【NPB】大投手・田中将大の年度別成績をまとめてみた!【MLB】
2021/12/17
kuroneko18
国籍 中華民国(台湾)
出身地 日本
東京府東京市本所区(現:東京都墨田区)
生年月日 1940年5月20日(75歳)
身長 177 cm
体重 79 kg
当時右打ちだった王に対して「なぜ君は左で投げるのに右で打つんだ?」と質問すると、王は「それは、オヤジから箸と鉛筆と算盤は右でやれと言われているので、バットも右で持たないと親父に文句言われると思って…」と答えた。荒川は「今の野球は左利きの選手に希少価値があるのに、君はわざわざ右で打つなんてもったいない話だ…」と言った
素晴らしい成績を多く残している王貞治さんですが、国籍は日本ではなかったのですね。
知らない人も多いのではないでしょうか。
荒川は、王がプロの速球に対応しようとボールを前に迎えに行き、グリップポジションが安定しないことが欠点であると判断。その修正のためにさまざまなフォームを試し、そのひとつが一本足打法であった。
王貞治さんは、学生時代から素晴らしい成績を残しているようです。
この成績は高校野球でも突出していたもののようですね。
しかし、王貞治さんの学業の成績は今ひとつだったというウワサもあります。
1975年6月17日の大洋戦で王は、打席に立って構えたとき、違和感を覚えました。
何打席入ってもその違和感を拭い去ることができなかった王は試合後に思い切って審判団に
「バッタボックスからマウンドのプレートまでの距離を測ってほしい」と頼みました。
で、審判団が実際に測ってみると、何とバッターボックスがバックネット側に25センチ延びていたそうです。
しかし、このことに気づいたのは王ただ一人
後世に残る成績を打ち立てた王貞治さん。
その成績を残せたのは、王貞治さんの鋭い感覚にもあったのかもしれませんね。
打者としての偉大さから俗に「王ボール」というものが存在したといわれ、他の打者ならストライクのコースでも、王が見送ったらボールとされることが多々あった
王貞治さんの成績は誰が見ても素晴らしいものでしたから、審判もついつい王貞治さんに影響されてしまうのかもしれませんね。
これだけの成績を残せばそうなるのも、仕方ないのかもしれませんね。
王貞治さんが選手時代に残した成績は、今も語り継がれています。
その王貞治さんが残した成績は一時期世界のメディアも注目していたようです。
自分の成績を世界が注目している。王貞治さんのプレッシャーは計り知れないものがあったようです。
756号を打たれた鈴木は当時、報道陣から取材攻めに遭っていた。これを慮った王は鈴木に声を掛け「俺のせいでえらいことになってしまったな。色々言われるだろうが、絶対に負けるなよ」と励ました
王貞治さんがすごいところは、成績だけではなく、他人への気遣いもすばらしいというところにあるようです。
自分が成績を残すだけではなく、自分が成績を残したことで潰れてしまう選手がいないように、王貞治さんは細かな気遣いをしていたのですね。
成績だけではなく、人柄も王貞治さんは素晴らしいようです。
選手というのは想像以上に俺の顔色をうかがっている。だから俺もあまり難しい顔をせず、選手が失敗を恐れず、のびのびできるようにしないと」と選手に歩み寄る発言をした
王貞治さんの監督としてのスタート成績は決して良いものではなかったようです。
しかし、王貞治さんはファンからの心無い言葉にも、成績を残せばファンも喜ぶと耐え忍んでいたのだそうです。
そして王貞治さんは、チーム成績を少しずつ伸ばし、やがてファンも納得する成績を収めることができました。
2006年3月開催の「第1回 ワールド・ベースボール・クラシック」日本代表チーム監督に就任。3月21日の決勝戦でキューバを10-6で破り、日本を初代チャンピオン (世界一) へと導いた
ついに王貞治さんの成績は世界へと向かいます。
王貞治さんは、日本代表の監督として一番良い成績を収めるべく世界へと出発しました。
そして日本中のみんなが待ち望んだ素晴らしい成績を収め、王貞治さんは凱旋したのです。
いかがでしたか。
王貞治さんの成績についてまとめてみました。
王貞治さんの成績は素晴らしいものではありますが、今尚多くの人に愛されているのは、その人柄故のようですね。
これからも、王貞治さんの活躍を期待したいです。
この記事に関する記事
Copyright© 運営事務局