったという。本人も当時ネタにしている通り、高校を留年し(のち中退)、そこから「ダブリQ!」を編み出した。
テレビで人気者になった山本太郎さん。でも私生活はそのおかげで大変だったようですね。
それ以来、田舎の気のいいあんちゃんなど肉体派でありながら、どこか素朴さを持つ優しく真面目な面と、ヤクザの若頭などの強面も出来る面が定着。ドラマなどで俳優としての起用が増える。以来50本以上の映画、ドラマ等にて俳優として多方面にて出演。演じる役のほとんどが関西出身の設定であるため(本人も関西出身である)、関西弁で演じている。所属事務所はネスト (1991年 - 1998年)。フリーランスの俳優となってから主演した映画『EDEN』では、新宿二丁目のショーパブの店長であるミロという役で初めてのゲイ役に臨んだ。反原発の行動を起こして以来、久々の本業復帰となったが、プロデューサーの李鳳宇から打診があったときには「この時期にボクの主演映画ですか…。李さんは勇気ありますね」と答えたという。
バラエティー番組で活躍するかと思っていた山本太郎さんでしたが、芸能界では俳優として活躍を始めましたね。俳優として良い役やってましたね^^まさか政界デビューするとは・・驚きでした。
テレビドラマ出演デビューは1992年の『しあわせの決断』で、1996年にはNHK連続テレビ小説『ふたりっ子』にヒロインの相手役である海東壮平役で出演。2000年の映画『バトル・ロワイアル』では重要な役柄を演じた。特に『難波金融伝 ミナミの帝王』シリーズの出演回数は20本を超えている。2004年にはNHKの大河ドラマ『新選組!』に登場するなど時代劇役者としても活躍している。
俳優として出演した作品は、どれも面白くて人気のあったドラマばかり。山本太郎さんも素敵でした。レポーターや司会者としても活躍していましたが・・・。政治の世界ではどうなのでしょうか。
2003年12月に開催された「サントリー1万人の第九」第21回公演に、一般の合唱参加者に混じって、テノール・パートにて合唱出演。当時「第九」はおろかクラシック音楽を歌うこと自体初めてだったという自身の公演本番に至る奮闘ぶりは、後日に放映された「1万人の第九」ドキュメンタリー『1万人の第九 山本太郎「第九」を歌う』にて紹介された。
2011年4月、反原発運動を開始。同年5月末にはシス・カンパニー (1998年 - 2011年5月27日)を退社し6月には退社前に決まっていたミュージカルに出演したが、その後フリーランスとなり「EDEN」など映画・舞台等小規模作品にコンスタントに出演している。
2012年12月1日、第46回衆議院議員総選挙への出馬と政治団体「新党 今はひとり」の立ち上げを表明し、同年12月5日に総務省へ届け出た。
最終的には、東京8区から無所属(日本未来の党・社会民主党支持)で出馬。主に反原発、反TPP等を訴え、71,028票を獲得するも次点で落選した。
山本は自民党が圧勝したことに憤慨し、報道陣の前で「このままでは極右化が進んでしまう。日本から脱出した方がいい」「はい、終わり。日本は終わりです。みなさん脱出したほうがいいんじゃないすか」と述べた。
山本太郎さんが政治家としての活動の第一歩は、2011年に始めた反原発運動だったようです。
その頃からフリーランスとなって舞台に出演しながら選挙への出馬をしましたね。
2013年7月21日の第23回参議院議員通常選挙では東京都選挙区から無所属で出馬、666,684票を獲得し4位で初当選した。選挙に際しては、生活の党、社会民主党、緑の党、新社会党の各党の支援を受けた。また、政党ではないが新左翼系の中核派、旧第四インターナショナル各派、労働者共産党などからの支援も受けていたほか、市民の党代表の斎藤まさしが選挙参謀に就いていたとの報道もある。
無所属で選挙へ出馬した山本太郎さん。一度は落選したものの2013年には初当選。その後は山本太郎となかまたちという新党も立ち上げています。山本太郎となかまたちでどんな活動を行っていくのか楽しみですね。
2012年12月に日本未来の党の党名を生活の党(英語: People's Life Party、略称は生活)に改称する形で発足した。党シンボルマークは国民の生活が第一のものを引き継いでいる。
2014年12月に施行された第47回衆議院議員総選挙の結果、政党要件を失い、「その他の政治団体」となった。しかし、12月26日に無所属の参議院議員山本太郎が入党し、政党要件を回復させるとともに、党名を「生活の党と山本太郎となかまたち」に改めた。
日本未来の党から、生活の党、そして生活の党と山本太郎となかまたちへと党名を改めています。
生活の党と山本太郎となかまたちという党は、どんな活動をして私たちにどんな影響を与えていくのでしょうか。
2014年2月に行われた第19回東京都知事選挙では、脱原発を公約した核派・都革新支持の鈴木達夫、共産党・社民党・新社会党・緑の党推薦の宇都宮健児、民主党・結いの党・生活の党支援の細川護熙いずれも表立っては支援せず、脱原発候補への投票を呼びかけるに留めた。
結果は自民党都連・公明党都本部推薦、新党改革支援の舛添要一に大敗し、山本は「効果的な動きが出来なかった自分自身の不甲斐なさを感じる」と述べた。また、細川について「細川さんはワイドショー選挙をできると思って、メディアを信じていたようだが、それは大きな間違いだ」と指摘しつつ、「反旗を翻したファイティングスピリットは感動した」と脱原発を公約したことを評価した。同年12月14日投開票の第47回衆議院議員総選挙では、東京8区から立候補した民主党の円より子支援を表明した。鈴木達夫も同区から立候補したが結果は二人とも落選した(石原伸晃が当選)。生活の党はこの選挙で獲得議席を2に減らす惨敗を喫し、国会議員数4となって政党要件を失っていた。
