2015/10/30
かののの
長嶋亜希子(ながしまあきこ)
旧姓:西村亜希子
生年月日:1943年1月5日
没年月日: 2007年9月18日
出身地:東京都渋谷区
読売ジャイアンツの終身名誉監督である長嶋茂雄夫人で主婦、会社役員。
夫・茂雄の個人事務所である株式会社オフィスエヌの代表取締役を務めていた。
学歴:田園調布雙葉中学校・高等学校在学中に、米国へ留学し、現地の高校、ミネソタ州の聖テレサ大学を卒業。そのため、英語・フランス語・スペイン語に堪能。
祖父西村辰五郎は出版社・東雲堂書店を経営し、石川啄木『一握の砂』『悲しき玩具』、斎藤茂吉『赤光』、北原白秋『桐の花』、若山牧水『別離』など、文学史に残る歌集を出版した人物。西村陽吉の名で自らも歌人として活躍し、口語短歌の先駆けの一人として知られる。父西村光雄は内外出版社の代表を務めた人物。
語学が堪能で優秀な長嶋茂雄さんの妻・亜希子さん。
学生時代は、留学するなどとても国際的な女性です。
長嶋茂雄さんの妻、亜希子さん。語学が堪能でとても優秀な女性だったようですね。
東京オリンピックでは、その素晴らしい語学力を活かしてコンパニオンとして活躍したようです。
そこで、夫となる長嶋茂雄さんに出会うのですが・・・
長嶋選手は、王貞治選手とともに、報知の「ON五輪を行く」という企画で、特派記者となっていた。企画のひとつに、五輪コンパニオンとの座談会があり、長嶋さんは、ひと目ぼれしたのである
長嶋茂雄さんが、のちの妻となる亜希子さんに出会った座談会。出会った瞬間に一目惚れしてしまったようです。長嶋茂雄さん・・そこから情熱的なアタックが始まるのです・・・。
<座談会で、しっかり彼女の勤務時間を確認していた。コンパニオンは、朝の9時に帝国ホテルの本部で打ち合わせてから会場に散る。逆算すれば、8時前がいい。朝の電話でデートを申し込もう。ありったけの目覚まし時計を6時にセットしたが、気分が高まって2時間も前に目が覚めた>
亜希子さんに一目惚れした長嶋茂雄さん。 そこからは毎日のように電話をかけ、猛アピール。
そのかいあって、長嶋茂雄さんの妻となるのです。
長嶋茂雄さんが亜希子さんに一目惚れしてから40日目には婚約と超スピード婚となりました。
長嶋茂雄さんの強い思いが感じられますよね。
妻となった亜希子さん。 そこまで長嶋茂雄さんに思われてしまったら断る理由はないかも?!
結婚式はカトリック協会、披露宴はホテルニューオータニの長嶋茂雄夫妻。
長嶋茂雄さん。とても幸せそうですね。
そして、妻となった亜希子さんも本当にキレイでした。
茂雄29歳、亜希子22歳だった。茂雄のモットーである「男の職場に顔出すな」を忠実に守り、また2男・2女をもうけるなど、家族円満の生活を送った。2004年3月、夫が脳梗塞で倒れた時も、そのリハビリテーションに付き合った。
長嶋茂雄さんが結婚した年齢は29歳。妻となった亜希子さんはまだ22歳でした。
結婚後は、4人の子供を授かり、長嶋茂雄の妻としてはもちろんですが、子供たちの母として家庭を守ってきたようです。
長嶋茂雄さんが脳梗塞で倒れた時には、リハビリなど看病を献身的に行っていた妻・亜希子さん。
本当に素敵な奥さんだったようです。長嶋茂雄さんは良き妻に出会えて幸せですね。
病院では一度も意識が戻らなかった。(前日は)食事も一緒だったんですが…。私の車で自宅に送ろうとしたが…。途中で呼吸が苦しそうだった。(父を含め家族は)ずっと母の近くにいます。まだ現実を受け入れられない。脳梗塞で倒れてからはお互いに健康状態が悪いため、別々の家で暮らすこともあったが、この日は自宅に戻った亜希子さんのなきがらから離れることはなかった長嶋茂雄という男を陰から支えた気丈な母。家族にも何も(不満を)言わなかった。トラブルもいろいろあったと思いますが、最後まで聞けなかった
長嶋茂雄さんの妻・亜希子さんは突然、体調を崩しそのまま入院。意識が戻ることなく他界。
息子・長嶋一茂さんとの食事を楽しんだ後の出来事だったようです。
長い期間、長嶋茂雄の妻として陰ながら夫、長嶋茂雄を支えてきた偉大な妻でした。
心不全のために亡くなられた、長嶋茂雄さんの妻、亜希子さん。家族に見守られてその最期を迎えたようです
長嶋茂雄さんの妻、亜希子さん。 夫となる長嶋茂雄さんとの出会いから亡くなられる日まで、長嶋茂雄の妻として楽しい事や嬉しい事は沢山あったと思います。
しかし、同じくらい妻として大変ことも沢山あったのではないでしょうか。
長嶋茂雄さんのことを良く知る人たちは、妻・亜希子さんがいたから、偉大な長嶋茂雄が生まれた、というほど妻・亜希子さんの存在は長嶋茂雄さんにとって欠かすことのできない存在だったようです。
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