選挙後、山本は同党に入党し、政党要件を回復させるとともに、党名を「生活の党と山本太郎となかまたち」に改めさせた。また、山本は「無所属の会」を提案したが、小沢は「生活」の名を残すことは譲れなかったので、この名前になったともいう。
小沢一郎さんの生活という名を残すこと・・ということから、生活の党山本太郎となかまたちという党名になったのだとか。不思議な名前ですが、でもインパクトはありますよね。
2012年11月28日に設立された日本未来の党は、12月16日の第46回衆議院議員総選挙で議席を61から9に減らす惨敗を喫し、代表の嘉田由紀子と旧「国民の生活が第一」所属議員との対立が激化した。
対立は収まらず、12月27日に亀井静香が離党、12月28日には分党することを決めた「共同宣言」を発表した。日本未来の党は党名を「生活の党」に改称し、新代表に旧「国民の生活が第一」所属議員の森裕子が就任し、その旨を12月28日に総務省へ届け出た。その後、幹事長兼国会対策委員長に鈴木克昌が就いた。嘉田と阿部知子は分党組織として日本未来の党の名称を引き継いた政治団体「日本未来の党」を立ち上げた。なお、こうした経緯により、政党助成法に基づいて、2013年の政党交付金(8億6500万円)は生活の党が受け取ることとなった。
2014年12月の第47回衆議院議員総選挙を前に、同年11月21日、党代表小沢の右腕とされていた鈴木克昌と小宮山泰子が離党して民主党に復党することを表明。小沢は、党所属議員らを集めた会合で「みんなの好きなようにしなさい。生き残れるような道を選びなさい」と発言し、他党から衆院選に立候補することを容認した。
鈴木の後任の代表代行には、前代表代行の森裕子が復帰した。幹事長職は一時空席とし、小宮山の務めていた選挙対策委員長は代表の小沢が自ら兼任することとなった。総選挙の結果、当選は小選挙区2名にとどまり、参議院議員と合わせて国会議員数が4人となり、また得票率も2%に満たなかったために、12月14日に政党要件を失ったが、12月26日、無所属の参議院議員山本太郎(政治団体新党ひとりひとり代表)が入党し、国会議員が5人となったために政党要件を回復し、名称を「生活の党と山本太郎となかまたち」に改称した。
2015年1月27日に記者会見を行い、小沢一郎と山本太郎の2名が共同代表に就任すると発表した。副代表には主浜了、谷亮子の2名が選任され、政策審議会長を山本が、選挙対策委員長を小沢が、幹事長と国会対策委員長を玉城デニーが兼任することとなった。
生活の党と山本太郎となかまたちと改称した後、生活の党と山本太郎となかまたちという政党は、小沢一郎と山本太郎が共同代表に就任。山本太郎は、政策審議会長となったようです。
党名に自分の名前を入れている山本太郎さん。どんな気分なのでしょうか。
原発問題は、各政党によって違いがありますが、山本太郎となかまたちでは、原発の再稼働、増設は認めず、原発を全廃という姿勢のようですね。
深刻なデフレ下では消費税の増税をしない。
内需拡大と完全雇用を目標とし、財政出動を継続的に行う。
財政出動において、相当部分を地方の裁量に任せる。
デフレ解消のために、日銀による金融緩和を行う。
消費税の増税問題などお金に関する問題も実現すればいいですが・・。山本太郎となかまたちの考えはいいですよね。
中小企業支援のために融資支援制度の拡充、税制措置、行きすぎた規制緩和の見直しを行う。
中央官庁の権限を地方に移管する。
自由貿易のために自由貿易協定(FTA)や経済連携協定(EPA)を積極的推進するが、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)には反対。
終身雇用。ワークシェアリングの導入と普及。
山本太郎となかまたちの政策は、私たちの生活に密着しているかな?!
中学卒業まで子ども一人当たり年間31万2000円の手当を支給。高校無償化は堅持。
中国、韓国をはじめとするアジア諸国との信頼関係の構築、連携を強化する。また、アジアの平和維持のため、日本が調整役を果たす。
日本の安全保障の根幹は日米同盟であり、日米両国の相互信頼関係を築き、対等な真の日米関係を確立する。
日米や中国などのアジア・・などとの関係や、子育て世代に対する支援など、山本太郎となかまたちの政策は私たちの生活に近いところを見ているように感じます。
国連憲章や日本国憲法前文の精神に則った安全保障基本法を制定し、国連平和維持活動への参加を進める。
日本への武力攻撃、大規模災害、テロに備えて、内閣に国家非常事態対処会議を設ける。
集団的自衛権については、日本への直接攻撃、および周辺事態法における日本の安全が脅かされる場合にのみ、米国と共同で対処するものとする。自民党の憲法解釈の変更には反対する。
生活の党、山本太郎となかまたちの掲げている政策は、色々あります。
その中でも、原発問題や税金問題など、実現できるならいいなというものばかり。
山本太郎となかまたちが、私たちの暮らしに良い影響を与えてくれるといいですね。
たけしのダンス甲子園から登場した山本太郎さん。その当時はまだ高校生でした。その後は俳優としてタレントとして活躍する中で、自分の思想を政治の世界で活かしたいという思いから政界へ・・。今では、山本太郎となかまたちという政党もあるほど。自分の思っていることや考えていることを実行していく力を持っているのはすごいなと思いました。山本太郎となかまたちという政党が、これからどのような活動をしていくのか、ちょっと気になりますね。山本太郎となかまたちには、柔ちゃんコト田村亮子さんなどもいるようで・・話題性は抜群?!ですよね。山本太郎となかまたちという政党をこれからも見守っていきたいと思います。
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